#02 村雨礼二と契約結婚する話(後編)

─1─

 わたしはきっと、社畜となる星の下に生まれたのだろう。

 大阪出張から帰った当日に泊まり込み必須の業務を割り振られてしまった。

 別部署の新人がバックれたとかで、うちの上司が喜んでいた。(くだん)の部署長とは犬猿の仲だからだ。その皺寄せが寄せに寄せられてわたしに集まっているんですが。しかも社内サーバーで処理しないといけないから持ち帰り残業もできない。

 照明を絞られた暗い社内に、わたしの深いため息が響く。残業で最後のひとりになるのは、最初のときこそ怖かった。もともと怖がりだったわたしは、同じ階のトイレに行くのが怖くて膀胱炎になったほどだ。いまでは真っ暗闇でトイレも平気になった。椅子で寝るのも慣れたもの。強くなるもんだ、人間って。

 仕事が一段落したので、私用のスマホを取り出してメールを確認した。村雨先生からの連絡はない。いや、連絡がないのが当たり前なので、これはただ単にわたしが寂しいだけ。

 月一のアレをあんな形で消費してしまったのが悔やまれる。今度こそ万全のコンディションで挑まなければ。そんなヤる気に満ちているわたしのスマホがブルっと短く振動した。通知欄に表示された〈村雨礼二〉を見て、心臓が口から飛び出しそうになる。

 メールを開くと〈何時に帰宅するか連絡を入れろ〉の一文。平日なのにマンションに居るのだろうか。惜しいことをした。もう終電はなくなっている。泣く泣く〈きょうは会社に泊まり込みです😭〉と送信した。程なくして、今度は電話の着信音が鳴る。

「はい、もしもし」

〈マヌケ〉

 わ、開口一番に罵られた。ちょっと嬉しい。

〈周りに誰かいるか?〉

「わたしだけですけど」

〈帰宅できない理由はなんだ〉

「仕事が押していまして」

〈あなたの会社には無能しかいないのか?〉

 うーん、村雨先生と比べたら地球人口の九九・九九%は無能なんじゃないかしら。イエスとしか答えられない質問をはぐらかすように、わたしは(おど)けた声を出した。

「あーあ。残念だなあ。寂しいなあ。村雨先生に会いたかったなあ」

〈私に会いたければ帰ってこい〉

 心底、ドキッとした。

 村雨先生、自覚なくわたしを(たぶら)かすんだから。

「先生の声が聴けたので、きょうのところはヨシとします」

 電話の向こうで長い無言が続く。電話が切れちゃったのかなと一瞬思ったが、ちゃんと電波は繋がっているらしい。なんだろ、「きょうのところはヨシとする」の言い方が偉そうだったりした?

〈契約書を更新する。次の休みが決まったら連絡しろ。二日以上の連休が望ましい〉

「エッ」

 思わずひっくり返った声が出る。

 いよいよ本気で怒らせたようだ。出張疲れと残業で疲れ果てていた脳が急稼働する。わたしがやるべきこと。そりゃあもう謝罪一択だ。

「り、離婚は待ってください!」

〈……なんの話だ〉

「あの、確かに残業で家事は(おろそ)かになっている状況はわたしも危惧しています。本日も連絡不足で申し訳ありませんでした。現在、弊社は圧倒的な人手不足でして──」

〈言い訳で私の時間を浪費したいのか?〉

 あーーーーだめだ。完全に選択肢を間違えた。バッドエンドへのフラグが並んでいる。

「……死ぬ気で有休もぎ取るので、連絡をお待ちください」

〈私が欲しいのはあなたの誠意だ。分かったらいますぐ帰宅するかホテルを探せ。移動はタクシーにしろ。会社前に呼んで、ひとりになる時間を極力減らせ〉

「……あの、もしかして心配してくれているんですか?」

〈先日のことをもう忘れたのか。あなたは若い女性で、いまは深夜だ。リスクを考えろ〉

「はーい! タクシーで帰ります! いますぐ配車頼みます!」

 嬉しくて明るい声が出てしまった。はあ、と電話の向こうで村雨先生のため息が聴こえる。わざと聴かせているのだ、これは。

「私は先に寝ている。帰ってきても起こすな」

「承知しました。あの、先生」

「なんだ」

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 タクシーの予約を行いながら、わたしは素早く片付けと戸締りをした。残業の疲れが吹き飛ぶほどに脳と身体が喜んでいる。そして改めて、わたしは村雨先生のことを好きになっていると思い知った。こりゃあ、離婚を切り出されたら泣いちゃうかも。

 そう思いながら、わたしは社用カレンダーを眺めて休める日を探すのだった。

─2─

 時は少し巻き戻る。

 大阪から帰ってすぐ、村雨一希の家へ赴いた。

 電話で済ませなかったのは、自分が顔を見せた方が喜ぶと自覚しているからだ。手土産を渡しつつ相談事があると伝えると、兄は驚きつつも喜びの表情を見せた。

「兄貴はどこで結婚指輪を買った?」

「え、どこだったっけ。後で確認してみるけど。なんで?」

「購入を検討している」

「奥さんの誕生日近いのか? オレもなんか用意するぞ」

「いや。買うのは結婚指輪だ」

 一希は笑顔のまま表情を凍りつかせた。たっぷり三秒言葉を失ってから大声をあげる。

「はぁ!? おまっ、結婚して何ヶ月経ってんだよ!?」

「四ヶ月と二十日」

「──なあ、礼二。兄ちゃんはな、弟に『何やってたんだ』って叱咤する意味で言ったんだぞ。今更お前の記憶力を確かめたわけじゃない」

「理解している。冗談だ。ちなみに、向こうから不要だと言われたので買わなかっただけだ」

「ん? てことは、奥さんに叱られてようやくって訳でもないのか。『やっぱり欲しい』って言われたんなら、奥さんの中に理想があるんだろ。サプライズせずにちゃんと選んでもらった方がいいぞ」

「ねだられたわけではない。私が個人的に動いている」

 その言葉を聞いた兄は、ぱあっと顔を明るくして村雨礼二の肩を叩いた。大きな手のひらからの衝撃は相応に大きく、飲んでいたコーヒーを吐き出しそうになる。

 弟が誰かのために──愛する家族のために自主的に動いているのが嬉しくて堪らないという顔をしている。

「更に質問があるのだが」

 なんでも聞けと胸を張る兄へさらに尋ねた。妻に──それも底抜けにマヌケで圧倒的に勘の鈍い──手を焼いている現状に、彼ならば自分には出せない答えをくれるはずだ。

「好意は、どうやって伝えるものだ?」

「んー、月並みな意見だけどさ。やっぱ《愛してる》って言うことじゃねーの。面と向かってさ」

「別案が欲しい」

「礼二。言葉は大事だぞ。分かりきっていることでも、()えて言葉にすることが大事なんだ。お前だって分かるだろ?」

 兄の回答もそれに続く言葉も、至極(しごく)一般的で模範的で倫理的な、真っ当な答えだ。道徳の教科書にも書いているような普遍的かつ面白みもない教訓。けれどもそれは、数多の〝誰か〟ではなく〝村雨礼二〟に向けられた回答だ。それだけで考慮に値する。

「あとは、自分がしてもらって嬉しかったことをやってあげるとかかな。お前も愛してるって言われたら嬉しいだろ?」

 村雨礼二は肯定も否定もしなかった。

 妻は「愛してます!」「好き!」「きょうもビジュ最高」と様々な言葉で好意を伝えてくるが、嬉しいとは思えない。最初から、彼女の言葉は気持ちとズレている。いや、わざとズラしている。見つかりたくないものを隠した場所から目を逸らすように、彼女はずっと相応しい言葉から逃げて、「好き」やら「愛してる」といった言葉に言い換えているのだ。

 彼女は厄介な思考の(おり)を抱えている。悪性腫瘍のようなものだ。いずれ取り除かなければならない。それが村雨礼二の診断結果だった。

─3─

 先生の指示通り、なんとかもぎ取った有給二日間の初日──本邸に帰ってきた先生は紙束を取り出して単刀直入に述べた。

「こちらが新しい契約書だ。時間はかかっても構わない。いま目を通せ」

 ビジネススマイルを浮かべて丁重に契約書を受け取った。ご丁寧にも変更箇所にマーカーが引いてある。わたしは恐る恐る約定を見直した。まずは新旧の用紙を並べて一枚一枚ざっと目を通す。

「あ──ちょっと!! 先生、マーカー引いてないところもシレッと変えてる!! こんなの詐欺師の手法ですよ!!」

 チッ、と舌打ちが返ってくる。自分の有能さに自覚的な先生は「見落としていた」なんて口が裂けても言えないのだろう。なんて狡猾なんだ。すき。

 これは一字ずつよく見る必要がありそうだ。どんな意地悪な一文が追加されているかわかったもんじゃない。

 村雨先生はダイニングチェアにどっかりと腰を()え、ふんぞり返るように足を組んでわたしを()めつけている。正直言って、ご褒美みたいな画角だ。

「……あの、例のところなんですが」

「例の、では分からんな。声に出して読め」

「《性交渉は原則月に一回とする》が週一になっているんですが」

「そうだ。そのように書き換えた。それが何か?」

 さも当然そうな面で先生は答える。ここもマーカー引いてないサイレント修正だし。

「先生はよろしいんですか? お忙しいのでは?」

「原則の意味を知らんのか。適宜状況に合わせて対応すればいい。前提が嫌ならば申し出ろ。これは双方合意に基づく契約だ」

 常々思っていたけど、先生、割と《合意》って言葉好きだよなあ。ちょくちょく口にしているイメージがある。

「嫌ではないですが」

「が?」

「その、先生、良かったですか? わたしとするの……」

 口に出すと恥ずかしい。こんなピロートークでするような話題を真っ昼間に、しかも契約書を挟んでしなくてもいいだろうに。

「存外悪くなかった」

 その言葉にホッとする。正直言って、歴代彼氏には不評だったからだ。

「それで、あなたは?」

「え」

「質問に答えたのだから、あなたもそうするべきだ。私との性交渉には満足したか?」

 ふん、と村雨先生は組んだ足を解くと、頬杖を付いて意地の悪い視線を送る。綺麗な唇をニヤッと吊り上げて、楽しそうな顔だ。ちょっと悔しい。わたしは開き直ることにした。

「はいはい。気持ちよかったですよ。不感症と噂のわたしのボディも大満足ですとも」

「あなたは私を怒らせる天才だな。過去の男の話を持ち出す必要性があったか?」

 ……確かに。これは下品な話題だった。言い返せないので、申し訳ありませんと頭を下げる。わたし、会社と同じ頻度で村雨先生に頭下げてるな。

「そもそも、過去のマヌケどもが揃いも揃って下手クソだっただけでは? あなたは存外オルガズムに達し易」

「あー! あー! 次の議題です!! 九ページ目、条項八の(イ)について……」

 大声で掻き消して、サクサクと契約書の見直しを進める。時折り赤字で修正を加えさせてもらいながら、全二十二ページをようやく読み終えた。

「ご苦労。修正稿だ。問題がなければサインを」

 自宅プリンタで印刷したものに改めて目を通す。うん、今度こそサイレンス修正はないようだ。手早くサインを済ませ、各々で保管する。これできょうのタスクは終わりかなと思いきや、先生は「午後は買いものに付き合え」と急に言い出した。

「えーと、どこへ?」

「百貨店だ」

「何をお買い求めで?」

「装飾品だ」

 村雨先生が装飾品? アイウェア以外はこれといってアクセサリー類を身につけていないので、なんだか似合わない感じだ。

「贈りものですか?」

「ああ。あなたの意見がほしい。詳細は着いてから話す」

 わたしも詳しくはないのでお役に立てるかは分からないけれど、先生が頼ってくれるなんて嬉しい話だ。先生と外出は久しぶりだし、喜んでお供しよう。それに、一緒に買いものなんて初めてでは?

「初デートですね!」

「そうだな」

 うっきうきで茶化したつもりがツッコミもなく流されて、肩透かしを食らう。

「……私は『そうだな』と言ったんだ」

 わたしの表情を見て何か気に(さわ)ったのか、先生は苦々しい顔でそんなことを言う。

「これはデートの誘いだ」

「──マジです?」

「そして初めてというのも同じ認識だ。よって、初デートという言葉に同意した。あなたは私の発言を否定的に捉えるのをやめろ。言葉の通りに受け取れ。私は常に最適な言葉を最適に使っている」

 はあ、とわたしは頷くしかない。きょうはやけに長文で喋る先生だ。ぽかんとしているわたしに「支度が終わったら声をかけろ」とだけ続けて、先生はソファで本を読みはじめた。




 初デートにかこつけて、わたしはでき得る限りのおしゃれをして気合いを入れたつもりだった。しかし目的地に着いてすぐに、わたしの気合いは不十分だったと思い知る。

「村雨さま、いつもご利用ありがとうございます。本日はわたくし鈴木と伊富(いとう)が担当させていただきます」

 ご丁寧な挨拶とともにいただいた名刺には、外商部門と書かれている。村雨先生って、音に聞こえる外商担当がつくような人なの!? いくら天才外科医と言っても若手医師がそんなお金持っていることある? ご実家の(つて)? ブラックジャックみたいなことして違法に稼いでない?

「事前に連絡した通りだ。色々見て周りたい」

「はい。では参りましょう。まずご紹介したいのはこちらのブランドの──」

 次々と目の前に出される指輪の数々に、わたしは圧倒される。先生に「どういうことですか」と問い質したくても、外商さんのいる前で下品に戸惑う様子は見せたくない。先生の面子(メンツ)にも関わることだからだ。わたしは必死に平静を取り繕って村雨先生の一歩後ろに張り付いていた。

「奥さまは七号サイズと指がほっそりされていますから、こちらのデザインがよく映えるかと存じます」

 なんで赤の他人がわたしの指輪のサイズまで知ってるの!? 自分で測ったこともないんですが!?

「どうだ?」

 どうだって言われても。じわじわと認識させられてるけど、これってどう考えてもわたしの指輪を買おうとしてますよね。

「お気に召すものがないでしょうか」

 鈴木さん、不安そうな顔しないで。全部わたしたちが──いや違うな。先生が、村雨先生だけが悪い。

「……いえ。きょうは礼二さんのお買いものだと聞いていたので、びっくりしちゃって。どれも素敵で目移りしちゃいます」

 ちょっと嫌味をこめて発言する。人前なので礼二さん呼びだ。

「結婚指輪なのだから、夫婦の買いものだ。夫婦の買いものということは、私の買いものでもある」

 結婚指輪とな。

 き、い、て、な、い、ん、で、す、が。

 声に出さず、口の形で訴えかける。以前耳が聞こえなくなったときに、読唇術ができるのは分かっている。

「事前に提案したら断っただろう? 四の五の言わずに好きなものを選べ」

「せん──礼二さん、選んでくれませんか?」

「私に美的センスを期待されても困るのだがな」

 そう言って、ショーケースの上に出されたものの中から一つを選んで左手の薬指に()めてくれる。なるほど、鈴木さんの見立て通り似合っている──気がする。

 価格で選ぼうにも、ご丁寧に値札は伏せられているので知りようもない。それなら、お言葉に甘えて好きなものを選ぶことにしよう。

 いま嵌めている指輪とペアのものを出してもらい、村雨先生の薬指に嵌める。先生の号数もすでに伝えてあったのか、サイズはぴったりだ。ロジウムコーティングをしていないプラチナと説明されたけど、ほかのリングとは違う色味が村雨先生にぴったりだ。

「先生はブルベだからよく似合いますね。これにしましょう」

「他はいいのか?」

「わたしはこれがいいです」

 とんとん拍子に購入が決まり、そのまま身につけて帰ることにした。

 恭しく見送られながら退店し、しばらく歩いてようやく人心地(ひとごこち)つく。空気が美味しい。改めて左手を掲げて上品に輝く結婚指輪を見る。素敵だ。必要ないと思っていたけど、とても嬉しい。

 なんだかくすぐったい気分だ。無性に走り出したくて堪らない。もう何度目になるかもしれないお礼を伝える。

「村雨先生、ありがとうございます! 大切にしますね」

「虫除けなのだから肌身離さずつけておけ。それから、はしゃぐなら帰ってからにしろ」

 先生、そんなにナンパされたことを気にしてたんだ。それとも、わたしが不貞をしないかの心配なのかな。きょう更新した契約書にも、不貞を禁じる文章が追加されていた。お見合いのときは「物足りないのであれば外部で発散して構わない」とか言ってたくせに。まあ、不貞なんてするつもりも予定もないけど。

「本日の予定はこれで終わりですか?」

「もうひとつ付き合ってもらう。が、家で済ますので問題はない」

 村雨先生、本当にわたしに情報をくれやしない。まあ、それでもお供しましょう、どこまでも。

//////////

「今夜あなたを抱くので、上がったら寝室に来てくれ」

「──はい?」

 帰宅して夕飯を食べ、村雨先生の入浴中に後片づけ。入れ替わりでわたしがお風呂に向かおうとした最中、いきなりそんなことを言われた。

 ──二日休みを取れってそういうことだったんですか?

 ──週一に変更した途端にですか?

 ──今回は事前告知あるんですね。直前も直前ですが。

 込み上がる言葉を飲み込んで飲み込んで、ようやく口にできたのは「しょ、承知しました……」だけだった。さすが村雨礼二。いい雰囲気になったら流れでとか軽めのジャブでお誘いとかじゃないんだ。

 わたしはお風呂場へ駆け込むとそれはもう丁寧に身体をお手入れして、可愛いルームウェアに着替え、「いざゆかん」と村雨先生の寝室へ向かった。


 ……どうしよう。

 ヤると意気込んで対面するの、すごく恥ずかしい。一回目はお酒の勢いもあったけど、いまは素面(しらふ)だし。一ヶ月ぶり二回目っていう絶妙なスパンもわたしを不安にさせる。

「いつまで突っ立っている」

 ドア口に立ち尽くしたわたしに、村雨先生は呆れた顔で言った。その表情も口調もいつもの村雨先生とちっとも変わらなくて、すごく安心する。

 ネイビーで統一された寝具の上に遠慮がちに乗り、村雨先生に抱きつく。そのまま胸元に顔を埋めて深呼吸をした。パジャマの綿素材と、無香料の柔軟剤と、お風呂の石鹸と、村雨先生の匂い。あー満たされる。

「吸うな」

「ひぎゅ」

 村雨先生はわたしの下顎をガッと掴んで顔を上げさせた。眼鏡の奥の目とパチリと目が合う。なんでも見透かしそうなその瞳から、目を反らせない。

「……眼鏡、外さないんですか?」

「あなたの顔が見えなくなる」

「壊しちゃいそうで心配です」

 先生は意外にも素直に眼鏡を外してくれた。うぉおおおおおお!!! 裸眼!! 裸眼の村雨礼二!! 目つきの悪さが当社比一・五倍。最高。今度お義兄さんにアルバムを見せてもらおう。眼鏡をかける前の、幼少期村雨礼二を摂取したい。

「……何も見えん。が、余計なことを考えているな?」

「村雨先生のことだけ考えていますよ?」

 ふん、と先生は鼻を鳴らしてわたしに手を伸ばした。その手を取って引き寄せる。わたしが下になる形で、ベッドに横たわった。

 すりっと手の甲で頬を撫でられて、ぞくりと肌が(あわ)立つ。親指で唇に触れられて、流れるようにキスをする。ホテルではよく味わえなかった先生の唇。吐息。温度。におい。感触。舌。唾液。ひとつひとつを鮮明に感じとってしまう。深くゆっくりとしたキスは()めどきを見失って永遠かと思うくらいに続いた。それでも呼吸が苦しくないのは、先生の気遣いのお陰だろうか。同時に、まるで別人のように優しく穏やかな手つきで身体を愛撫される。

 ようやく小休止が挟まれたとき、村雨先生は小さく笑った。

「《不感症》だったか? ド素人のクソどもがマヌケな診断を下したものだ」

 恥ずかしくて反論もできない。自分でもはっきりと、下着の湿りを感じているからだ。先生がわたしの肌に触れるたび、それが身体のどこでも、わたしに快感を与えてしまう。鼠蹊部(そけいぶ)尾骶骨(びていこつ)をなぞられるだけでも気持ちいいなんておかしい。

 むかしは演技で色っぽい声を上げることさえあったのに、いまは声を抑えることさえ難しい。まだ肝心なところを触られていないのに。これから、いま以上の快感が来ると思うと急に怖くなった。

「……ま、待ってください……っ、からだ、おかしくって」

「おかしくない。あなたは正常だ」

 キスをはじめてから随分経つのに、先生は乳首にも秘部にも触れてくれない。快感を怖がりながら待つわたしを焦らすように、ずっと優しく肌に触れているだけ。おかしい。身体の深いところがじんわりと気持ちよくなって、(とろ)けそうだ。こんなのおかしい。

「ひ、ぁ」

 秘部の割れ目から、先生の指が滑り込む。思わず腰が引けそうになるのを、先生に抑え込まれてしまった。くる。きちゃう。確かな予感がいっそうわたしを過敏にさせる。いま刺激されたら確実に、おかしくなっちゃう。

「あなたは、わざと快感から逃げる傾向がある。不感症と思われたのはそのせいだろう」

「そ、んなこ──ふ、あぁっ♡」

 浅いところを擦られて、全身を突き抜けるようなオーガズムがあった。それと同時にぷしゅっと言う小さな水音がして血の気が引く。しょっぱい匂いを感じた。まさか膀胱まで馬鹿になって漏らしちゃった?

「あ、あっ、ご、ごめんなさ……」

「心配するな。いわゆる潮吹きだ」

「しっ……!?」

「余程良かったようだ。あなたの身体は大変素直で好ましい」

 そう言って村雨先生はくちゃくちゃと指の動きを再開させる。

「んっ、ふ、あっ♡ 待っ──♡ おかし、おかしくなるっ♡」

挿入()れてやりたいのはやまやまだが、優しくすると約束したのでな」

「ちがっ、待って、やだっ♡ 止めてっ♡ きちゃ、きちゃう、なんかくるッ♡♡♡♡」

 またビクビクと膣内が痙攣する。頭がくらくらする。涙で滲む視野角を少し下げてみると、先生の袖口がぐっしょりと濡れて色が変わっている。恥ずかしくて目を逸らしたいのにそれができない。

 そして、下腹部に目をやる過程で気づいてしまった。まだ一度も触れられていない自分の乳頭が、ぴんと勃って主張しているのを。触ってほしい。ここも気持ちよくしてほしい。

「っ、ひぅ……」

「どうした?」

「せんせ、触って……む、ね」

「いま手が離せないのだが。自分で慰めないのか?」

 意地悪だ。優しくするって言ったのに。いじわる、いじわる、先生のいじわる。

「やだぁ……っ、先生がいい……!」

 ふっ、と先生の唇が美しく歪む。

 ぴんと勃った乳首を親指で真上から潰されただけで、わたしはつま先を伸ばして達してしまった。

「ははっ、ここまで乱れてもまだ認められんか? 不感症どころかとんだスキモノだぞ」

 ちがうちがう、とわたしは舌足らずで子どもじみた反論をする。

「先生だけだもん……っ、きもちいのはっ♡♡♡♡ むやしゃめ先生だけっ♡♡♡♡」

「そうだ。よく覚えておけ。あなたを満足させられるのは私だけだ」

 ようやく先生がパジャマのズボンを下げる。ああ、やっと。やっと挿入()れてもらえる。でも先生を見ていると、どうしても衝動が抑えられなくて。わたしは、身体を起こして先生の陰茎に手を伸ばしていた。まさにコンドームを付けようとしていた先生が声を上げる。

「おい」

「わたしも、しますっ♡ させてください」

 答えが返ってくる前に、わたしは陰茎を口内に含んだ。

 わたしの肩を先生が掴む。先生の固い隠毛が鼻先にちくちく触れて強く香る。歯を当てないように口を()めて、亀頭や裏筋に舌を這わせつつ、睾丸も優しく揉む。不感症って馬鹿にされても、フェラチオのテクニックだけは褒められたもんね。先生のことも気持ちよくさせちゃお──

「はなせっ」

 もう少しで良い感じだったのに、先生に無理やり引き抜かれてしまった。先生の精液、飲みたかったのにな。先走りの苦い味を飲み込みながら「へ、下手でした?」と尋ねた。回答はない。

 村雨先生は──はじめて観る顔をしていた。蒼白い顔が赤く上気して、激怒しているようにも戸惑っているようにも見えた。

「この、クソ患者が」

「うぇっ」

 ブチギレておられる。激おこである。なんで、男のひとってみんな喜ぶもんじゃないの!? 村雨先生、ちんちん弱いの!?

「いつどこの男に仕込まれたか知らんが、非常に不快だ。クソッ。私の計画を乱すな」

 罵られているのに、めずらしく感情に振り回されている村雨先生を見ているとお股がきゅんとしちゃう。わたしはドMなのかもしれない。

 両膝を掴まれて股を割り開かれ、そこに顔を突っ込まれる──アレッ!?

「ちょっ、せんせ!? なにしゅ──んんっ♡」

 クリトリスを強く吸われて、また腰がぶるぶると震える。吸引されるとこんな感じなんだ。先生にこんなところに口をつけられたくないのに、腰が勝手に浮いてしまう。やだやだと言いながら、逆に膝で先生の顔を強く押し付けてしまう。

「せんっ、やっ♡ だめだめだめ♡♡♡♡」

 そのまま何度かイかされ、わたしがへとへとになってベッドに沈み込んでいると、馬乗りになった先生がわたしを嘲った。唇をぺろりと舐める姿がセクシーだ。

「いままでの男たちは、フェラチオはさせるくせにクンニリングスはしてくれなかったのか? あなたは甲斐性なしのダメ男が好みのようだな。それともただただ男運がないだけか。哀れとしか言いようがない」

 わたしに悪口を言うときの先生、めちゃくちゃ楽しそうなんだよな。凶悪な顔で見下ろされるのもはちゃめちゃに良き。良きだけど。

 うぅー、とわたしは唸り声で不服の意を示す。快感による身体の緊張、絶頂のあとにやってくる筋肉の弛緩の繰り返しで、もう何時間も(なぶ)られたような気分になっている。

 先生は(おもむろ)にわたしの足を引き寄せた。

 とっくにふやふやになった膣に、先生の亀頭があてがわれる。先っぽをぬるぬると擦り付けて、ずぷんと中に侵入してくる。

「あっ♡」

「終わった顔をするな。仕上げがまだだ」

 両腕を掴まれ、引き寄せられながら腰を打ち付けられる。気持ち良くないはずがない。下から突き上げられる感覚に、身体も脳も揺さぶられて何度も絶頂してしまう。それでも先生はピストン運動を止めてくれず、むしろ加速していく。

「ひっ♡ あっ♡ ああっ♡」

「ははっ、いいザマだな。達しているあなたは存外好ましい」

「んぅっ、やだ♡ やだぁッ♡」

「言葉の通りに受け取れ。ナマエが好ましいと言っている。ただ愛されながら抱かれていろ」

「──え、あッ♡♡♡♡ んんっ♡ あぁ、んんーッッ♡♡♡♡」

 一際大きなオーガズムに達した瞬間、ようやく村雨先生も果てたようだった。はあはあと互いに呼吸を整える。


「次は対面座位だ。来い」

「ちょ、ちょっと待って……」

 両手を広げて待ち構える先生に、わたしは乱れた呼吸のままストップをかける。いま、名前で呼びました? わたしの名前を?

「せ、せんせ、はぁ、はぁ、わたしの、名前……覚えてたんですね」

 結婚して約半年、まともに呼ばれたことがなかったのでドキドキが(おさま)らない。名前変換小説のくせして前編で一度もその仕様使ってなかったのに。

「村雨ナマエ」

 びくりともぞくりとも言い難い感覚がわたしを震わせた。

「私が妻の名前を忘れるようなマヌケに見えるか?」

「だ、だって、全然呼んで……、それに! 形だけの結婚だから、別にわたしがどこの誰でも」

「なぜそうなっている。いつ、形だけと言った? あなたのぐちゃぐちゃの思考回路でマヌケな解答を出すのはやめろ」

「え、お義兄さんに勧められたから仕方なく結婚したんですよね?」

「確かに兄に勧められた。そろそろ結婚してはどうかと。だからあなたを選んだ」

「わたし以外にも候補はいたんじゃ」

「あなたに断られたら他を当たっていただろうな。運良く初回で成立したが」

 頭が追いつかない。前々から認知されてたの? 推しに? 村雨礼二に? いつから? たまたま紹介されたんじゃなくて村雨先生が〝わたしが〟いいって指名したの? いちばんに?

「け、契約書は……」

「必要だろう? わたしたちは知人ではあるが友人レベル以下だ。真っ当な家庭を築くために認識のすり合わせは不可欠だ」

 そもそも、と村雨先生は続けた。

「私は最初から互いの《合意》を尊重している。合意ということは、当然私の意思も含まれている。あなたと私の合意なくして、夫婦になり得ないのだからな」

 あ。──泣きそう。

 先生のゴミ視力なら、きっと細かい表情は見えないだろう。(はな)をすすってバレないように、わたしは静かに涙を流した。

 契約結婚なんて、近頃のTLコミックみたいなことを言うから。本当に形だけだって。わたしがどれだけ村雨先生のことを好きでも、先生にとっては路傍の石ころのひとつで、お義兄さんを安心させるための便利アイテムとして役に立てればいいなあ、くらいだったのに。

「──涙の匂いがする」

 もうバレちゃうの。おちおち感涙もできない。

「これは、嬉し涙なので」

「見えないのが残念だ。──それで。あなたの夫は続きをしたがっているが?」

 情緒も何もあったもんじゃない。でも、そんな先生のことがこの上なく大好きだ。わたしは広げられた腕のなかに飛び込んだ。

//////////

 翌日、「どうして急に名前で呼んでくれたんですか」と聞いたら、「兄のアドバイスだ」と端的な回答があった。具体的にはなんて言われたのか、しつこく問うと「……自分がしてもらって嬉しいことをやれと言われた」と嫌そうな顔で白状した。

「名前で呼んでもらうの、嬉しかったんですか?」

 更に嫌そうに顔を歪める。おもしろい。たのしい。かわいい。

「礼二さん。礼二さん。れーいーじーさん」

 村雨先生は耳を塞いで聞こえないアピールをした。先生には読唇術でわかるでしょう、と正面に回り込んで「れいじさん」と言い続けると、瞼も閉じられた。

 わたしは笑いながら、見ざる聞かざるの村雨先生の唇にキスをした。


 その後、村雨先生から「友人を紹介する」と言われたとき、言葉を処理できずに固まってしまった。

「本当に友だちいたんですか?」

「不快な発言だな。いたからと言って驚くことか」

 そりゃあ驚く。先生が「パーティーに呼ばれたので出かける」「知人の家に泊まる」と報連相をくれた際、わたしは「お友だちにどうぞよろしく」なんて言って送り出していたけれど、先生は相手の名前なんて教えてくれなかったし「友人」という単語は使わなかった。

 村雨礼二のおともだち。

 医局の先生か、大学時代の同期のひととかかな。もしかしたらお義兄さん繋がりとか。村雨先生、お義兄さんの紹介だからとお見合いするくらいだもの。その可能性が一番高いかもしれない。

 精一杯のオシャレをして、村雨先生の「奥さま」に見えるように着飾ると、「気合いを入れるな、そんな相手でもない」と小言を言われてしまった。お医者さんの友人なら、素敵な女性も見慣れているだろう。わたしには、村雨先生が(あなど)られないようにする義務がある。

 やっぱり髪も巻いておこうかなあと考えていると、先方がエントランスに着いたと言うので慌てて切り上げる。マンションのエントランスに降りると、およそ想像していた〈お友だち〉とはかけ離れた存在がわたしたちを待っていた。

「ああ──オレは、ええと、村雨……サンの」

「友人」

「友人の、獅子神敬一だ」

「初対面の人間に敬語も使えんのか」

「獅子神敬一デス。初めまして」

 長身で清潔感のある青年だ。黒いニットに白いパンツのシンプルな格好だけれど、金髪に青い目はそれだけで目を惹く魅力と存在感がある。村雨先生よりやや年下だろうか。なぜか所在なげというか居心地悪そうにしているが、先生とは真反対の陽の空気に満ち満ちている。

「はじめまして」

「ナマエ。私の妻だ」

 悲鳴をあげそうになって「ふぐぅ」と喉の奥で空気を噛み殺した。私の妻だ。私の妻だ。私の妻だ。先生の短い科白(せりふ)が脳内にリフレインする。ちょっと待って。破壊力がすごすぎる。

 喜びを噛み締めていると、獅子神さんが「ちょっと失礼」と断りを入れて、ロビーの影へ村雨先生を連れて行ってしまった。

 ああ、せっかく紹介してもらったのに挙動不審すぎたかな。一転して後悔の念に(さいな)まれてしまったけれど、追いかけるわけにもいかず、そっと近くの椅子に腰を下ろした。

//////////

 紹介された女性から十分に離れたことを確認すると、獅子神は村雨に小声で尋ねた。

「おい。マジかよ」

「何がだ」

「結婚してたのか?」

「健忘症か? メールした通りだ。〈妻を紹介する〉と書いていただろうが」

 はーーーー、と獅子神は長いため息を吐く。ほんの数日前、ライフ・イズ・オークショニアで私生活を(あげつら)われたときにさえ、そんな話は出ていなかった。まさか二課の刑事が見落としていたわけでもあるまい。村雨の心情を揺さぶるには不足だと思われたのか。改めて見れば、きょうは結婚指輪をつけている。足元を(すく)われないようにいままで隠していたのだろうか──村雨ほどの人物が?

「念のため確認すっけど。あんな美人、負債のカタに身請けしたとかそう言うんじゃないよな?」

「双方の合意に基づく婚姻だ」

「マジかよ」

 獅子神は頭を抱えた。信じられないという気持ちと、自分が〝見〟た限りどうやら嘘ではないという事実が相反して混乱を生んでいる。

「つーか、ここに住んでるってことは、あの家は手放したのか?」

「あの家は趣味の別邸として残してある。さすがに借金まみれのチンピラどもや死体袋と鉢合わせさせたくはないのでな」

「そんな気遣いまでできるようになったんっすねェ〜」

 ニヤニヤしながら村雨を煽るが、本人はどこ吹く風だ。

「ちなみに真経津たちは?」

「……いきなり会わせるにはクセが強すぎる。あの中ではあなたが一番マシだ」

「そりゃ光栄なこって」

「妻と連絡先を交換しろ。ただし不要不急の個人連絡は差し控えろ。ギャンブルの話もするな。あなたはクラブでたまたま知り合った友人だ。まかり間違っても口説くんじゃないぞ」

「ずいぶん上から目線だなぁオイ。だったらなんで呼んだんだよ」

「保険を用意しておきたくなった」

 獅子神は息を呑んだ。あの村雨礼二が自分の身に何かあったときはよろしくと頼んでくることがあろうとは。

「は。確かにいい保険を選んだよ。オレが一番生き残る可能性が高ぇ」

「ジョークのセンスをもっと磨いておけ。保険はただの掛け捨てだ」

 はいはい、と獅子神は右手を振ってあしらった。待たせっぱなしの友人の妻の元へ、早く戻ってやらねばならない。

//////////

 獅子神さんは一見オラオラ系のひとに見えたけれど、自家用車で送迎してくれるし、運転は丁寧だし、苦手な食べものをさりげなく聞き出してくれるし、なんというかとてもいいひとだった。

 最初は「このひとは何をまかり間違って村雨先生の友だちになったんだろう」と思っていたけれど、いまではとても納得ができる。このくらい突き抜けて性根が良いか、村雨先生と同じくらい性根が悪くないと付き合えないのだ、きっと。ちなみにわたしは後者を自称させていただきたい。

 そんな感じで村雨先生のご友人一号と仲良くなれた上、帰りも車で送ってくれた。

「あの、獅子神さん。お食事まで奢っていただいてありがとうございました」

「気にするな。結婚祝い代わりだ」

「それはオレの科白だろーが!!」

 村雨先生の真顔のボケに即座にツッコミを入れる獅子神さん。うん、やっぱりこのふたりは相性がいいみたい。

「あー、まあ。今回のディナーはプレ祝いってとこだ。結婚祝いは改めてちゃんとしたのを贈らせてもらう。ほしいもんでも考えておいてくれ」

 わあ、やっぱり獅子神さんは良いひとだ。

 マンションまで送ってもらい村雨先生とふたりきりになったと、獅子神さんがいかに素敵で良い友だちかと散々褒めまくったところ、村雨先生に不機嫌そうに顎を掴まれた。わたしが喋りすぎると、先生はいつもこうやって話を終わらせるのだ。会話のシャットダウンの仕方が物理的すぎる。

「ふぁいじょうぶですよ」

「何がだ?」

「大事なお友だちを取ったりしませんってば。『これからもたくさん遊んであげてくださいね』って言っておきましたから!」

 より一層強く顎を掴まれた。なぜ。

//////////

 結婚生活も半年を過ぎて、村雨先生との生活にも慣れてきた頃。

 いきなり貧血で倒れた。しかも自宅のトイレで。

 パンツを穿()いた後だったことは幸いだった。しかし鍵を閉めていなかったことが災いして──不幸にも、村雨先生に見つかってしまった。

 ソファに寝かされながら、時計を見る。まだ朝礼にも十分間に合うけど、きょうは早残業したかったのに残念だ。

「あー、もう大丈夫っぽいので、先生、先に出てください」

「会社は」

「在宅勤務に切り替えますよー。定時連絡もちゃんと入れますので」

 以前のわたしだったら、平気平気と言いながら出社していただろう。村雨先生がちゃんと身体を心配してくれてるんだってわかったから、ちゃんと仕事量をセーブするようにしたもんね。

 村雨先生は不機嫌そうな顔をしていたけど、何かあったら救急車を呼べと何度も言い含んで出て行った。

 そろそろこの仕事も潮時だろうか。転職に時間がかかるかもしれないけど、先生も良いって言ってくれそうだし。

//////////

 わたしの見通しはいつも甘い。

「妊娠か?」

 翌日出社した際、上司に退職を告げた直後にそう尋ねられた。

「違います」

「まあ、考えておいてやるが、この人手の足りない時期に何を言い出すかと思えば」

「退職願ではなく退職届です」

 馬鹿野郎、と上司は舌打ちする。

「認められるわけないだろうが。後輩の育成もまともにできないくせに」

 思わず唇が震えた。わたしの動揺を察知した上司は、下卑びた笑みを浮かべた。社内の過半数から嫌われているこの男、なぜか営業的判断と人心掌握(脅しともいう)に長けているので一定の立場を得ているのだ。ひとの傷口に塩を塗りこんでフォークでぐちゃぐちゃと掻き回すのが趣味のようなやつなのに。

「お前があいつを殺してなきゃ、引き継げる人間がいたのにな」

 思わずテーブル越しに殴りかかりそうになった。飲みものでも置いてたらぶっかけていたかもしれない。たまたま会議室のテーブルが広くて、たまたま部下にコーヒーも奢らないケチで助かったな。

「旦那はお前が人殺しだって知ってんのか? 懇切丁寧に教えてやっていいんだぞ。お前の大好きな村雨礼二先生とその家族にも」

 よくもまあ、そんな小悪党みたいなダサい科白を次々吐けるものだ。悔しいのは、その脅しはわたしに効果抜群だってことだ。

「どうせ、わたしがいても大した利益になりませんよ。わたしより有能なひとはいっぱいいますし」

「んなこと分かってんだよ。お前はツラだけは良いからクライアントのウケがいいんだ。だれもお前の腕を評価してねえっての。調子に乗るんじゃないぞ」

 テーブルの上に置かれた退職届をぐしゃっと丸めると、ぽいと投げた。

「最近はクリスマスケーキの例えはダメだとかうるせえからな。三十路になったらやめていいぞ。いくら仕事のできないお前でも、それまでには引継ぎも育てられるだろ?」

 上司は笑って会議室を出て行った。握り拳をテーブルに叩きつけても、手が痛むだけだった。ああ、もう。本当にわたしは何もできないバカだ。


 わたしは少し自棄になっていたのだと思う。

 機嫌の悪い上司を煽れば「こんなやつ辞めさせていい」と思ってくれないか、という下心もあった。

 隣の部署の後輩ちゃんがいびられているところに割り込んで、いつもなら上手く(なだ)めるところを揚げ足取って批判した。上司が一番嫌う、立場を弁えない小賢しくて口煩い女そのものといった感じで。

 あっ、と思ったときには握り拳が眼前に迫っていた。激昂した部長に手を上げられたら辞められるかな、とは思ってたけど、その後に襲ってきた鈍い痛みと目眩に吐き気がする。きーん、と耳鳴りがする中に、後輩ちゃんの悲鳴が響いた。

 さすがに様子を見に来る社員もいて、ばつの悪そうな顔で「散れ!」と怒鳴る上司が滑稽だった。なーんでわたしは、こんなダサい男に退職を認めてもらうためにこんなことしてるんだろ。馬鹿馬鹿しくなって、わたしは乾いた声で尋ねた。

「さすがに病院に行ってもいいですよね? 頭打っちゃったので検査しないと」

 村雨先生と決して繋がりがなさそうな小さな個人病院で手当てしてもらい、診断書も書いてもらうことにした。


 ──さて、村雨先生にはどう説明したものか。

 病院で処置してもらった包帯は悪目立ちしすぎるのですぐに外してしまった。まったく、サラリーマンが会社で殴り合いとか格好がつかなすぎる。小学生じゃないんだから。かと言って、何事もなかったことにするには左目に大きな青痣ができている。コンシーラーで隠せないか試してみたものの、やはり違和感が残ってしまった。

 少し考えたあと、「ものもらいになったことにしよう」と薬局でガーゼや眼帯を買ってきた。悪あがきで厚塗りした化粧を落としたり、初めての眼帯に戸惑ったりしている間に先生の帰宅時間が近づき、慌てて夕飯作りをはじめる。きょうは早く帰れるから、わたしが夕飯を作ると連絡してしまっているのだ。

 慌てて手を動かしている内に頭が冷えてきた。

(……よく考えたら、ラッキーかも)

 暴行の被害届を出すと脅し返せば、退職届を受け取ってくれるかもしれない。ただし、あくまで出すフリだけだ。実際に事件化してしまえば確実に先生に気づかれてしまう。

 そうやって心も落ち着き、主菜も副菜もできあがってごはんが炊けたころ、玄関のドアが開く音が聞こえた。

「おかえりなさい」

 出迎えると、村雨先生がまじまじとわたしの顔を見つめた。いつものルーティーンで差し出そうとした鞄が中途半端に宙に浮いている。停止ボタンを押されたように固まった先生からやや強引に鞄を受け取り、わたしは困ったように(見えるように)、苦笑いをしてみせた。

「びっくりしました? きょう、目がヘンだなーって思ってたら、なんかこう、急にものもらいになっちゃって。早退して病院に行ってきたんですよ。すみません、なんかこう、処方されて自分でも思ったんですけど、白い眼帯って目立ちますよね。でもなんか、そこまで悪い状態じゃないみたいで。しばらくはこのままなんですけど」

「……」

 あーーーーもうバレた。バレバレだ。社交辞令ならするする出てくるのに、村雨先生を前にするとわたしは嘘がつけない。

 いつものように「すみません嘘です」と白状しようと思っていたところ、

「そうか」

 先生はなんのツッコミもなく頷いた。

 あれ?

 村雨先生は普段と変わらない様子でわたしを見返している。もっといろいろと()かれるかと思っていたのに拍子抜けだ。あと、少し寂しいじゃん。

「何か言いたいことでも?」

「あはは。ちょっと、遠近感が掴めないなって思って」

「だろうな。こういうときは夕飯の支度は省いても構わんのだが」

「視界が悪いだけでなんっともないので! あ、きょうはデミグラスソース煮込みにしてみたんですよ」

「ほう。なら、赤ワインが合うだろうな。晩酌に付き合ってもらおう」

「よろこんで」

 鞄を所定の場所に置き、上着を預かってハンガーにかける。フックにかけるときにニ、三度空振りしてしまって、後ろから伸びてきた村雨先生の手がひょいとハンガーを奪って代わりにかけてくれた。ときめきポイント一兆点追加。

 笑うとズキズキと痛む傷も、こんなときめきポイントを生んでくれるなら本望だ。上司に感謝はしないけれど、レアな村雨礼二仕草はありがたく享受しよう。

 そんなふうに浮かれている間も、さすがの先生は色々と考えていたらしいことを、後になって知ることになる。

 きょうの先生はどこかご機嫌な様子で、わたしにワインをたくさんサーブしてくれたし、いろんな話題を振ってくれた。それが嬉しくでがぶがぶと上品でない飲み方をしたのが悪かった。

 いい感じに良いが回ってぽかぽかしたころ、「ところで」と村雨先生が切り出した。

「最近の麦粒腫(ばくりゅうしゅ)治療では眼帯をつけないことは知っていたか?」

「ばく……?」

「ものもらいのことだ」

「へぇ、そうな──ん、です、ね」

 頷いている途中で過ちに気づく。わたしが言い訳を探す隙も与えず、先生はさらに言葉を続ける。

「時代遅れの処方をする医者が気になってな。どこの病院に行ったか教えろ」

 語調はあくまでも穏やかで、それでいて有無を言わせない迫力があった。

 アルコールでバカになった頭は言い訳生成もポンコツで、「あぁ──あの、すみません。処方というのは、その、嘘で。自己判断です」と、ワイングラスのステムを(すが)るように握りしめながら答えた。

 すっと手を伸ばして指の背でわたしの左頬を撫でる。産毛を刺激するような優しすぎる手触りが、わたしの背筋をぞくぞくさせた。きょうはレアな村雨先生大放出のお祭りなのだろうか。

 わたしの頬に添えた先生の手のひらへ、気づけば頭を預けていた。お酒を飲んでいるのに、ひんやりと冷たくて気持ちがいい。

 先生の親指が、眼帯越しにわたしの目の下をなぞった。

「患者は医者の診断を待てばいい。では、聞かせてもらおうか」

 そこから先は説明するまでもない。

 騙しきれないと悟ったわたしは、きょうあったことを洗いざらい白状した。時間差でやってきたアルコールに目を回しながら、上司が、後輩の子が、と言い訳をするわたしの愚痴を黙って聞いてくれるものだから、これまで溜まっていた不満を呂律の怪しい舌でねちねちねちねちと一から十まで全部話してしまった。

「わたしはぁ、後輩ちゃんを守りたかったんですけどぉ、守り方を間違えちゃったなぁってぇ、……」

 話しているうちに、いつの間にか眼帯は外されていて、

「その上司ぃ〜、なんか地下ギャンブルで稼いでるから何でもできるとか言っててぇ、そんっな犯罪自慢するばかいますぅ? ねぇ、……」

 次第にソファに誘導され、

「ちょっと前まれは、わたしがいちばんしたっぱだったからぁ、わたしががまんすればよかったんですけどぉ、……」

 そのまま村雨先生の膝の上で丁寧に正しく手当てされ、

「このじだいに、そんなことしちゃだめじゃらいでしゅかぁ、あっ、先生やっぱり唇の形が美しいですね……しゅきぃ……」

 寝落ちて、そこから先の記憶はない。

 ただ、眠っている間、胡乱な意識のなかで村雨先生の声がぼんやりと聞こえていた。


「天堂。5スロットで潰してほしい糞袋がいるのだが」

//////////

 目が覚めたら、眼前に村雨礼二が寝ている。しかも眼鏡オフだ。

 驚きすぎて目覚めた瞬間に永眠してしまうところだった。

 シーツや枕の色で先生のベッドにお邪魔していることは理解できたけれど、どうにもシーンが連続していない。二日酔いでぐらぐらの頭で昨日あったことを整理しようとして──それより村雨先生の寝顔を目に焼き付けるべき、と脳内OSが判断した。

(目の下の(くま)が濃い)

(寝てるのに眉間に皺が寄ってる)

(肌白いなぁ)

(唇が美しすぎるんだよ、ちゅーしていいかな?)

「起きていいか?」

 じっと見つめていた唇が急に開いて喋り出したので、わたしは悲鳴を飲み込んだ。

「お、おはようございます」

「ああ」

 のっそりと布団から這い出た先生はパジャマ姿で、──そのときになってようやく、自分の格好を確認した。エプロンは外しているものの、服は昨日から変わりなかった。ああ、仕事着でベッド汚してしまったなという思いと別に違う懸念が頭をよぎる。

「あ、あの、先生。きのう、わたし、ご迷惑をおかけして」

「目が覚めたなら水を飲んで来い。風呂に入るなら、軽く食べてからシャワーだけにしておけ」

「あ、はい」

 謝罪したいことも確認したいこともたくさんあったけれど、先生はわたしの存在を意に介さず着替えはじめたので、逃げるように寝室を後にした。

 とりあえず朝食の支度をしなければ。その前に昨晩の片付けがある。

 言われた通り、水を飲みにキッチンへ行くと、昨日の食器類はすべて食洗機に入っていた。リビングのテーブルの上もきれいに片付いている。あちゃあ、家事はわたしの領分なのに先生にやらせてしまった。

 コーヒーとホットサンドとサラダ、ヨーグルトとありきたりな朝食を用意しながら、心はずっとソワソワとしていた。

「先生、すみませんでした」

 村雨先生は答えず、視線だけをわたしに寄越した。「どれのことだ?」と言わんばかりに。そうですね、やらかしたことが多すぎました。

「えっと……まずは嘘をついたことと、酔い潰れたことと、先生のベッド使っちゃったことと、契約の《家事は一任する》件を放棄しちゃったこと……です」

 指を折ること四つ、恐縮しながら答えた。

「二つ目以降については問題ない。この程度で機嫌を損ねるほど、私は狭量ではない。が」

 先生の手が止まる。フォークを握ってレタスを突いているだけで、なんて絵になるんだろう。

「が……?」

 聞くのは怖いけれど、黙っている時間はもっと居た堪れなくて、わたしは続きを促してしまう。

「患者が主治医に嘘を吐くのは別だ」

 我々の関係性は一応夫婦では? わたしの脳裏をよぎった疑問さえお見通しのようで、先生は「契約書にもそう(しる)したはずだ。あなたの心身は私が診ると」と補足した。

「あの、きのう、わたしはどこまで話しましたっけ……?」

「恐らくすべてではないだろうが、必要なことも余計なことも話していたな」

 ふぐぅ、と喉を鳴らす。またアルコールに勝てなかった。

「その、がっかりさせたくなくて……嘘をつきました。申し訳ありません」

「今後私を欺くことはないように。今回のペナルティとして」

「ペナルティ!?」

「当然だ。主治医に虚偽の申告をすることは重大な過失だろう」

「契約書には」

 そんな記載はなかったはずだ。職務上契約書は慎重に読み込むし、先日だって更新した内容を確認した。

「書くまでもない自明の理だと思うが?」

 そこまで言い切られてしまっては反論しようもない。静かな圧で「そう」だと思わせられてしまう。わたしは締め殺される小動物のように「はいぃ…」と声をあげることしかできなかった。

「ペナルティは三日間の謹慎。安静に過ごすように」

 いやいや、さすがにそれは聴き逃せない。

「こ、困ります困ります! まだ火曜ですよ。有休申請もしてないし、さすがに社会人として……」

「は?」

 何を言っているんだと言わんばかりの怪訝そうな顔で、先生が聞き返してくる。

「あなたの退職手続きはすでに委任済みだ」

「たぁ!?」

 退職届。

「昨晩、あなたの言質(げんち)もとった」

「記憶にないんですけど、酔っ払いの戯言って言質になります?」

「退職代行サービスに委任している。私物は後日着払いで送られてくる。引継ぎ業務は発生させない。あなたに出勤の義務はない。暴行の被害届を出す権利はあるが」

 何もかもが解決している。わたしがぐでんぐでんに酔っ払って寝落ちしている間に。

 と言うか引継ぎなしに退社って大丈夫!? あの学会週末から開催だけど!? 後輩ちゃんたちやっていけるかな……わたしの社員IDでしか見られないファイルってなかっけ……あー共有フォルダのなかもっと整理しとけばよかった……あとあの古文書みたいな旧時代のマニュアルも更新しておけば……あとあとあと……

「ああ、ひとつ。あなたにやってもらうことがある」

「な、な、なんですか!?」

 頭のなかでぐるぐると考えこんでいるときにそう投げかけられ、慌てて(ども)ってしまった。

「後日、保険証変更の手続きが必要になる」

「え、そっか社会保険料じゃなくなる……?」

「晴れて私の扶養に入る」

 はたしてそれは「晴れて」、なんでしょうか?


 混乱した頭のまま、ルーティーン通りに先生を見送る。清々しいまでにいつも通りだこのひと。こっちは新卒で入った会社を辞めたのに。退社した自覚を持てなくて、これまでのように出社しそうだ。

「もう一度言うが、あなたは謹慎の身だ。会社からの電話も出るな」

「はい……」

 釘を刺されて「すみません」と口をついて出そうになった言葉を先生の右手が遮った。わたしがあまりにしょげているので呆れたようだ。長くて深いため息を吐いた後、ズレてもいない眼鏡を押し上げながら「要は」と口を開いた。

「要は休めということだ。私が帰る頃にはもう少しマシな顔になっておくように。負い目を感じる必要など皆無なのだから、悩むだけ無駄だ」

 励ましている。

 あの村雨先生が、わたしを。

「無職のあなたの肩書きは、いまは私の配偶者のみだ。肩書き通りの役割を全うしろ。それだけだ」

 ああ、そうか。それならば。わたしがいまやれること、できることはたったひとつだ。

「先生、いってらっしゃい」

 ドアが閉まるいっときの間にそう告げると、村雨先生は満足したような顔で「お大事に」と返した。


 先生は、わたしにできないことを簡単にやってのけてしまう。

 わたしなんて、退職届すら出せずに不愉快な言葉を投げつけられただけなのに。退職代行サービスがあるのは知っていたけれど、自分が利用しようなんて思い浮かばなかった。

 のんびり無職ライフを満喫しようと意気込んだものの、何もすることがない。まとまった時間があるときに見ようと思っていたドラマはすでに別のシーズンがはじまっていて、いまから視聴するのは腰が重いし。とりあえずテレビのチャンネルをザッピングしながら、ソファでだらけていた。

 後輩ちゃんからLINEが来たのは、そんな退屈な時間を三時間ほど浪費した頃合いだった。出勤時間を過ぎてから、会社と上司の電話番号からひっきりなしに着信はあったのだが、そちらは主治医(せんせい)の指示通りに完全無視を決め込んだ。

 後輩ちゃん。隣の部署の彼女は、私にとっては会社の同僚以上に大切な存在だ。故に──メッセージを見るくらい、良いだろう。

〈先輩、大丈夫ですか? 相談したいことがあるんです。きょうのランチの時間に会えませんか?〉

 一瞬悩んだ。けれど、答えが出るのも一瞬だった。

〈わかった〉

 と短く返事を出したのち、すぐに画面を切り替えて先生へメールを送る。

〈お昼に友人とランチに行きます。相手は会社の後輩ですが、これは友人としてのただのランチなので、先生の言いつけには違反しないと考えています〉

 完全に言い訳だなと思いつつも、そのまま送信する。すぐに〈会社関係者とは会うな〉の一文だけ返ってきたので返す刀で〈嫌です〉と返信した。その直後、村雨先生から着電が入った。黒い画面に表示された〈村雨先生〉の文字に心底ビビり散らしたけれど、必死に心臓を落ち着かせて着信拒否にした。

 メールアプリを立ち上げて、しばらく電話に出られない旨を書き、最後にわたしの覚悟を示すことにした。

 〈契約違反になるのなら、離婚も甘んじて受け入れます〉

 後悔はない。わたしは、後輩ちゃんに報いる義務がある。

//////////

 わたしは早速後悔していた。

 後輩ちゃんが指定したのは会社近くの喫茶店だった。休憩時間に抜けてもらうので、疑問にも思わなかった。まあ、なんとも間抜けだ。わたしが席に着いた瞬間、トイレから上司がやってきて退路を塞いだ。

「──先輩」

「いいよ、大丈夫。わたしが甘かったんだ」

 四人がけのボックス席の一番奥にわたし、その隣に後輩ちゃんを座らせた彼は、どかりと目の前に座ってタバコに火をつけた。

「村雨、お前自分が何やったか分かってるのか?」

 いまは旧姓で呼んでほしかった。まるで村雨先生が責められているように感じられて不愉快だ。

「退職代行サービスだ? お前、会社の辞め方も知らんのか」

「この怪我を見た夫がものすごーく心配してしまって」

 わたしはけらけらと笑いながら眼帯を指差した。お前が原因じゃろがい、と指し示すも、当然効いた様子はなかった。

「ともかく退社は認めん。代休ということにしておいてやるから、明日朝イチで社長に謝っておけ。いいな?」

「お言葉ですが」

「お前が後輩を殺したことを旦那に言ってやってもいいんだぞ」

 キラーフレーズを言ってやったといわんばかりに部長はにやにやと笑った。思わず隣に座る後輩ちゃんに視線を向ける。青い顔をして俯き、いまにも泣き出しそうだった。

「……わたしが殺したわけではありません」

 そう絞り出すので精一杯だった。

「同じことだろうが。ヒトの旦那を殺しておいて、自分だけ結婚して逃げる気か?」

 そんなんじゃない。

 わたしじゃない。

 逃げるつもりなんてなかった。

 でも、結果的には、そうなった。


 わたしは一年前に後輩を死に追いやっている。

 初めての後輩で、初めての部下だった。彼は真面目で一生懸命で、同時期に入社していた隣の部署の後輩ちゃんと付き合っていた。結婚も視野に入れていると大真面目に語る彼の若さが眩しくて、初々しいふたりをたまに揶揄(からか)いつつも心から応援していた。

 通常業務と後輩教育の忙しさで身体を壊して一週間入院して、一ヶ月傷病休暇を取得して復帰したら、後輩くんが自殺していた。

 あの上司のいる部署に、教育を終えたばかりの後輩くんを置き去りにした。たまに連絡を入れて「大丈夫です」と答える彼の言葉を真に受けて、自分はのうのうと休んで。気づけたはずだ。なんとかできたはずだ。やろうとしていれば。やっていれば。そんなの当たり前にできていたはずだ。わたしが一ヶ月も仕事から逃げていなければ。

 反論したいことはたくさんあった。

 いつか言ってやろうと思って温めていた科白もたくさんあった。

 でも、言えなかった。隣に後輩ちゃんがいたからだ。

 一年前、彼女に謝ったときに「先輩は悪くない」と言ってくれた彼女。それまで通りに接してくれた彼女。彼女が上司を呼んだということは、彼女はわたしのことを許してはいなかったということだ。わたしが逃げることを許しはしないということだ。……それなら、仕方がない。

「わか──」

「興味深い話だな」

 ぜぇはぁと荒い呼気と共に、冷たい声が降ってきた──村雨先生がなんでここにいるの!? 上司もギョッとして身を引いている。

 煩わしそうにシャツの第一ボタンを開ける村雨先生がセクシーで、こめかみに浮かんだ汗までが綺麗だ──、ってそうじゃない。

 どこまで聞かれた?

 ぶわっ、と全身に鳥肌が立ち、冷や汗が吹き出る。人殺しをいう科白を聞かれてしまっただろうか。それに対してわたしのせいじゃないと口答えしたのも聞かれただろうか。

「こ、これは村雨先生」

 わたしが頭をぐるぐるを回転させている間に、上司は取り(つくろ)うように村雨先生に席を譲った。医師でも若手のことは下に見ている上司でも、さすがに村雨先生には(へりくだ)っている。

 対面に村雨先生。隣に後輩ちゃん。斜向かいに上司。ここは死刑執行場だろうか。汗と鳥肌で、身体が暑いのか寒いのかも分からない。

「いやぁ、奥さんとちょっと話をさせていただいていたんですがねぇ……」

 顔を上げずとも、ちらりちらりと上司がこちらを見遣っているのが伝わってくる。いいのか、言うぞ? という脅しだ。言われるくらいならわたしの口から言ってやるわ。

「村雨先生、わたし──」

「ああ、そこのあなた。オレンジジュースを氷多めで頼む」

 意を決したわたしに対して、先生はどこまでもマイペースだ。通りがかりのウェイトレスさんを呼び止めて注文し、わたしの方を見た。

「あなたは? まだ頼んでいないようだが」

「あ、アイスコーヒーをお願いします……。あ、いえ、ブラックで」

 ボックス席の空気感が、すっかり村雨先生を中心としたものに塗り替えられてしまった。ドリンクが届くまで嫌な沈黙は続き、先生がオレンジジュースをごくごくと飲んで喉を潤すまで、誰も発言しなかった。

「私の発言は取り消す」

「え? は?」

「本人の意見を聞かずに勝手にやるなと言われた。ので、取り消す。あなたの意見を聞きたい」

 ……先生に、部長と後輩ちゃんの姿は見えているのだろうか。そう疑問に思うくらい、先生はわたしにしか目を向けていなかった。まるで、ここにはわたしたちニ人しかいないかのように。

「えっと、ちなみに……どなたに、なんて?」

「獅子神だ」

 苦虫を噛み潰したような表情で村雨先生が言った。獅子神さんに怒られたの?

「医者としての判断は間違っていないが、夫として間違っていると言われた」

 ……なるほど、そういう形で視点をズラして言いくるめればよかったのか。獅子神さんに頭が下がる思いだ。

「じゃあ、離婚はしないでいいんですか?」

「私はするつもりはない」

 離婚、という単語に後輩ちゃんがギョッとした。ごめんね、急な夫婦喧嘩(?)をはじめちゃって。

 ほっと一息ついたところで、そろそろ空気と化してる二人にも触れなければ。

「あの、先生。メールで伝えていましたが、彼女がわたしの友人です」

 本来なら上司から紹介するべきだろうが、もうあの会社とは無関係なのだとアピールしたいがために無視をした。

「おい、むらさ──」

「そちらが、〝前の〟会社の上司です」

 前の、を強調して話を遮った。さらに被せるように村雨先生が上司に目を向ける。ゴキブリでも見るような冷たい目だ。素敵。

「席を外してくれないか。これから妻と大事な話があるのだが」

「あ、いやその奥さんについてお話ししたいことが」

「断る。ならば私たちが場所を変えよう。行くぞ」

 わたしのコーヒーは半分以上残っていたが、村雨先生はオレンジジュースをきっちり飲み干していた。


 そして店を出る直前、村雨先生は振り返らずに呟いた。あまりに小声だったし、本当にそう言ったのか分からない。ランチタイムが終わった店内にはもう、優雅に紅茶を飲む神父さんらしき男性くらいしかいなかった。

「──いまの男だ」

//////////

 喫茶店を出ると、見たことのある車が止まっていた。そして運転席に座っているのはもちろん──、

「獅子神。家まで頼む」

「おい。天堂はいいのかよ」

「私から連絡しておく」

「あとでキレられても知らねーからな」

 ……先生、また獅子神さんを当たり前のように扱き使っているようだ。何となく、獅子神さんに負けられないと思う気持ちがぷくぷくと湧き上がる。もっとわたしのことも扱き使ってほしい。なんでもするのに。

「あの、どうしてお店が分かったんですか? わたしGPSアプリ切っておいたのに」

 村雨先生は知らんぷりで窓の外に目をやる。無視された。しんと静まり返った車内で、獅子神さんが気まずそうで不憫だ。

「あの男は社内外からだいぶ嫌われているようだな。少し身辺を洗っただけで協力者が出てきたぞ。あなたが守りたがっていた彼女のようにな」

「わたしのかわいいかわいい後輩ちゃんのことです?」

 シリアスな空気を変えたくて戯けてみるけれど、先生の表情は一ミリも変わらない。

「いまは服従の姿勢を見せるため、言いなりになっているだけだ。あなたを恨んでいるわけじゃない」

 そんなの分からないじゃないですか、と言い返したいところをグッと飲み込んだ。

 先生はどこまで知っているんだろう。

 わたしの愚かさはどこまで知られてしまったのだろう。

 怖い。怖くてたまらなかった。

 それからはずっと無言で、獅子神さんにまともなお礼を言えないまま家に着いてしまった。

 村雨先生がいつものように「コーヒーを()れてくれ」と言うので、わたしはいつものように豆をコーヒーメーカーにセットする。ゴリゴリと自動豆挽きの音が頭に響く。またくらりと貧血のような目眩を覚えた。

 手の震えを必死に抑えてコーヒーを差し出す。猫舌の先生はすぐに口をつけない。

「私は問診を重視しない。特に、精神疾患のある患者の意見は」

「わたしは、別に病気なんかじゃ」

「あなたの不調に気づかないほど私は愚かではない。あなたは病人だ。それに気づいてもいない」

 病人、と面と向かって言われるのは心に来るものがある。お前は頭がおかしい、と言われたような気分になるからだ。そんな受け取り方をすると、また怒られてしまうような気がするけれど。

「先生は、どこまで知っているんですか」

 絞り切った雑巾をさらに絞るような気持ちで、なんとか声を出した。綺麗に整えたネイルが腕に食い込む。

「──違いますね、先生のことだから、もう全部知ってるんですよね。わた、わたし、ひ──、」

 人殺し。

 恐ろし過ぎて、その言葉を言えなかった。

「最初から──ああ、これはあなたが私の学会発表ばかり覗きに来るようになってからの話だが──あなたが私を見る目はおかしかった」

「それは、先生のことが好きだったから」

「違う。あなたはあなたより優秀な人間に否定されるのが嬉しいだろう? 褒められたり同意されたりすると不安で立ちすくむだろう? 常に絶対的なものを探している。強くて頑丈で壊れることのない、そしてあなたに振り回されない存在をだ。あなたは理想に当て()まった私を見つけて安堵した。精神的に参ったとき、新興宗教に傾倒するようなものだ。脳が負担に耐えきれず〝理由〟を後付けにしたにすぎん」

 そんな風に言われたら、そうなのかもと思ってしまう。実際、わたしが先生を追いかけはじめたのは後輩くんが亡くなってからだ。先生は完璧な偶像だったんだ。アイドルではなく、神の偶像(イコン)

「あなたに似た銀行員を知っているが、狂い方が中途半端すぎる。あなたは常識的過ぎて狂信者には向かない」

「──はは」

 まさか常識的なことを批判されるとは思わなかった。苦笑する。自嘲かもしれない。「恋に恋する」なんて言葉があるけれど、わたしはただ自分が死ななくていい理由を、自分が生きていていい理由を、だれかに預けたかったのだ。先生以外はみんな塵芥(ちりあくた)だ。そう思って生きる世界は生きやすい。わたしも、後輩くんも、上司も弱くて当たり前だから──だから、完璧でなくていいと。そんな矮小な性根さえ見透かされていたことがただただ情けなくて恥ずかしい。申し訳ない。

「……離婚、ですかね」

「なぜそうなる」

「自分が、情けなくて」

「理由になっていない」

 理由。理由。理由。どこへ行っても何をしても息を吸うのにさえ理由がいる。理由を求められる。《志望動機は?》《俺のどこを好きになったんだよ?》《根拠はなんですか?》《なんでできないんだ》《どうして助けてくれなかったの》──頭のなかに反駁(はんばく)する問い。正解がわからない。

 わたしはどうして泣くんだろうか。どうして涙を止められないんだろう。村雨先生を呆れさせることしかできないんだろう。

 村雨先生がソファから立ち上がった。いまのわたしじゃ話にならないから、一度別邸へ帰ってくれた方がありがたい。でも、論理じゃないところで、先生のカーディガンの裾を引いて、帰らないでと言いたくて堪らなかった。

 そのまま玄関へ直行すると思われた村雨先生は、なぜかわたしの前に立った。俯いたわたしからは紺色の靴下しか見えない。

 下顎骨(かがくこつ)を両手で挟まれ、そのまま顔を上に向かされる。先生は相変わらずの無表情で、美しくて、やっぱり好きだなあと思った。

 先生は何も言わない。

 わたしは何も言えない。

 そんな沈黙が続いた後に、先生は綺麗な唇を開いた。

「元気は出たか?」

 は? と聞き返そうとした声は言葉にならなかった。

「私の顔を見ると元気が出るんだろう?」

「──嘘って言ったくせに」

「瞳孔、脈拍、汗の分泌、呼吸の変化でわかる」

 本当に分かるんだろうか。分かるんだろうなあ、村雨先生なら。そんな風に思ってしまうので、わたしはまだまだ盲目的な信者なのかもしれない。

「諦めろ。あなたは私に惚れている。あなたの身体はとても素直だ」

「……理由がなくても、好きなままでいいですか」

「理由は所詮後付けなのだと言っただろう。マヌケな頭で探したところで一生見つからん。あなたは私の言葉に従えばいい」

 そんなこと言われたら、一生妄信しちゃうんですが。

「構わない。なにせ私はナマエの主治医で、夫なのだからな」

//////////

 一週間後、後輩ちゃんから〈わたしも退職しました〉と連絡が来て、あの上司が突如失踪したことを教えてもらった。

 念のため村雨先生に報告したけれど、ただ「そうか」と頷いただけだった。妻を殴った男のことは、別段どうでもいいみたいだ。なんとも村雨先生らしいな。

 この数日で青痣もだいぶ薄くなったが、まだ外出には眼帯が必要な痕が残っている。

「失踪される前に一発殴り返しておくべきだったかな」

 シャドーボクシングをしながら、ふとそんなことを溢すと「いまから殴りに行くか? まだ息があればだが」と無表情のままボケられた。

「先生、傷が治ったらデートしてくれます?」

「私は気にせんと言っただろ」

「わたしが気にするんですー。先生と並んで歩くときは綺麗できゃわいい奥さまでいたいので♡」

「……」

「なんか言ってくださいよぉ!」

「他人の視線が気になるなら、ラブホテルに行くのはどうだ。誰にも見られん」

「は?」

 およそ村雨礼二の口から出るとは思えない単語に耳を疑った。いまラブホっていいました? 大学病院の表情筋が切れた死神、村雨礼二が?

「以前、利用したことがないのを馬鹿にしてくれたな? さぞ経験豊富なのだろう? ご教示願いたいものだ」

 うわ、だいぶ前のことを根に持ってる。

 でもその陰湿な記憶力も解釈一致!

 急な提案に驚いただけで、ラブホデートは大歓迎だ。先生と一緒ならどこでも嬉しい。「一緒にお部屋選びましょうね!」とウキウキしながらスマホを取り出すと、あからさまにつまらないと言った表情をした。ああもう、やっぱりわたしの反応で遊びたかっただけですね!

「……経験豊富な妻はお嫌いですか?」

「いや。好きだ。愛している」

 ──変化球しか投げない奴のど真ん中ストレートがいちばんやばいんだって!!

 わたしはスマホを足の小指に落としてしまって身悶えした。小指の爪が折れたかと思った。先生はわたしの足を持ち上げて指先を確認すると、ちゅっと足の甲にキスをした。そんなことする人でしたっけーーーー!?

「──ふはっ」

 先生には珍しく、大きく噴き出した。

 意地の悪い、それでいて楽しそうに唇と眉を歪めて凶悪な顔で笑っている。

「あなたには、こういう攻め方が良いようだ」

 わたしはきっと、大いに照れて顔を真っ赤にしているのだろう。こんなにも、言葉を失うほどにドキドキしているのだから。

「デートは取りやめだ。あなたも異論はないな?」

 わたしは小さく頷いて先生の手を取った。

─4─

 どうやって殺してやろうか。

 村雨礼二はすやすやと眠る妻の頬を優しく撫でながら考えていた。痛々しい内出血の(あと)。この傷は全治二週間といったところか。眼球を傷つけていないのが不幸中の幸いだ。妻に手を上げたのは恐らく、彼女がたまに零していた無能で有害な上司なのだろう。

 この近辺で地下賭博場の話をしているなら、十中八九カラス銀行の客だろう。日頃の迂闊な発言を考慮すれば、恐らく5スロット。良くても4リンクのランクだ。あいにく、ハーフライフの自分では手を下せない。

 先日連絡先を交換したばかりの神父へ連絡を入れた。ちょうどいい狂人がランク落ちしていて助かった。

「──天堂。5スロットで潰してほしい糞袋がいるのだが」

 了承は取れた。

 あとは、個人の特定──こちらは苦労しないだろう。

 裁きが必要な悪人であることの証明──(むし)ろ天堂に調べてもらった方がスムーズかもしれない。こんなところにいる連中は叩けばいくらでも(ホコリ)が出てくる──先日の刑事たちが言っていたことは的を射ている。埃まみれになるとわかっているゴミ袋を開ける必要はない。


 喫茶店で面通しを済ませた数日後、天堂から「万事上手く行った」との報告が上がった。始末される前に腹を()いてやろうかとも思ったが、気分が乗らない。天堂には「適当に処理して構わない」と伝えたのに、死体袋を担いだ神父が別宅のインターホンを鳴らした。これだから妻を別邸に招待できないのだ、と村雨はため息を吐いた。

「まだ息がある。殴り返さなくていいのか?」

 神父の言に少しだけ心が動かされた。それで心が晴れるとも思わないが、パンチングゲームだと思えば少しはストレス解消に繋がるかもしれない。

 モゴモゴと芋虫のように動く死体袋を見下ろして一秒、村雨は「この糞袋と一緒にするな。私は殴るような野蛮な行為はしない」とため息を吐いた。

「喜んでもらえると思ったのだが」

「喜ぶわけないだろう。それを二度と世間へ放たないでもらえれば十分だ」

 頷いて神父は死体袋を担ぎ上げようとした。

「ああ、待て」

 村雨はそれを制止する。

 間合いを見定め、少しの助走をつけて死体袋を蹴り上げた。つま先が痛む。「う」と小さくうめき声が、死体袋と村雨の喉から同時に上がった。

「殴るような真似はしないのでは?」

「手を痛めるからな」

 村雨は医者だ。商売道具である手を傷つけるような馬鹿な真似はしない。今後はくだらないものを蹴るような馬鹿な真似もしない。

「体幹が弱いな。見ろ、こうやるのだ」

 神父は特段の予備動作もなく、死体袋を蹴り上げた。肉が潰れるような不快な音を立てて、死体袋は大きく跳ね、今度は「おぇ゙」と汚い鳴き声をあげる。我を讃えよと言わんばかりに神父は微笑んだ。美しく整ったその顔が心底不愉快だ。

「黙れ。さっさと回収しろ。二度とここへ死体袋を持ち込むな」

 天堂と死体袋を見送って、村雨はしっかり玄関を施錠する。

 ソファに腰を下ろして一息吐いた。天堂に会っただけで、どっと疲れた気分だ。今夜はワインを開けて早く休もう。厄介なタスクが片づいた祝いだ。妻に「もうあなたを脅かすものはない」と言えないことだけが残念だが。そう考えると、なぜだか無性に彼女に会いたくなった。

 ──体力をつけるか。

 担当行員に乱暴な蹴りを入れられ、ライフ・イズ・オークショニアでも獅子神に体が弱すぎると言われ、いましがた天堂にも体幹が弱いと言われてしまった。平均以上──否、外れ値であるのはあちらの方だと言いたいところだが。

 まずは参考資料からあたってみるか。プロテインの種類は獅子神に聞けばいい。そうやって体を鍛えれば、ひいては妻のためにもなるだろう。自分が持つ豊富な知識に体力が加われば、彼女を存分に悦ばせることができる。


 ああ、私はなんて出来た夫なのだろう、と村雨礼二はそう思った。