#05 村雨礼二は愛妻家である(後編)
─1─
「何も聞かないのか」
「え?」
むしろこっちの科白だと思った。
だって、既にわたしは村雨先生に雑巾のように絞られる覚悟でいたのだから。わたしは背筋を正してソファに浅く座り、いつでも土下座体姿勢に移行できるようにしていた。村雨先生は優雅に足を組んでリラックスしている。あ、きょうは珍しくクルーソックス履いてる。村雨先生の踝、ゴツッとしていてセクシーだ。
「あなたの妹御と私が一緒にいるところを見ていただろう」
バレてたのか。
わたしはますます背中をピンと張った。側から見たら、きっとわたしの方が浮気した方だと思われるくらいにはビビってる。
「直接妹御に聞いたとも考えにくい。私に関することなら根掘り葉掘り聞いてくるくせに、なぜ今回は何も聞かない?」
もしかして、村雨先生でも罪悪感を覚えることがあるのだろうか。妻の妹とデートしているところを目撃したのに、なぜ追及しないのかと問われているのだろうか。せっかくひとが見ないフリしてあげてたのに。
「私は不倫などしない。善き夫であろうと努めている。あなたの考えはいつも身勝手だ」
「いっ妹は処女です──たぶん」
「は?」
「わたしと違って身持ちが固くて、見ての通りとてもかわいいので、ろ、論理的に考えて、わたしより妹の方が先生に相応しいと思います」
「何を」
「あの、もちろん、離婚は嫌です。先生が浮気をしないのも分かってます。ただ、わたしとしては決して先生を縛るつもりは全くないんですよ。『あーやっぱりー!』っていうのがいちばんですし、自慢の妹ですし、三方よしというか、みんなの合意が取れてるならセーフじゃないですか。そんじょそこらの馬の骨よりよほどオススメできます。心身ともにわたしより若く健康的で、優良物件です。ちょっと口と性格が悪いところは先生とお揃いですけど!」
「言いたいことはそれだけか?」
一ミリの動揺もない。わたしの軽口にも怒らない。まるでわたしが言った科白まるごと予想していたように、先生はそう言った。
ああ、やっぱり村雨礼二は全知全能だ。わたしの考えなんて分かりきった上で、わたしの言葉を待っている。
わたしは膝の上で拳を握った。サロンで「清楚系で!」とオーダーしたネイルチップが手のひらに食い込む。じわじわと上りつめていた涙が、とうとう下瞼の関を乗り越えた。
「せんせぇ、めちゃくちゃ愛してます、ので、契約を破棄させてください」
「終わりか?」
わたしは頷いた。
指輪を外してテーブルに置く。最近痩せたおかげで、するりと抜けてくれた。ここで抜けなかったらギャグになるところだった。
たった一ヶ月ちょっとの付き合いだった、この愛おしいプラチナリング。エンゲージリングと呼べなくて申し訳ない。
感極まって泣いてしまったけれど、ものすごく楽しい半年だった。スーパーレアな村雨礼二を間近で浴びることができて光栄だった。もっと上手くやれていればという後悔はあるけれど、結婚したことも離婚というオチも、決して後悔しない。
先生のおっしゃる通り、わたしは病人で、打たれ弱く、心のバランスを欠いている。会社を辞める前より家事もできていない。契約も守れていない。好みのタイプにもなれていない。
よき案件にはよき担当者がつくべきだ。
土は土に、灰は灰に、塵は塵に、オタクはオタクに戻ろう。あ、なんだか前向きな気持ちになってきた。そうじゃん、婚姻は解消されてもオタクは続けられるし。妹と結婚してくれたら親戚付き合いは続けられるかもしれない。
村雨先生が足を組み替えたので、わたしはつられて目で追ってしまう。ああ、足首の細さと浮き出た腱の太さが愛おしい。
「私は精神科医ではないので、これは診療ではない。専門外から私見を述べる。あなたは双極性障害の軽躁状態と疑われる。早急に病院の予約を取れ。私も同行する」
急に花京院みたいなことを言うじゃん。契約解除したら赤の他人に戻るのに。そんな疑問を、さすがの先生は察知したらしい。
「まだ契約期間は終わっていない。嘘偽りなく述べろ。離婚届は出したか?」
首を横に振る。
「妹に連絡は取ったか?」
首を横に振る。
「第三者に相談したか?」
首を横に振る。
「引越し業者に連絡したか?」
首を──縦に振る。
「いますぐキャンセルの連絡をいれろ」
わたしは泣く泣く指示に従った。「夜逃げが夫にバレまして」と電話口で伝えるとき、先生の視線が痛かった。
「では、ここからは私の雑談だ。余計な口を挟まずに耳を澄ませ。質疑応答の時間は取る。メモも自由に取っていい。録画録音は禁止だ。口外は好きにすればいい。──私も人殺しだ」
先生ほどのひとが手術ミスなんてするのだろうか。医療事故による過失致死? 先生のことを調べはじめて、そのような噂すら耳にしたことがないのに。
「あなたよりよっぽど腹黒く、罪悪感も覚えず、人を陥れて人を傷つけたことのある悪人だ。特にあなたのためなら人間を殺せる」
その静かな迫力に息を呑む。いまのわたしは、蛇に睨まれたカエルと同じ顔をしていると思う。
「そう、そのまま黙って聞け。あなたの歪んだ自己意識は、長期的な投薬治療とカウンセリングを必要としている。そのことを恥入る必要はない。ましてや後ろめたく思う必要は皆無だ。なぜなら、これは心の弱さなどではなく脳の病気だからだ。躁状態の患者は一見快復したように見え、突飛な発想やバカげた行動をしがちだ。これが現在のあなたの状態だ。理解したな。次に進む」
正直なところ、わたしは理解なんてできていないけれど、先生はスマホを机に置いて話を進めた。
「これは本日十四時四十四分から十六時五十二分までの録音データだ。念のため言っておくが、〝偶然〟アプリが起動して、〝偶然〟録音されてしまった、私とあなたの妹御の会話記録だ。では、再生する」
はあ。つまり盗聴ではないという体で録音データを聞けということだ。再生ボタンが押されて間もなく、聞き馴染んだ声が聞こえてきた。
〈どうもー。あなたの義妹でーす。結婚して五ヶ月も指輪買ってあげなかったって、ほんとですかぁ? 気に入らないなら返品してくれて結構なんですけどぉ?〉
〈初めまして。あなたの義兄だ。情報伝達が苦手なのは遺伝的な特性なのか? 返品も何も、彼女は私の所有物ではない。そのような言い方は下品だと思わないか?〉
……なんだろう、この空気。思ってたんと違う。スーパー銭湯の電気風呂並にピリッピリなんだけど。
〈すみません、品のない庶民でぇ。で、上品でお金持ちのお医者さんのくせに、どーして婚約指輪も結婚指輪も披露宴も新婚旅行もなく、ヒトの姉に恥かかせてくれてるんですか?〉
勢いよく挙手したわたしに合わせ、先生がアプリを一時停止させる。
「待って待って待って、誤解誤解誤解! 先生、誤解なんです! わたしそんな先生の悪口、ちょ、ちょっとしか言ってないですからね!」
「自白はまだいい。くだらんやり取りは飛ばす。次、二十二分三十五秒から再生する」
〈へー。頭いいくせに他人を頼る発想ができないんですか? デキる人間はプレゼントのリサーチだってアウトソーシングしますよ。なんでもっと早く連絡くれなかったんですか、まったく〉
〈うるさい。早く彼女の好みを教えろ〉
〈このハイヒールをずっと見てました。背が高くなっちゃうから止めとくって言ったのに、何回も手に取ってたんで間違いないです。足のサイズは……〉
〈そのくらい知っている。すまない、これを包んでくれ〉
〈かしこまりました〉
──ん? この好き透る声は、あの百貨店で案内してくれた鈴木さんでは?
〈へー。じゃあ、先に知ってること全部言ってもらいましょうか。どう考えてもわたしが知ってることの方が多いんで〉
〈過ごしてきた期間が長いだけの人間が、偉そうにマウントを取るな。先日からの、あの似合わない格好もあなたの趣味だな? 彼女は淡色より濃色が似合う。そんなことも分からんのか〉
〈はー? 分かった上でのコーデなんですけどぉ!? 夫に一回でいいからカワイイって言われたいっていういじらしい望みも叶えられなかったダメ男がなんか言ってるぅ。あ、鈴木さん。これもお願いしますね〉
〈わたしの妻は常に美しいが?〉
〈美しいとカワイイは違うんですが?〉
〈これがリストだ。彼女が好んでいるブランドから選んでいる。説教垂れずに助言だけしろ〉
〈えっっっらそーに! 金を積めば愛が買えるわけじゃないんですからね!? ちゃんとカワイイって褒ほめないと殺しますから〉
〈やれるものならやってみろ。あなたの大事な姉が悲しむぞ。はん。私のことを〝とても〟愛しているからな〉
〈キモっ。殺れたらとっくに殺ってるわ〉
先生の綺麗な指が画面をタップし、音声がまた一時停止する。
「これが不倫中の甘い会話に聞こえるか?」
「えっと、仲は良さそうですね?」
まるで流れるような漫才だ。まさに立て板に水のような罵り合い。気が合わないというか、気が合っているというか。
「あなたは耳鼻科にも通ったほうがいい。難聴の疑いがある」
「あの子が初対面のひとにここまで毒を吐けるのは、心を開いてる証拠ですよ」
「知らん。あんな女は御免だ」
続きだ、と言って先生はまた画面をタップした。
〈先ほどの靴に合わせるならどれだ?〉
〈いつものお姉なら断然こっちですけど、先生にカワイイって言われたいらしいから、フリルが大きめの──〉
〈ずっと気になっていたのだが。先ほどからのソレは何だ? 彼女が望むものを知りたいだけだ。私がどう思うかは──〉
〈好きなひとにカワイイって言ってもらうのがお姉の望みでしょうが。あんたは着飾ったお姉を見てカワイイカワイイって褒めそやせばいいんですよ〉
〈いつも言っている。美しいと〉
〈いい加減学習してくれません? 美しいとカワイイは違うんですよ〉
〈説明してみせろ〉
〈美しいは整っているかの評価基準でしょ。客観的にどう思うかなんて聞いてないの。頑張って手料理つくってくれるのがいじらしかったり、寝坊してボサボサの髪が可愛かったりするでしょーが。カワイイは自分がそう信じているなら絶対に揺るがない絶対評価なの。ほかと比較してどうというより、ずっと素敵でしょ〉
〈──参考にしよう〉
〈素直に「勉強不足でした」って負けを認めれば?〉
〈参考にしよう〉
〈あたしはラジオとしゃべってんの?〉
「まだ続きはあるが、必要か?」
「いえ」
もう十分だ、わたしが早とちりの大馬鹿者という証明は。
「物分かりよくあろうとするな。私はそんなもの求めていない。病気をすぐに治そうとも思うな。あなたのかかりつけ医を──私を信用しろ。また、次回の契約に際して提案がある。次々回の更新は九年後でどうだろうか。ちょうど十年の節目でキリがいい」
待って待って待って。先生が長文を話すと理解が追いつかない。前半にものすごく良いことを言われた気がするんだけど、後半が聞き捨てならなくてそのことしか頭に残らなかった。
「あの、せめて延長一年にしておきません? 先生にメリットが無さすぎます」
「あなたの身体を中長期的に観察できる。あなたの思考は分かりやすく、あなたの感情は読みやすい。だがあなたの行動はいつも滅茶苦茶で大変興味深い。──これで理由になったか?」
「あのー……、そのめちゃくちゃな行動って、さっき言ってた〝躁状態の突飛な行動〟ってやつでは」
「あなたの病状が婚姻関係に問題がないと分かって安心だな?」
村雨先生が意地悪そうに笑う。その顔、正直いって大変好みなのですが。
「……わたしが元気になったら、先生の興味は失せるのでは?」
あー、聞いてしまった。聞かなきゃよかった。わたしの後悔と心配とは真逆に、先生は何を馬鹿なことを聞くんだという表情でと答えた。
「それがどうした。健康であることが何のデメリットになる。病気がなくてもあなたは美しく、善人で、私に尽くしてくれる善き妻だ。健康になったところで得以外の何もない」
「どこが……」
「私にはそう見えている。客観ではなく、徹頭徹尾、主観だ。私見を述べただけなので、異議は認めない」
「これからもずっと勝手をしますよ? よく分からないことをして、先生を困らせますよ?」
「そのよく分からないものを、知りたくなった」
「盲信するくせに、言うこと聞かずに怪我したりしますよ?」
「死ななければある程度は許す。叱りつけはするが」
「……レスバが強すぎて反論が間に合わないんですけどぉ」
「では、ディスカッションを終えたところで、これより質疑応答の時間とする」
わたしはいつの間に夫婦シンポジウムに参加し、ディスカッションを行なっていたのだろう。これだけ会話を重ねてもなお状況を理解できないでいるが、控えめに挙手をして質問を行った。
「えっと、妹にわたしの病気のことは」
「言っていない。倫理的に、本人の了承なしに患者の情報を与えるわけがないだろう。親族とはいえ他人の性交渉の有無を勝手に口外するなど言語道断だ。反省しろ」
「すみません……深く反省します……」
本当に心から申し訳ないと思った。間抜けで倫理観のない姉でごめん。村雨先生に倫理観のなさを責められると、非常に胸が痛むことを学んだ。
そして、ソファの脇に並べられた大量の紙袋に視線を向けた。
見知ったブランドも、知らないブランドのロゴもあるが、言えることはどれも高級そうなこと。
「これ、もしかしてわたしのですか?」
「それ以外の何の可能性がある?」
「プレゼント?」
「そうだ。はじめて買った」
それはさすがに嘘だ。
でも、どうして急に? 記念日やイベントや何かしらの節目、どれにも該当しない。思いつかない。先生がこんなことをする理由が。
「あの、わたし、先生の言うことなら大概聞きますよ? 浮気も許せちゃうし、離婚だって受け入れるし、人殺しちゃったら一緒に埋めに行きますし、有罪になっても毎週面会に行きますよ?」
「何が言いたい?」
「う、後ろめたいことがあるなら──」
「ない」
それもさすがに嘘──だよね?
「じゃあ、どうしていきなりプレゼントだなんて似合わない真似を?」
「私も思いやりに目覚めたんだ」
それこそさすがに嘘だあ、と言いかけた口をキュッと引き結ぶ。
「似合わないことをしてみたくなった。あなたの真似をして、効率の悪いことをな」
「わたしの真似?」
「外堀を埋める、というやつだ。ご家族の中で、妹御にはまだ会ったことがなかったのでな」
「会っていかがでしたか?」
「疲れた。癒してくれ」
そう言ってわたしの肩にこてんと頭を預けてくる。
かわァーーーーッ!! かわいーーーーッ!! 抱きしめてワシワシと撫でまわしたくてうずうずする。反射的に持ち上がった両手が、あてもなく宙に浮いて空気を掴つかんでいる。
「私はいま、甘えているんだが?」
「かわいーーーーッ」
欲望を抑えきれず、わたしは村雨先生の頭を抱きしめた。わっしわっしとその頭を撫でる。頬ずりするとチクチクするこの剛毛。無香料の整髪剤の匂い。村雨先生の地肌と汗の匂い。少し低めの体温と、硬い身体が心地いい。
あー、すき。すきすきすき。やっぱり先生の奥さんでいたい。
一頻りふれあいタイムを満喫すると、村雨先生はズレた眼鏡を直して口を開いた。
「では、本題に戻ろう」
「げっ。まだあるんですかぁ?」
がばりと身を離し、距離をとって姿勢を正す。
先生の正論と実証でボコボコにされたというのに、まだわたしに何か言わないと気が済まないらしい。とはいえ、わたしには相応しい罰だろうな。この際ダメなところを全部言ってもらえた方が、後々ラクかもだ。
「あなたは──……」
遮ってもいないのに、村雨先生が不自然に言葉を切り上げる。あれだけ言いたい放題だったくせに、いまさら何を口ごもるんだろう? そんなに言いづらいことなのだろうかと不安が募つのる。
「あなたは度々、『自分はかわいいか』と尋ねてきたな」
「アッ、そっち!? あのあのあの、妹ちゃんが言ったことは忘れていただいて! そんな、無理矢理言わせるようなことじゃないんですホントに! 先生とのコミュニケーションの一環のつもりで──むぐぅ」
先生の指がわたしの下顎を掴んだ。久しぶりの強制会話シャットダウン。心なしか、指先の温度がいつもより高いような気がした。
「これまで、あなたに『可愛げがない』と言ってきた男どものことは忘れろ。そんなものに、あなたの貴重で狭い記憶領域を貸し出すな。かわいいと言ってほしいなら、私がこれから言ってやる」
「ひゃい…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………ふぁの、ひゅってくれないんですか?」
「…………」
いや、分かるよ。かわいいって魂の叫びじゃん。ほわほわの豆柴のかわいさとか、ユニコーンカラーのわたあめとか、村雨先生の心からのイヤそうな顔とか──、そんなジャンル違いのものをひとまとめにできる大きな〝だいすき〟の表現なのだ。
こんな子どもっぽい科白を村雨先生に言わせるのは酷というか、そもそも心にもないことを言わせるのは申し訳なさが勝つ。
「ふつくひいでも、うれひいでふよ」
「……」
相変わらず下顎を固定されているので、わたしの言葉は酷く間抜けだ。こんなひょっとこ面では、可愛げはおろか美しさもない。ツッコミ待ちのつもりでボケたけれど、不発に終わってしまう。
「あいひてるでも、ひいでふけど」
「……」
なんで!? 前は「愛してる」も「美しい」も言ってくれたじゃん!! そんなにいまのわたしはダメな状態なのかと落ち込んでしまう。また、じわっと目頭が湿っていく。先生の前で弱いとこ見せたくないのに。無様に泣いたりしたくないのに。感情のコントロールもできないやつだと呆れられたくないのに。
それなのに、涙は重力に引っ張られて頬を伝い、先生の指を濡らしてしまう。
「もうひいでふよぉ……」
「赤ん坊は、目を離すとすぐに死んでしまう」
ずっと沈黙を守っていた村雨先生が口を開いたと思えば、突飛なことを言い出した。なになに、かわいいって言うのが嫌すぎでバグったの?
「ふぁい?」
「動物の子どもが成獣と異なった形態をしているのは、多くは生存戦略のためだ。敵から隠れるためはもちろん、群に守ってもらいやすいように。特にイエイヌは人間との共存を選び、ヒトに好かれる見た目や性格を獲得した。多くの女性は人間や動物の赤ん坊をかわいいと思うそうだ」
これはいったいなんの講義なんだろう? 村雨先生、いくらなんでも泣いてる妻を目の前にしてコレって、また性格が悪いって思われちゃいますよ。わたしに。
「庇護欲の顕れをかわいいと表現するのなら、あなたはかわいいのだと思う」
そんな回りくどい論法じゃないとかわいいと言ってもらえないわたし、どちらかと言えばかわいそうでは?
「あなたの泣いている顔が好きだ」
「ふぁ!?」
「性交中に、舌足らずで私の名を呼ぶのがかわいいと思う。私に乱されているくせに、私に助けを求めて縋ってくるあなたはかわいい」
「ゔぅ」
わたしは、初めて全力で先生の手から逃れようとした。けれども、下顎の根本をがっちりと掴まれていて顔を背けることすら叶わない。
「そうだな、意表を突かれたときの反応もかわいい」
「も、もうひいでひゅって」
「手を繋ぐと分かりやすく喜ぶところもかわいいな。ああ、これは性交渉中とデート中、両方だ。こうやって大好きな私の指で顔を掴まれるのも好きだな? かわいいと思うぞ」
「ひぇんひぇ」
「私がいない日に、勝手に私のベッドを使っているのを、バレないと思っているあなたも非常にマヌケでかわいかった」
「むがーっ!!」
「私を恐れているくせに、きゃんきゃんと噛みついてくるところもかわいいな」
「むぐぐぐ」
「いい加減、腕が疲れた。続きはベッドで話すが、問題ないか?」
「問題ありゃ、ありまくりでしゅ──ッ」
「感情が昂ると舌が回らんところも追加しておこう。かわいいな。見合いのときからそうだった。あなたは最初から、かわいかったのだな」
「もーやめてーーーー!」
握力が緩んだ瞬間、わたしは床に崩れ落ちて耳を塞いだ。顔が熱い。顎が痛い。いまのわたしはきっと、みっともなく赤面していることだろう。言われ慣れていない「かわいい」の大量摂取に、わたしが耐えられるはずがなかったんだ。
先生も性格が悪い。
ひとをおちょくるために、こんなに言わなくてもいいのに。
「揶揄っているわけではない──というわけでもないが」
「もういいですって、もう『かわいい?』なんて聞きません。一生分、聞きました。もういいです、もう、もう……」
「拗ねるな。拗ねるあなたがかわいいから揶揄いたくなる。だから結局はあなたのせいだ」
「先生の性格が悪いせいです! わたしのせいじゃないもん!」
「その歳で語尾に『もん』をつける精神も大概かわ──」
「いくない!!」
威嚇する猫のように床に手をついて臨戦体勢をとりつつ、わたしは吠えた。揶揄われても、冗談でも、先生の口から褒め言葉が出ればわたしは喜んでしまう。そんなの、バカみたいじゃない。
「かわいいというのは、仔猫や、ハムスターや、シナモロールのようなキャラクターのことだと思っていた。それらは性的対象ではないから、あなたに当て嵌めて良いか分からなかった」
……先生、シナモロールとか知ってるの? 姪っ子ちゃんの影響? え? 先生の口から子ども向けキャラクターを挙げられると興奮するんだけど。先生とピューロランドデートに行けたりする?
「だが、確かにこれは便利だな。あなたは美しい。あなたの顔も、声も、身体も、体臭も、とても私好みだ」
つう、と先生がわたしの腕を人差し指でなぞる。ぞわっと肌が粟立った。一瞬にしてスケベな気分に切り替えられたんですけど!
「だが、美しくないときのあなたも、だいたい好ましい。そうか、そういうときは〝かわいい〟と言えばいいんだな。今後活用しよう」
村雨先生、あんなに頭がいいのに〝かわいい〟の語用を学習しそびれてるのおかしくない?
楽しそうで何よりだけどさ。
「か、可愛げのない女って言われる方がマシだった……」
つい、心の叫びが口から漏れていた。甘くてラブい雰囲気を期待してたのに、こんなに疲れるとは思わないじゃん。わたしはただ、先生に可愛がられたいだけだったのに。
ちらりと上目で先生の様子を窺うと、いたずらっ子のような笑顔を浮かべた先生と目が合った。
「残念だったな。私は嘘がつけない正直者なのだ」
「嘘つきぃ!!」
//////////そんな感じで元の鞘に収まり、先生が詫び生ハムメロンを一玉ペロリと平らげた後の話。
わたしは先生が買ってくれた服やアクセサリーの着せ替え人形になっていた。どれもわたし好みで、村雨先生と妹のセンスの良さに惚れ惚れしてしまった。一体どのくらいの額を今日一日で浪費したのかは、怖くて聞けなかったけれど。
その中で一着だけ、Aラインスカートを履いたときに「かわいい」と先生が言ってくれたので、そのスカートはわたしのお気に入りになった。
「一般に、男性が女性に服を贈るのは〝脱がせたいから〟だそうだな」
「村雨先生、たまにオジさんみたいなこと言いますよね。女の子が髪切ったら『失恋した?』って聞いちゃうタイプでした?」
ほんの軽いジョークのつもりだったのに、村雨先生がややダメージを負ったような表情をして数瞬黙った。いやいや、まさかね、村雨礼二がわたし如きの言葉に怒りはするにしろ、傷つくなんてことはないはずだ。
「……いままで、服を贈ってもらったことはあるか」
「まあ、それなりに……」
「すべて捨てろ。そして、今日買ったものをあなたのワードローブにしろ」
「先生、嫉妬深いんだ〜」
わたしは村雨先生の隣に腰掛けてウザ絡みした。
正直、かなりいい気分である。他の男の手垢がついた服を着せたくないというのは、かなり重い男では? そういうの大好き。愛してる。
「先生は元カノから何をもらったんですか?」
「何ももらってない」
「嘘だあ」
「ところで」
村雨先生は世間話のように「たとえばの話だが」と前置きをして話し始めた。くそ、これは話を変えられてしまう流れだ。村雨先生は意地でも元カノの話をしたくないらしい。
「嫌な記憶を取り除けると言ったら、あなたはそうするか?」
「え、急に何の話?」
わたしの頭のなかにはクエスチョンマークがひしめき合っていた。
村雨先生、本当に一体どうしちゃったんだろう。「思いやりに目覚めた」とか、らしくないことまで言っていたし、本当にどこかで頭をぶつけたのかもしれない。わたしは先生の頭をよしよしと撫でながら、たんこぶができていないか弄ってみた。
それでも、その言葉自体を茶化さなかったのは、先生の声色が真面目だったからだ。
いくらわたしがポンコツで愚鈍で頭が悪くても──先生が真面目に話しているってことは、間違えない。
「……しない、です。しちゃダメな気がします」
「なぜ?」
「……」
なぜだろう。自責の念? 自戒のため? 生きられなかった彼の分も頑張るため? そんな綺麗事を口にできる?
「あなたは、彼に恋愛感情があったのか?」
「はあ?」
わたしは唇を尖らせて抗議した。
「男女が仲良かったらすぐ恋愛に結びつけるの、短慮すぎると思いません? わたしにとっては初めての後輩で、──ちゃんと、面倒を見てあげなきゃ、いけなかったんです」
言っていてまた凹んできた。
目を閉じれば、彼の顔がはっきり思い浮かぶ。ちょっと頼りないけどまっすぐで、一生懸命頑張るいい子だった。
「もし、あなたがこのまま引きずり続けるとしよう。そんなことはどうでもいい。自虐も自縛も自罰も、あなたの好きにすればいい。では、彼と付き合っていた恋人は、いつ前を向けばいい。いつまで引きずればいい? 職場の上司に過ぎないあなたが、いつまでも彼のことを思っていればいるほど、間接的に彼女も道連れにしているのでは?」
「それは──」
後輩ちゃんの顔が思い浮かぶ。
彼女の未来に重荷を預けたいはずがない。わたしと同じ後悔を引きずってほしいはずがない。彼を忘れてほしい訳でもないけど。でも、幸せに、なってもらいたい。
思うことはたくさんあれど、どれもこれも言葉にしようとすると喉に引っかかって出てこない。村雨先生の言葉にきちんと答えなければと思えば思うほど、なにを言っても間違いのような気がしてくる。結局、わたしは話題を逸らすことしかできなかった。
「……忘れないのも悪いことばかりじゃ、ないんですよ。だって、あのことがなかったら、わたし、村雨先生のオタクにならなかったと思うし」
はじめて、わたしの言で村雨先生を黙らせた。
沈思。
白魚のように細長い指が血色の悪い唇に触れる。ふむ、と思案げな声を漏らした。
「あなたは、精神を病んでいなければ私に惚れなかったと?」
「ここまで沼らなかっただろうなってだけですよ」
わたしは、救いを求めて村雨礼二信仰に身を投じた。その件については以前〝診断〟された通りだ。わたしの想いは恋心でも愛情でもなく、信仰と盲信であると──村雨先生自身がそう言ったのだ。
ふん、と先生は鼻を鳴らす。面白くなさそうに。
「もし記憶を失くせたらっていう想像のお話でしょう? いじけないでくださいよ」
「いじけてなどいない。あなたの愛情はそんなものか、と思っただけだ」
それをいじけてるというんじゃ、と突っ込んで欲しいのかな?
わたしは仰々しく顔を手で覆った。
「こんなにも愛してるのに……」
「あなたの愛情を疑ったことはない。隠し切れてもいないからな。だから、安心しろ」
言っている意味がわからずに、わたしは首を傾げる。何を安心しろと言うのだろう。
「私は優秀で、有能で、金もある。あなたが付き合ってきたどの男よりもだ」
げ。そういえばその件が残ってた。なぜ村雨先生が過去の男たちの名前を知ってるのか問題。
たった三ヶ月でわたしを振った、ヒール折り男こと中野くんのことまで把握しているなんて、どこの興信所を使ったんだろう。優秀すぎる。
「申し添えておくが、あなたの身辺調査をしたわけではない」
「ほんとにぃ?」
「あなたが寝言でべらべら喋っただけだ」
「嘘!?」
寝言がひどいとか、家族にも言われたことないのに。そういえば寝相が悪すぎて先生を蹴り飛ばすなんてこともあったっけ。わたし、やっぱり別のベッドで寝た方が良い。村雨先生の青隈は好きだけど、不眠で倒れて欲しいわけじゃないもの。
「いっそ、彼らの記憶も消してしまうか?」
「えぇ……なんか本当に記憶を消せるみたいな──」
「できる。恐らくな」
「嘘ぉ……」
流石の村雨礼二でも、それは嘯き過ぎでしょう。
でも、先生ならできそうな気がするのが怖いところだ。
「試してみるか?」
いたずらっ子のように、悪魔のように、あるいは魔王のように笑う村雨先生に、わたしは「やってみてくださいよ」と笑い返した。
//////////やってみてくださいよ、という科白に村雨は笑みを浮かべた。患者への事前説明は完了だ。
村雨礼二はソファに並んで座った妻の手の甲に、そっと人差し指を置いた。妻の涅色の虹彩を覗き込み、目を合わせて意識を集中させる。
そして滔々と言葉を並べた。
「いま、私の指先があなたに触れている」
「触れた点から、互いの体温が均されていく」
「いま、同じ体温になった」
「あなたと私の身体はつながり、現在は私があなたの肉体を支配している」
「瞬きをするぞ。一回、二回、三回。──そうだ」
「あなたはもう動けない」
嘘だあ、と言いたげに笑った彼女は、直後に表情を凍らせる。村雨の言った通り、身体を一ミリも動かせないことに驚いているのだ。
「催眠療法というのは、信頼関係がないと効きにくいらしい」
「催眠!? 先生、そんなことまでできるんですか!? えッ、もしかしてエロ催眠とかも」
「黙れ」
「────」
褒めてやろうと思った瞬間にこれだ。
治療目的なのだから、そんなふしだらなことに使うわけがない。彼女が望むなら話は別だが。
「あなたが私をよく信頼している、その証左だ。どんな気分だ?」
「え、か、かかってる!? あっ、喋れる。喋れてる。嘘、全然わたし普通なんですけど!?」
「右手だけ自由にしてやる。私を撫でろ」
固まっていた彼女の腕が、ふわっと力が抜けて垂れ下がった。その後、ゆっくりと持ち上がって村雨の硬い髪を撫でる。
「うそうそうそ、こわっ! 何これ!?」
ぎゃあぎゃあと喚く彼女が、その声の大きさに似つかわしくない優しい手つきで村雨礼二の髪を撫でた。
「そのまま、私に触れていろ。安心しろ、怖くない」
「──先生」
「SFのように記憶を消去するわけじゃない」
「村雨先生ってば」
「少しだけ、思い出しにくくするだけだ。あなたからは何も奪わない」
「わたしが、先生のこと、好きじゃなくなってもいいんですか」
妻の声が緊迫している。どうやら本当に村雨礼二が「やる」気だと理解したらしい。それでも村雨礼二は淡々と続ける。彼が仕事中、いつでもそうであるように。
「三つ数えると、あなたは会社のことをすべて忘れる。
一、
二、
三──」
まるで糸を切られたマリオネットのように、妻は意識を手放して崩れ落ちた。村雨はしっかりと身体を抱き、乱れた前髪を整えてやる。
今後について考えなければならないことはたくさんあるが、いまはただ、愛しい妻が悪夢に魘されず眠れることを喜ばしく思った。
─2─
〝だって、あのことがなかったら、わたし、村雨先生のオタクにならなかったと思うし〟と彼女が言った直後の沈黙二秒間、村雨礼二は考えていた。
自分に出会うまでの彼女は、ダメ男とばかり付き合っていた。それは事実だ。昔の彼女に戻ってしまえば、またダメ男が好きになるかもしれない。そうなれば、ダメ男でない自分は選ばれないかもしれない──そこまで考えて、村雨礼二は自嘲した。
──選ばれる、だと? 私が?
自分は常に選ぶ側の人間だった。人生の選択も、ギャンブルの勝敗も、扱う患者も、配属される部署も。すべて己が好ましいと思うものを選んできた。選別してきた。不要なものは切り捨ててきたし、それを省みることはなかった。
それがこと彼女においては、一瞬だけ躊躇した。選ばれない可能性を考えて二の足を踏んだ。そんな自分が腹立たしい反面、何かを得られたような気がしたのだ。臆病さにも似たこの不安は、これまで村雨礼二が持ったことのない感情だった。
医者ならば、患者を救うべきだ。
医者ならば、悪性腫瘍は取り除くべきだ。
彼女が頷くなら、悪い記憶は消してやるべきだ。
それで彼女が健康になるのなら。
彼女を許せる人間はもうこの世にいない。だから、村雨礼二は独断で彼女を許す。もう苦しむ必要はないと、村雨が彼女を許すのだ。解放するのだ。治療するのだ。たとえ、そのせいで自分の心を痛めても。この手から離れる可能性があったとしても。
村雨礼二は、夫としてではなく、医者として行動することにした。
なぜなら、村雨礼二は医者であるから。
なぜなら、村雨礼二は愛妻家であるから。
なぜなら、妻が惚れたのは医者・村雨礼二であるから。
苦労して妻を寝室のベッドへ運んだ後、一息吐いて村雨礼二はスマートフォンを取り出す。
彼女の元後輩のアドレスへ一通のメールを送ったのち、連絡先を消した。
〈先日説明した通り、妻の連絡先からあなたを消した。もう二度と、あなたからコンタクトを取らないように。そして、お幸せに〉
村雨礼二は眠り続ける彼女を見つめた。
とても深く眠っている、穏やかな寝顔。
眠り姫が目を覚ましたとき、果たして同じように自分を愛してくれるだろうか。叩き起こして結果を知りたい好奇心が五。ようやく彼女に訪れた安眠に浸らせてやりたい優しさが五。フィフティ・フィフティの脳内決議は、後者に勝ちを譲ることにした。