#04 村雨礼二は愛妻家である(中編)
─1─
約二ヶ月前。
村雨は心療内科に通院するよう妻に助言した。彼女は素直に従ってはいるが、これといった変化は見られない。抗うつ剤の副作用で日中ぼうっとしていることが増えたくらいだ。
脳の病というのは厄介だ。なにより、彼女を専門家として診てやることができないのが歯痒かった。自身が医者だからと言ってカルテを見せてもらうわけにもいかない。せいぜい本人から今回はこんなことを話しただとか、処方された薬について聞くことくらいだ。
以前から彼女は悪夢に魘されており、寝言の節々に後悔と恐怖と自責が滲み出ていた。悪夢の途中に叩き起こしてもけろりとしている。彼女は決して自ら助けを求めてこない。村雨にはそれが腹立たしかった。
彼女の弱い部分も汚れた部分も醜い部分も、すべて村雨がつぶさに観察するべきなのだ。それなのに妻は村雨を前にすればするほど元気になる性分なので、これもまた相性が悪い。
だから村雨は考えた。
彼女が嘘を吐くのならば、彼女の記憶に聞こう。
そうして村雨は妻に催眠療法を行うことにした。
催眠療法は専門分野外かつスピリチュアルな手法だ。一度では催眠にかからない人間もいるという。ダメ元で性交後意識朦朧としている彼女に試してみたところ──成功してしまった。村雨礼二は自覚通り、有能な人物だった。
催眠状態で横たわる彼女に話しかけると、まるで起きているように明確に返事がある。実際起きているのではとも疑ったが、瞼の下の眼球運動、体温、呼吸は睡眠中と大差がなかった。
「いま、あなたはどこにいる?」
村雨の問いかけに、彼女は寝言には思えないほどの声量で、しかし何かぼんやりとした口調で答えた。
「会社に……会社、の、自分の席」
「なんと言う会社だ?」
妻はとっくに退社した企業名を口にした。彼女の脳のリソースが未だブラック企業に割さかれているのが不愉快極まりない。
村雨は質問を続ける。
──あなたは何をしている?
──あなたの他に誰かいるか?
──あなたが一番記憶していることは?
思った通り、彼女の記憶は一年前に後輩の自殺を聞かされた瞬間で止まっているらしい。語られることも現在ではなく当時の社内、当時の関係者にまつわるものばかりだ。
「他には何が見える?」
「垣本くん」
「誰だそれは」
「いま、付き合ってる、恋人」
「はあ?」
自分の瞼がぴくっと痙攣した。これに似た感情は複数ある。そのなかで最も近しいのは、怒りだ。これが村雨礼二でなければ「あなたは誰の妻なのか」と叩き起こしているところだろう。彼女は一年前を生きているのだと理解はできるが、納得はできない。あなたの隣にいるべきは自分なのだろうと言いたくてたまらない。
「そいつと何を話している?」
「あいつは弱いから死んだだけだって言われた」
「あなたは何と返した?」
「ふざけるなって、殴った」
少しだけ胸がすく。垣本何某は彼女の性格をろくに把握していなかったらしい。自分なら彼女を理解し鮮やかに解決してみせるのにと、相手を哀れにすら思った。
「彼はなんと言った?」
「調子に乗るなブス」
「──それは糞袋の苦し紛れの捨て科白だ。忘れろ」
せっかく良くなった気分にまた泥を塗られた。台無しだ。
「あいつが死んだのは、お前のせいだって」
「それも忘れろ」
「顔で仕事取ってるくせにって」
「忘れろ」
「お前とのセックス何も気持ちよくなかったって」
「忘──」
「お前なんか彼女にしても何も得しなかったってそんなんだから後輩が死ぬんだろってわたしがわたしのせいで」
ぱん、と村雨は手を打った。やや早急だが、催眠解除だ。
乾いた猫騙しが部屋に響き、妻はゆっくりと瞼を開ける。どうして自分の目元が濡れているのかと首を傾げながら「んぁ……オンコール、ですか?」と尋ねた。
「あなたが私を蹴り飛ばしたので、叩き起こした」
「はっ!?」
マンションのフロア一帯に響くのではと思うほどの声量で、妻は驚愕の声を上げた。
「わたしが愛しの先生を足蹴にするなんて!?」
「とにかく服を着て寝直せ」
性交渉後に催眠を行ったせいで、ふたりとも全裸だった。
村雨は毛布に入って背を向ける。どうしてかは分からないが、いまは顔を見たくなかった。気が立っているのを感じたのか、彼女は小さくしょげた声を出した。
「……すみません。おやすみなさい」
そう言って着の身着のまま、すごすごと自室に戻る妻を引き留めることもしなかった。村雨はむかむかした気持ちのまま、ひとりきりの朝を迎えた。
─2─
「そりゃ、怒りじゃなくて嫉妬だろ」
「なぜ私が嫉妬しなければならない?」
院内カフェに獅子神敬一を呼びつけると、文句を言いつつのこのこやって来た。昨夜の話を「最近あった腹立たしい話」として掻い摘んで話したところ、先刻の的外れな回答があったのだ。
「いや、だから、奥さんから昔の男の話されて腹立ったんだろ? 嫉妬以外のなんだっていうんだよ」
獅子神には催眠療法のことを隠して話したため仕方ないが、これは絶対に嫉妬ではなかった。
「私の方が彼女をよく理解している。収入も頭脳も私の方が格段に上だ。格下の相手に嫉妬する理由がない」
「何にでも理由がつくと思うなよ」
この年下の友人は、時折り兄に似たことを言う。不服極まりないが、だからこそ村雨は相談相手として彼を選んだのだ。
「なんつーか、逆にさ。オレの方がどう見てもマシなのに、ダメ男を好きな方が嫌じゃねぇか?」
それは理解できる気がした。要するに、自分は妻の見る目のなさに腹を立てているということか。
「いまは村雨一筋なんだろ? それでいいじゃねぇか」
「よくない」
「なんでだよ」
「分からんから聞いてる」
獅子神は天を仰いだ。
「いくらオレでも、二十九歳児の情操教育まで世話できねぇぞ」
村雨はふん、と鼻を鳴らした。獅子神に話したところで何も解決しないことは目に見えていたが、あまりにもわかりきった結果がつまらない。砂糖がたっぷり入ったカフェラテを飲みながら、思考を巡らせる。甘いもの嫌いの妻がこれを飲んだら、猫のように目を丸くするだろうな──腹立たしいのに、不愉快なのに、妻のことばかりが思い浮かんで思索の邪魔する。
「他意がねぇなら見逃してやれよ。村雨にだって元カノくらいいるだろ?」
「いない」
「は?」
「妻が初めてだ」
「…………そりゃ悪かった」
獅子神はバツの悪そうな顔で目を逸らした。
こいつもか、と村雨はまた嫌な気分になった。
経験の有無がなんだというのだ。一時の体験がなんだというのだ。日々劣化していく記憶がなんだというのだ。なぜそんなくだらない過去が、記録が、彼女と自分の貴重な〝いま〟を苛むのか、村雨には理解できなかった。
「じゃあ、あんたのはやっぱりアレだよ」
「なんだ」
「嫉妬。悋気。ヤキモチ。──つまり、遅れてきたはじめての恋煩いってやつだ。いくら名医でも、恋の病はさすがに治せねぇなあ?」
「そんな病気はない。ただの思春期──性徴ホルモンバランスの乱れだ」
「あの村雨礼二も、奥さんの初恋には勝てねえか。そーかそーか」
「今度あなたの家の肉という肉を食い尽くしに行く。鉄板を磨いて待っていろ」
「くだらねー嫌がらせすんな! 家で奥さんといちゃついとけ!!」
獅子神との対話で学びは得られなかったが、ひとつアイディアは増えた。
//////////それから毎週末、彼女がへとへとになるまで抱き潰し、催眠をかけた。一夜にひとりずつ、歴代の恋人とそのエピソードを聞き出すことにしたのだ。
妻を雑に扱った職場の同期の垣本。
就活が忙しく三ヶ月で別れたという一つ後輩の中野。
大学時代一年のときから三年間付き合った二つ歳上の朝霧。
初めての恋人で初体験まで済ましたという高校の同級生の丈橋。
妻の唇から知らない男の名前が語られるたび、村雨は無性に目の前の腹を割きたくなった。つぷりと皮膚を割いて、柔らかい脂肪を切り進めて、筋繊維の奥にある暖かい内臓に触ってみたくなった。名が挙がったどの男も触れたところのない場所に触れてみたくなった。知れば知るほどもっと暴きたくなる。
(なぜ、私がこのような苦行をしなければならない?)
聞き出してみればみるほど、なぜ妻がこんなにも見る目がないのかが分からない。同時に、なぜ無意味と思えるこの行為を自分が続けているのかも分からなかった。
先に会ったのが彼らではなく村雨ならば、間違いなく自分を選んだはずだ。その確信がより強固になるだけで、ほかに成果は得られない。たまたまタイミングが合っただけの糞袋どもの情報が村雨に与えたのは、怒りと不快感だけだった。
嫉妬などありえない。
あのような愚かな男どもを妬ましいと思うはずがない。
自分は、美しい彼女をトロフィーのように扱わない。彼女を傷つけるような愚かな発言はしない。彼女を不安にさせるような愚かな行動はしない。自分に自信がないからと粗探しをして彼女の評価を下げたりしない。
自分は、世間に何ら恥いることのない愛妻家である。
村雨礼二は強い自負を持っていた。
村雨を苦しめたのは、そういった精神的な負荷だけではなかった。
どうやら被験者の意識が朧げでないと効果が薄いらしく、普通に催眠をかけようとすると彼女はすぐに目覚めてしまう。最も手っ取り早いのは、彼女が疲れ果てるまで抱き潰してから催眠をかけるという方法だった。
そのためには妻を満足させねばならない。
そのためには極力自分は達さないようにしなければならない。
そのためには催眠をかける体力を残さねばならない。
そのためには毎日でもしたい性行為を週一で我慢しなければならない。
──つまりは体力的な負荷が一番の課題であった。幸運なことに、彼女は催眠中のことを一切覚えていないので、ただ優しく夫に抱かれたという記憶だけが残る。まったく見上げた愛妻家だ、と村雨礼二は自画自賛していた。
まさにその折だったのだ。「せんせぇのばかっ! 遅漏!」と妻が罵倒してきたのは。
堪忍袋があるのなら、まさにこのとき「ぶつん」と緒が切れた。
妻を悦ばせるためではなく、自分の情欲を吐き捨てるために腰を振った。村雨礼二は理性を失うような人間ではなかったが、あえてそのように振る舞った。その獣のような行為は馬鹿らしく、そして気持ちよかった。
美しい顔を歪めて淫靡に喘ぐ彼女は、やはり美しい。
いつもより高くなる嬌声も、舌足らずに下の名前を呼ばれるのも、互いの汗と体液が混ざった匂いも、激しさに耐えきれず音を上げるベッドの軋みも、村雨をひどく興奮させる。
ざまあみろ、と思った。誰に向けてそう思ったのか。その瞬間には分からなかった。妻に対してではない、妻を抱いてきた男たちに対してだ。こんなにも乱れた彼女を見た男が、自分の他にいるだろうか。こんなにも彼女を気持ちよくさせられる男が、自分の他にいるだろうか。こんなにも彼女に愛された男がいるだろうか。
込み上がる優越感が背筋をぞくぞくさせた。いつもは無理してオーガズムに耐えているが、きょうは好きなように膣内へ吐き出して良いかもしれない。彼女の生理周期的に着床の可能性もある。夫婦生活に慣れるため一年は避妊しようと考えていたが、契約書には記していないので問題ない。悪いのは彼女だ。こんなにも妻思いの夫を傷つけたのだから。──そんなことを考えもした。
しゃくりあげるような不安定な呼吸を続けていた妻に、ひとときの呼吸の時間を与えてやると、彼女は縋るようにこう言った。
「わた、おしりの方、は、使ったことなくて」
「は?」
「そっちなら、礼二さんに、初めて、あげれ、ま──」
彼女は発言の途中で意識を失ったので、村雨は速やかに回復体勢を取らせ心肺のリズムを確認した。
彼女に布団をかけてやり、涙や涎や汗で汚れた顔を拭ってやり、そのあとようやく思考を再開する。
(彼女はいま、なんと言った?)
なぜ急に肛門性交など言い出した?
彼女の性はそれほどまでに乱れていたのか?
過去の男どもの入れ知恵か?
有能な村雨礼二も、こればかりは推し量りきれなかった。
─3─
「つまり、あなたはアナルセックス──肛門性交がしたいと言ったのか?」
瞼を開けて一秒、「おはよう」の代わりにそう訊かれた人間が、この世にいったい何人いるだろう。カーテンレールの隙間から差し込む光がぼんやりと赤い。もう夕方のようだ。寝起きのわたしの頭はいつも以上にぽんこつで、愛しの村雨先生に対して「は?」と素で聞き返した。
記憶を掘り返してやっと──自分自身が「お尻なら」と言い出したのだと思い出す。先生からの視線が痛い。その凶悪な目つきは、視界が悪く目を細めているせいだと分かっていても、目を逸らしたくなる。いや、逸らした。いつも村雨先生の言動に振り回されているわたしだが、今回ばっかりはこちらの瑕疵だ。発言内容が悪すぎる。
「……覚えてませ、」
「嘘を吐くな」
「すみません。覚えてます。思い出しました」
変面もかくやと言わんばかりの変わり身の早さ。先生に謝ることにかけてわたしの右に出るものはいないだろう。
「何をどういう思考回路でそうなったのか言え」
「いや、自分でもなんでそんなこと言ったか分かんなくて」
これは本当だ。先生に怒られたことだけははっきりと覚えているのに、その内容もそのときの思考も何も思い出せない。
「ちなみに、先生は?」
「何がだ」
「その、ご興味あるかなって……」
「肛門性交にか?」
明け透けもなく答えられると逆に気まずい。こんな綺麗な顔とまっすぐな瞳で、肛門肛門と連呼しないでほしい。
「衛生的な観点で述べると、医者として推奨はできん」
そりゃそうっすよね。
マジでどうしてわたしは先生にアナル処女を差し出そうと──あ。思い出した。
先生があまりにも過去の男とどうセックスしたか気にするので、「じゃあ誰ともやったことないことをやったろかい」みたいな勢いだった気がする。
「思い出したな」
「思い出してません」
「……言いたくないなら、言わないでいい」
先生はあっさりそう言うと、ぬるっと布団から抜け出して洗面所へ向かった。先生がシャワーを浴びている内に、スマホを確認する。
仕事を辞めてからスカスカになってしまったカレンダーアプリには、「結婚半年記念日」と書かれている。先生があんなに早く帰宅したのは、今日が半年記念だから? いや、まさかそんなことはないだろうな。
先生がシャワーから戻ってきた際、試しに「先生、きょう何の日でしたっけ?」と尋ねてみた。
「第四水曜日。平日だ」
新品のメスのような鋭い切り返し。うんうん、これこれ。これが村雨礼二だ。記念日に薔薇の花束やガラスの靴を贈るような男ではない。
納得顔で頷いているわたしに、先生の訝しげな視線が突き刺さる。
「これから出かける体力はあるか?」
「お出かけですか? もちろんご同行しますけど、先生こそ大丈夫です?」
「甘くみるな。二時間後に出発で問題ないか?」
おお、さすが体力ゴミを自称する外科医。一般人よりよほどバイタリティがある。
「じゃあ、先生の髪乾かしたら、わたしもシャワー浴びてきますね」
「ああ」
わたしはいつも通り先生の髪をドライヤーで乾かして、ヘアブラシで梳かす。先生の頭を撫でる絶好のチャンスだけれど、きょうはリミットがあるので少しだけ急ぎ目だ。
耳や頸に残ったわずかな水分もペーパータオルできれいに拭き取って、完了の合図をする。ドライヤーはこのあとわたしも使うので、ヘアオイルを一緒にソファに置きっぱなしにした。
「それじゃ、大急ぎでシャワって来ますから。置いてっちゃ嫌ですよ」
「記念日に妻を置いていく夫がいるか」
いつも通り口を「へ」の字にしたまま、村雨先生が言った。
……そりゃあ、先生も共有カレンダーくらい見てますよね。先生はちっともご自身の予定を書いてくれないので、見ていない可能性を少し疑っていただけ。
「ふひひ」
思わず気味の悪い声が漏れてしまった。先生が首にかけていたフェイスタオルに顔を埋め、遅ればせながら声を抑える。
「興奮は夜にとっておけ」
「夜もする気なんですか!?」
やはり村雨先生は体力ゴミの自称は返上すべきだ。世の中にはもっとゴミがいる。
「……しなくて良いなら、しないが」
「やだやだ。しますします。してください」
「早く風呂へ行って来い。遅刻したら置いていくぞ」
「さっき置いてかないって言ったじゃないですか!」
塩な対応に大袈裟に絡むわたし。いつものやりとりだ。そんな戯れ合いをしつつ、わたしは浴室へ向かった。
大慌てで汗を流し、スキンケアとメイクを終わらせたあと、手早くコテで髪を巻いた。せっかくのお出かけだもん。しかも記念日ときた。気合いを入れなきゃ立つ背がない。
すっかり常連になった付け襟をワンピースの下に仕込む。先生があまりにキスマークや噛み痕を残すので、もう半ば諦めている。迷惑かと問われれば確実に迷惑なんだけど、嬉しくないかと言われれば首を横には振れない。薄くなっていく鬱血痕を撫でながら、村雨先生が帰ってくる日を待つ夜もあるのだ。
「どうです? わたし史上最も綺麗に髪巻けたんですけど」
「ああ。きょうも美しいな」
久しぶりのお出かけにウキウキのわたしに対して、先生は通常運転だ。数時間前まで妻を手酷く抱いていた男にはとても見えない。そう思うと、夫婦っていいな。あんなに村雨先生の機嫌を損ねちゃったのに、記念日という理由があれば一緒に出かけられるんだから。
シュークローゼットの鏡で最終チェックする。先生は青や黒っぽい服を着るので、わたしも自然と似た系統になる。こうして全身鏡で並ぶと、リンクコーデのようで少しだけ──うそ、とっても良い気分だ。会社を辞めてからは家に引き篭もりっぱなしだったので、その反動もあるかもしれない。
わたしはつい、いつもは聞かないことを尋ねてしまった。
「せんせー、わたしかわいいですか?」
「美しいと言っただろう」
「へへ、先生もかっこいいですよ」
「時間だ。出るぞ」
先生は絶対に「かわいい」とは言ってくれない。
まあ、歴代彼氏にも上司や知人たちからも「かわいげがない」と散々言われてきたので慣れっこではあるけれど。別邸に行くのを断固拒否するのと同じレベルで頑として言ってくれないのは、なかなか悲しいものがある。
守りたくなるようなかわいげのある女──やっぱり小動物系でパステルカラーの似合う処女が、よかったんじゃないだろうか。いまからでもなれるかな、かわいげのある女に。
「──その靴にするのか」
心ばかりの悪あがきで踵の低いミュールを選ぶと、先生が目敏く指摘してくる。
「その服のときは、いつも違う靴を選んでいたと思うが」
「ちょっと気分を変えようかと。似合わないですか?」
「いや。似合っている」
まあ、たかが数センチ身長を下げたところで、わたしは小動物系でもないし、声はでかいし、パステルカラーは似合わない。結婚半年記念日は、ある意味で自分を見つめ直す機会になると思えた。
来る半年後の結婚記念日、村雨先生に契約を更新してもらえるよう努力しよう。
幸いなことに、無職のわたしには時間がたっぷりある。
─4─
さて、記念日が無事過ぎ去ったので、脳内作戦会議の時間だ。
まずは現状認識。
村雨先生には大事にしてもらっている。それはもうありがたいくらいに。恐縮するくらいに。わたしがふざけたことを言ってウザ絡みしても怒らないし(嫌そうな顔はするけど)、ちょっと寝坊して家事をサボっても怒らないし(体調管理がなっていないと嫌味を言うけど)、夜勤が入ってない日はちゃんと抱いてくれるし(週一だけど)、記念日には帰ってきてくれるし(自慰行為を見られた挙句怒られたけど)。
んーーーー、離婚される可能性、微レ存では?
微粒子と比べると、もう少し質量は大きいかもしれない。
結婚してわたしがしたことと言えば、
出張先で酔い潰れて助けてもらったり。
会社の上司と揉めたり。
先生に嘘をついてすぐバレたり。
仕事辞めたり。
心療内科に通いはじめたり。
不要な指輪を買ってもらったり。
転職活動もせずにぐうたらしてたり。
こうして指折り数えてみると、おやおやおや、わたしってばかなりの不良債権では?
奥さまらしく夜のサービスをしようとしても、村雨先生はわたしに主導権が移るような行為は嫌がるのだ。打つ手がない。やっぱりこれは無視できない事実だと思うんだけど──村雨先生って処女厨なのでは?
村雨礼二処女厨説。ありえる。
貞淑な妻だと思っていたら元不感症だわ、彼氏遍歴だけはあるわ、夜は積極的だわ、で幻滅しているのではないだろうか? ちょっとでも昔の男のことを話すと不機嫌になるし。なぜか過去の男の名前を知っていたのも、結婚後に興信所に頼んで交際歴を調査したのだろう。先生ほどの方が、結婚前に調査しなかったのはおかしいけれど、当初わたしが色良い返事をするとも思っていなかったようだし。あのときは調べる時間がなかったのだろう。蓋を開けてみれば──、想像と違ってがっかりしたんだろう。
しかし、だ。わたしが元カノについて探りを入れようとすると、もっと不機嫌になるのは勘弁してほしい。だって気になるじゃん。村雨礼二のはじめての女って誰よ! どんなやつよ!
決して本人にはぶつけられないフラストレーションを胸中で爆発させる。
ああ、処女を捨てる前に村雨先生に出会っていれば。そんな空想に耽るのは虚しい。
一度散った花がもとの蕚に戻らないように。
一度知ってしまうと知らなかった頃に戻れないように。
一度経験してしまえば、二度と処女には戻れない。くやしい。かなしい。申し訳ない。
でも二十五にもなって未経験というのもそれはそれで呆れられたかも? どうしよう、たらればの話で沼っている場合ではないのに。
いやいや、陰鬱な想像で自分をいじめている場合ではない。
悪あがきと割り切って、開き直ろう。
わたしはこんなときに頼れる肉親──妹に連絡した。結婚が決まった当初は、村雨先生を「根暗陰キャムラサキバフンウニ」とボロクソに言って中指を立てていたけれど、とても姉思いで優しい子なのだ。
姉の贔屓目を差し引いても、すごくかわいい。小柄で愛らしくて、ふりふりの格好がよく似合う、まさに小動物的な女の子。男性経験がないので──たぶん、村雨先生好みだ。
契約更新の事情は隠して〈とびきりかわいい格好がしたい〉とLINEすると、すぐに〈週末デートしよ♡〉とかわいいスタンプと一緒に快諾の返事が来た。
//////////さて、妹とのデートは端的に言ってとても楽しかった。
久しぶりに駅ビルをあちこち歩き回って、良い運動にもなったし、お目当てのものを手に入れることもできた。最高の気分転換だった。
帰り際に村雨先生行きつけの百貨店に立ち寄る。結婚するまでは馴染みがなかったけれど、指輪購入後も先生に連れまわされたせいで慣れたもんだ。デパ地下でお惣菜でも買って帰ろうかと思っていたけれど、ショーウィンドウの広告につられてエスカレーターを上った。
「これ、お姉に似合いそう!」
婦人靴のエリアで妹が指差したのは、ヒールの高いパンプスだ。こんなにカッコいいルブタンが似合うと思われているなんて、照れくさい限りだ。それに、わたしの好みドンピシャでもある。あるんだけど。
「うーん……できれば、もっと清楚なのがいいかな。あと、ヒールももっと低くいのでさ。これだと、先生と身長並んじゃうし」
「……あの陰キャウニになんか言われた?」
「違う違う。わたしが『かわいい』って言われたいの」
妹は知っていることだけど、昔デートに張り切って超オシャレな踵高めのパンプスを履いて行ったら、男を見下ろすなとヒールを折られたことがある。マジなのだ。ちなみにその彼氏は「かわいげがある妹の方がいい」と言ってわたしを振ったあとで、妹にもこっぴどく振られたというオチもついている。
結局、わたしはルブタンに手を伸ばすことはなかった。
いま両肩に下げている紙袋の中身だけでも十分変身できる。わたしは自分にそう言い聞かせた。大丈夫。白いローヒールのサンダルを買った。いつもは立ち寄らないブランドのグレージュのワンピースを買った。清楚なパールのアクセサリーを買った。
次は髪色も明るくしようかな。妹みたいなふわふわの栗毛に。つい飛び出てしまう村雨オタク語録も封印しよう。一生は無理だけど、結婚記念日までのあと半年くらいは控えめに生きよう。
……なんか、バレンタインデーの直前だけ女子に優しくなる中学生男子みたいでは?
勘のいい先生には、わたしが離婚に怯えて土壇場の悪あがきをしているってバレるだろうなあ。でも、これは先生を愛するアレ故のアレ──いや、悪あがき以外の言葉が見つからないな。
//////////悪あがきその一。
わたしのかわいさに気づいてもらおう。
早起きして髪をアレンジする。社畜中はひっつめ髪か下ろしっぱなしの二極端だったので、ここぞとばかりにヘアアレンジの練習をした。
「先生、きょうのわたしどうです? かわいいですか?」
「主観を述べれば、美しいと思う」
早起きして完璧なメイク&ヘアメイクで尋ねると、村雨先生はいつもと全く変わらない表情でそう答えた。率直な褒め言葉にぐへへ、と思わず笑い声が漏れるけど、わたしは先生に〝かわいい〟と思ってもらいたいんだ。
だって〝美しい〟は外見の評価だけど、〝かわいい〟は愛情の表現だと思うから。わたしも先生はかっこよくてセクシーであると同時にかわいいと思うし。
「不満顔だな」
「『かわいい?』って聞いてるんだから『かわいい』って言ってくださいよぉ」
すると先生はにっこりと笑う。
わざとらしいくらいの作り笑顔で。
「あなたは今日も美しいな」
「先生のばか!」
あー、またやっちゃった。すぐ口答えするのも、たぶんかわいくない。でも先生のボケにツッコむのはわたしの数少ない生き甲斐がいだし。
悪あがきその二。
意見を求めるから先生の返答に振り回されるんだ。そうじゃなくて、わたしの愛を実直に伝えよう。
「先生、きょうも素敵ですね。愛してます」
「そうか」
「先生、昨日のオンライン講演かっこよかったです。画面越しに見る村雨礼二もオツなもんですね」
「そうか」
「先生、きょうも髪型決まってますね!」
「そうか」
──だめだ。元からちゃんと推しに愛を伝えるタイプのオタクだった、わたし。
それに村雨先生は元来自己肯定感が高いのか、いくら褒めても当然だという顔で流される。それがまた素敵。最高。塩対応こそ最高のファンサよ。わたしが妻でなく村雨オタクのままなら、はちゃめちゃに嬉しいことである。
悪あがきその三。
それなら外堀から埋めよう。
とは言え、義兄夫婦とも義実家ともすでに仲良くさせていただいている。ならば狙うは──、
「礼二さーん。今度獅子神さんを招いてお食事でもしませんか? 結婚祝いのお礼も兼ねて」
初めてお会いしたあの日、「改めて結婚祝いを送る」と言った通り、獅子神さんは後日立派な低温調理家電を送ってくれた。おかげさまでわたしの料理のレパートリーにローストビーフが加わった。
お祝いの品を使った料理を振る舞いたいと言えば、彼は来てくれるだろう。あれから何度か顔を合わせているけれど、ちゃんとお礼ができていない。ここでさらに仲良くなって、村雨先生の外堀を埋めたい!
「──却下する」
「なんでぇ!!」
「あなたが態とらしく名前で呼ぶのは、何か下心があるときがほとんどだ。理由を言ってみろ」
「……獅子神さんと仲良くなりたくて」
「却下する」
「んもー!」
//////////「獅子神さぁん、わたし、もう一度生まれ変わらないとダメみたいです」
「あー、オレは先生みてーに理解が早くねえんだ。最初から説明してくれ」
わたしは村雨先生が勤務する病院内のカフェで、獅子神さんと膝を突き合わせていた。大手チェーン店が院内一階に構えているスペースで、安っぽいプラスチックの椅子とテーブルが詰め込まれている。体格の良い獅子神さんが窮屈そうに座面に収まっているのは、なんだか可愛らしい。先生も利用したりしてるのかな、ここ。一般の人たちもよく利用するカフェなので、騒がしいのが嫌いな先生は使ったことはないのかもしれない。
「すばり村雨先生の好きなタイプってご存知ですか?」
「はあ? あんたみたいな美人じゃないのか?」
「んふふ、さすが村雨先生が認めたひとですね。女性をほめるのがお上手」
お世辞は嬉しいが、お世辞で腹は膨らまないのだ。
紆余曲折、懇願と嘆願と土下座の甲斐あって、先生からお許しを得たわたしは単刀直入に相談事項を述べた。ずばり、村雨礼二の女性のタイプについて。反応はほぼ思った通りだった。獅子神さんでもさすがに村雨先生の好みまでは把握していないらしい。いいんだ、ここから情報を取れないということが情報なのだ、うん。
「知り合って日が浅いのもあるが、あんまそういう話にはならねえな。真経津たちに聞いても同じだと思うぜ?」
「わたし、前回アレがアレだったんでまともな交流ができなかったんですけど、みなさん獅子神さんみたいに面倒見の良い方なんですか?」
「いや、問題児の集まりだよ。全員村雨レベルの我の強いやつら──そんなに目ぇ輝かせても、もう呼ばねぇからな!」
わたしが身を乗り出す前に、獅子神さんに華麗にセーブされる。チッ。
「なんでですかぁ」
「あんたの旦那に止められてっからだよ」
「そんな……そこまでわたしの信用がなかったなんて」
「いや、信用がねぇのは──まあいいや。ともかく。気ィ落とさずとも、十分好かれてるだろ?」
「嫌われてはいないですね!」
むふーっと胸を張る。あの村雨礼二に嫌われないことがどれだけすごいことか。村雨オタクならばそのレア度は承知している。しかし、それはそれ。これはこれ。
「でも、契約更新前にどうにかしたくて……」
「契約? ああ、いま住んでンの賃貸なのか。意外だな」
「そう! わたし、噂の別邸に行ったことないんですよ! おうちに手術室があるって本当ですか?」
「…………まあ、あるな。手術台(リビングに)」
「いいなあ。村雨先生のデモオペ見たいなあ。獅子神さん、見たことあります?」
「……オレはねぇけど、見たことある奴はいる(腹開かれた奴も)」
なんだか獅子神さん、とても言いづらそうだ。言葉の端々にカギカッコで伏せられた何かがある気がする。
「獅子神さん、何か隠してます?」
「夫婦揃ってなんなんだよあんたらは(鋭すぎんだろ)」
「わたしに言えないことあります?」
「ねえって(ありすぎるんだよ)」
「お願い! 村雨先生には言わないから!」
「言わなくてもバレるやつだろうが(あの村雨礼二だぞ)」
チッ。まったく以てその通りなのでこれ以上は押せない。
「つか、オレとふたりで会うっつーのに、何も言われなかったか?」
「獅子神さんならいいって言ってましたよ。ふふっ、ものすごーく嫌そうな顔してましたけど。きょうは外せない用事があるんですって」
「目に浮かぶわ(なんで嫌そうな顔されて喜んでんだ?)」
「獅子神さんは先生のお気に入りですからね。村雨先生のお兄さんによく似てるし」
「へー。会ったことねぇから知らなかったわ」
「ふふん。こっちはわたしの勝ちですね」
「最初から勝負してねえよ」
呆れたように獅子神さんはノンカフェインコーヒーに口をつける。
獅子神さんと会っていいと決められた時間は六十分。開放的なホテルのラウンジ、または院内カフェにすること。家を出る前、店に着いたとき、獅子神さんが来たとき、店を出るとき、帰宅したときに逐次報告を入れるように、とのことで許された。
もし仲のいい友だちがそんなことを言っていたら、すぐに女性向けシェルターへ頼ることを勧めるだろう。でも、これは仕方がないことなのだ。
たぶん、わたしは男好きだと思われている。疑われている。そんなことはないのに。処女じゃないだけで、村雨先生がいちばん──村雨先生だけが好きなのに。
そもそも、お見合いのその場で快諾したのが悪かったのだろうか。しっかり素行調査をしてもらい、納得した上で結婚してもらうべきだっただろうか。
うっかり元カレの存在を匂わせたのもいけなかっただろうか。
以前、目の前でナンパについてっちゃったところも見られていたのも悪かっただろうか。
指輪を買ってくれたのも虫除けのためと言って、よほどのことがなければ外すなと厳命を受けた。その上、定期更新を待たずに契約書に不貞を禁ずる文言を入れらるくらいだ。よほど放蕩な嫁だと思われているのだろう。
「とにかく、夫婦喧嘩にオレを巻き込まないでくれよ」
「喧嘩なんてしてません。知ってます? 争いは同レベルの者同士でしか発生しないんですよ?」
「つまり?」
「喧嘩になる前に、村雨先生の正論でボコボコにされるに決まってるじゃないですか」
「じゃあ、これは?」
「村雨先生の外堀を埋めたくて……」
「勝手にオレを外堀にすんなよ」
//////////さて、どうしたものか。
わたしの悪あがきレパートリーも早速ネタが尽きてしまった。
そんな折、先生が珍しく丸一日お休みだということで、映画鑑賞に誘うことにした。シアターではなく、お家のリビングで。これならば、村雨先生にくっつくことができて大変お得なのだ。
「そういえば、見逃してた映画がネトフリに追加されたんですよ。先生、一緒に見ませんか?」
「ポップコーンとオレンジジュース」
「用意します!」
先生が言いそうなお菓子とジュースは山ほど買いためていたので、いくらでも応えられる! わたしは早速、キャラメル味、塩味、バター醤油味をボウルにぶち込んだ。
「続きものか?」
「一応ミステリー小説のシリーズが原作なんですけど、映像化ははじめてなんですよ。続編もまだ出てないし。昔から作者のファンだったんですけど、なんか機会を逃してて」
あれ、そういえばどうして見てなかったんだっけ? 仕事は忙しかったけど、公開日をカレンダーに登録するくらい楽しみにしてたのにな。
先生はテレビに映画情報を表示したあと、「内容を知っている。ほかの映画が見たい」と言い出した。ならば仕方ない。村雨先生全肯定マシーンのわたしは、先生に選んでもらうことにした。リモコンでサムネイルを流していた先生は、やがてこども向けアニメの劇場版を選んで流しはじめた。意外すぎる! もっと血飛沫飛び交うスプラッタなゾンビやスリラー映画を選ぶと思っていたのに。
ローテーブルをソファ側に引き寄せ、ポップコーンが入ったボウルとふたつのオレンジジュースを並べる。村雨先生は当たり前のようにわたしの膝を枕にして画面を見つめた。映画が終わるまでこの体勢でいられるなら、こんな嬉しい時間はない。
わたしはハリネズミのような先生の頭を撫でながら約百分の時間を楽しんだ。子ども向けだと侮っていた映画は意外にも奥深く、最後には鼻がつんとするような切なさに思わず涙をこぼしそうになった。
耳掃除もさせてもらえたし、爪のお手入れもさせてもらえたし、身体のマッサージもさせてくれた。ものすごく充実した一日だった。やっぱり村雨先生、セラピー効果がある気がする。わたしが村雨先生をケアすればケアするほど、わたしがケアされたような気分になるのだ。抱いてもらえるのはもちろん嬉しいけれど、正直言ってそばにいさせてもらえるのが一番幸せだったりする。
翌日、わたしは昨日見られなかった映画をひとりで楽しむことにした。
二日連続で映画を見るのは正直疲れるかなと思ったけれど、村雨先生のおかげでだいぶ元気になった。会社を辞めてから落ち込みがちだったので、気分が上がっているうちに観てしまおうと考えたのだ。
慣れというのは恐ろしいものだ。会社を辞める前までは住民票の写しを見るだけで幸せゲージはマックスだったのになあ。
きょうはポップコーンもジュースもなく、わたしはソファに寝転んで映画を再生した。
CMが流れた後、探偵による前語りが流れはじめた。
いわくつきの土地に踏み入り、事件が立て続けに起こる。
もう犯人もトリックもわかりきっているのに、ドキドキする。ソワソワする。なんだか──、嫌な予感がする。
終盤、犯人と思われた人物が首を括ったシーンで、わたしは頭が真っ白になった。
首吊り。自殺。
記憶の奥に封じられていた呪いの箱が開かれる。誰の声かもわからない科白が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
《後輩くんが》《自宅で首吊ってたらしくて》《第一発見者が》《葬式? もう終わったぞ》《今更謝られてもあの子は帰ってこないんですよ》
あ。思い出した。後輩くんが自殺した直後に公開されたから、それどころじゃなくなったんだ。予告編に首吊りした影が映ってたから、吐いてしまって──、
背筋に悪寒が走る。
忘れてた。忘れてしまっていた。
ああ、そうだ。だからミステリーを読めなくなったんだ。
ひとが死ぬのが、首吊りが出てくるのが怖くてたまらなくて。彼に重なるから。思い出すから。無意識に見ないようにしていた。
指先が冷たくなっていく。
貧血のような目眩さえ覚えた。
ソファに座っているのも気持ち悪くて、ずるずるとフローリングの床にうずくまった。額を床につけてひんやりとした冷たさを感じていると、自分の格好がまるで土下座しているみたいだな、と馬鹿らしく思えて少しだけ気分が楽になった。あー、ずっとずっと、馬鹿でいたかったなあ。
──でもよかった、先生と一緒のときじゃなくて。
//////////身体を揺らされて、自分が寝てしまっていたことに気がついた。
村雨先生がじっとわたしの顔を覗き込んでいる。というか、いつの間にか回復体勢を取らされてる。
「あ、おはようございます」
「いまは夜の八時二十二分だ」
「わわっ、寝過ぎてました! おかえりなさい」
「薬はきちんと飲んでいるか」
飲んでますよ、とわたしは答えた。心療内科で処方された抗うつ剤は決まった時間にきちんと服用している。正直効果の実感は得られてないのだけど、先生との約束だ。
「あの、わたし元気ですよ? ちょっと寝落ちちゃっただけで」
「目眩や吐き気は」
「ぜんっぜん! あ、先生。夕飯食べてきました? すみません、まだ何にも準備してなくて。わー、またやっちゃった! 先生、きょうは何食べたいです?」
「ハンバーガーが食べたい。わたしはダブルチーズバーガーにポテトとコーラをつける。あなたは?」
「じゃあウーバー頼んじゃいますね。わたしは何にしよっかなー」
先生が外食気分で助かった。スマホを取りに行こうと身体を起こした瞬間、一時停止されたままのテレビ画面が目に留まった。途端に込み上げる吐き気を必死に飲み込もうとする。トイレに走って行きたいのに足が動かない。──あ、吐く。
さいあくだ。
村雨先生の目の前で嘔吐してしまった。
咄嗟に両手で抑えたけれど、受け皿にした手からはぽたぽたと赤っぽい吐瀉液が滴る。お昼抜いてて良かった。ラーメンのちぢれ麺とか吐いてたらはずかしかったな。
酸味のある空気が喉をのぼってくるのを何度も飲み込む。入社一年目できれいに吐く方法を覚えたのに、まったく腑抜けてしまったものだ。
気まずさで硬直するわたしに対して、村雨先生のなんと冷静なことか。
わたしに動かないように指示をして、すぐに濡れタオルを持ってきてくれる。さらに汚れた服を着替えさせられ、わたしは自室のベッドで休むことになった。まだ処分しなくてよかった、わたしのベッド。息を吐く間もなく、先生が念の為にと洗面器やビニール袋などを持ってきてくれた。
「向こうを片付けてくる」
「あ、消毒用アルコールはリビングの」
「把握している」
相変わらず先生はなんでもできる。わたしが口を挟む隙もない。そんな彼に吐瀉物の処理をお願いするなんて、気が引けてしまう。まあ、汚物の処理は慣れているだろうし、こんなことでドン引きするような人じゃないのが不幸中の幸いだ。
一度吐いたらスッキリしちゃったし、先生の顔見たら元気になっちゃった。かといって、いまさら笑顔で手伝いに行ったらベッドに叩き戻されるのは火を見るより明らかだ。
寝ながらハンバーガーを注文し、「注文完了しました!」とメールを送る。返事はこない。まあ、注文がダブっても先生なら全部食べちゃうだろう。
先生が他人を心配するような人じゃなくて良かったなあ、と安堵しつつも、そういえば前に「私を心配させるな」と言われたことを思い出した。
なぜだか目の奥が熱くなった。喉がきゅうと痛くなる。
わたしの頭は、ずっとぼんやりと曇っている。
先生と別れたくない。
先生と別れてしまいたい。
相反する気持ちが、ずっと天秤の均衡を保っている。わたしは村雨礼二がすき。すきすきだいすき。心の底から愛してる。だから、先生に見放されて、別れを告げられれば、わたしはいちばん傷つくことができる。そのくらい傷つけば、許してもらえるかな。
──誰に?
──わたしが殺してしまった彼に?
こんなことで思い悩んでいると先生にバレたら、きっとまた呆れられるだろう。あれほど気にするなと言われたのに、まだ気にしているのかと叱られてしまうかもしれない。
わたしが守りたくなるようなかわいげのある女なら、先生も呆れずに庇護欲を掻き立てられていたかもしれない。ずっと「かわいげがない」と言われて生きてきたので、そうならないことはわかっている。好きなひとにくらいは可愛がられたいのだけど。
先生と別れたくない。
先生と別れてしまいたい。
同じ言葉が、また頭に浮かぶ。焼きついたように剥がれない。
先生が不意に帰ってきたりしなければよかったのに、なんて。八つ当たりも甚だしい考えが思い浮かぶ。
そう言えば、最近は帰宅頻度も上がって来ている。先生が理由もなく行動するわけがない。どうして? なんのために? わたしが何かしてしまった? 先日、アナルセックスの提案をしたのがそんなにいけなかっただろうか。
よもや、また浮気を疑われているのかもしれない。
最近、外出したりイメチェンをしたりと、疑われるようなことしかしてない。先生に気に入られようとした結果がこれか。妻が不貞を働いていないか──契約を破っていないか──探るために帰ってきているのだろうか。
愛しい先生にそんな心配をかけるなんて、まったくわたしは愚かだなぁ。
//////////そんな嘔吐事件があった翌日、わたしは謝意を表すために、デパ地下で高級フルーツと高級ステーキ肉を手に入れようと考えていた。
先生からは「生活費用に」と家族カードを預かっているが、さすがにお詫びの品を先生の金で買うわけにもいかない。そのついでにセクシーかつ清純そうな下着でも買おうかしら、とわたしはまず婦人服売り場へ赴いたのだ。なぜなら、さすがの村雨先生もゲロ吐いたばっかのわたしを抱けなかったので、これもお詫びを兼ねて──いや、兼ねてない。ただ村雨先生をキュンとさせたくて買いたいんだ、わたしが!
そんな欲望を、神さまが嗜めようとしたのだろう。
村雨先生の浮気現場を目撃してしまった。
目の錯覚かと思ったけれど間違いない。わたしが村雨先生を見間違えるわけがない。しかもその隣にいたのは、小柄で可愛らしい、透け感のあるスカートを翻して歩く、わたしの妹だった。歩くカフェラテのような可憐さと儚さ、村雨先生より頭一個分は小さい背丈。我が妹ながらめちゃくちゃかわいいな。
一瞬、あまりの美男美少女の並びに見惚れてしまった。
しかし、すぐに正気に戻って下りエスカレーターへ走る。ふたりにバレる前に退散しないと。わたしは結局、別のデパートで詫びメロンを買うことにした。先生、生ハムメロン好きかなあ。ハムはハム、メロンはメロンで食べたいタイプかな。
贈答用の桐箱に入ったメロンを抱えながら帰宅してようやく、わたしは自分が思っていた以上に動揺していたことに気がついた。ダイニングテーブルにドンと鎮座する高級メロンを目の前にして、わたしは頭を抱えた。
──やっぱり妹ちゃんみたいなのがタイプだったのか。
結婚前に両家の顔合わせをするべきだったかもしれない。そしたら、わたしはいま頃村雨礼二の義姉になれて──村雨礼二の義姉!? なにそれめちゃくちゃいいじゃん……超興奮する。村雨先生に「義姉さん」なんて呼ばれた日には、きっと心肺停止で緊急入院すると思う。
手元のスマホで、義妹と結婚できるのか検索してみた。できるのかよ。なるほど、妻が亡くなってその妹と結婚するパターンね。ふむふむ。
なるほど。できてしまう。できてしまうのか。
頭を抱えること、約二時間。
考えたり唸ったり調べたりしているうちに、夕飯の支度を開始する時刻になってしまった。けれど、わたしは椅子から立ち上がれずにいた。まあ、村雨先生はきっと妹とディナーに行くだろう。こっちに帰るとも連絡は来てないし。
そう余裕をぶっこいた直後、スマホの画面が暗転して〈村雨礼二〉からの着信を知らせる。ぎゃっと悲鳴をあげて手から落としてしまった。
やだなー、怖いなー、と思いながら、わたしはゆっくりと床の上で震えるスマホに手を伸ばす。この間に、切れてくれないかと願いながら。
願いは叶わず、わたしは長時間のコールに耐え切れず通話ボタンを押した。
「はい」
〈私だ。いまから帰る〉
やだなー。困るなー。
わたしは愚かにも、嘘を吐くことにした。だって、どんな顔をして会えばいいのか分からない。電話なら無理に切り上げることはできるけど、対面ならわたしは先生に嘘を吐けない。すぐに降参してしまう。ならばやるべきことはたった一つ、逃げるが勝ち。
わたしはショルダーバッグを掴み、会話を続けながら玄関に向かった。
「すみません、実はいま所用で外出していまして。帰りは遅くなる予定なんですよぉ」
〈そうか〉
「なので、先生も夕飯は外で済ませてきてもらえたら助かるんですが」
〈多少なら遅くなっても構わない。あなたに合わせるが?〉
「いや、もしかしたら盛り上がって、今夜は帰ってこないかもなので! なので──」
チェーンロックを外し、サムターンを回し、ドアを開ける。
そして、その隙間から村雨礼二と目が合った。
「〈ただいま〉」
スマホと目の前から、村雨先生の心地いい声がする。
わたしはきょう、また一つ賢くなった。
逃げるは勝ちだが、村雨礼二から逃げられるとは限らない。