#06 続・村雨礼二は愛妻家である
─1─
「──ふぁ」
「起きたか」
時間にして五時間二十分。一度も魘されることなく、妻は深夜に目を覚ました。覚束ない眼差しで、ふらふらした視線を村雨に向ける。
「あれ、先生、お帰りなさい」
「記憶はどのくらい残っている?」
「んぇー、きおく?」
まだ寝ぼけ眼な妻に、村雨は矢継ぎ早に質問した。「今日の日付は?」「午前中何をしていた?」「体調の変化を感じるか?」、等々。日付にずれはなく、午前中は買いものに行っていたと答えた。村雨と妹を目撃したことも、服やらアクセサリーやら大量にプレゼントされた記憶はないようだ。おそらく、会社のことと合わせて忘れたい記憶であったのだろう。
矢継ぎ早な質問に妻は怪訝そうに眉を顰めた。
「どうしたんですか、突然」
「その服」
「え」
自分が着ている服を見て、彼女は首を傾げた。村雨にプレゼントされた記憶がないため、なぜ身に覚えのない服を着ているのかと戸惑っているようだった。
「私が贈った服は気に入ったか?」
「せ、先生が買ったんですか!? これ!? なんで!?」
ゆっくりと這い寄り、動揺する妻の手をエスコートするように迎えに行った。やはり私の見立ては素晴らしいと、胸中で自画自賛しながら口角を上げる。
「あなたを脱がせるためだ」
数時間前とほとんど同じ科白を言ったのに、今度は「オジさん臭い」などと揶揄ってこない。やはりこれは気が利いた科白だったのだ、と村雨は気分を良くした。
腰を抱き寄せながらじわじわとベッドに押し倒していく。何度も大きく瞬きをしながら状況を理解しようとする彼女は、表面上は普段と大きく変わりないように見える。村雨はしっかりと観察しつつ、彼女を見下ろした。目を逸らすことなく見つめ合いながら、右手で彼女の太腿をなぞった。
「いつもの夫婦の営みだ。文句はないな?」
返事を聞く前に唇を重ねた。妻はきゅっと目を閉じ、長い睫毛を震わせている。
様子を窺うように軽い口付けを繰り返すが、いつものように唇を開かない。探るように割れ目へ舌先を押し込むと、驚いたように身を突き飛ばされた。
「──っ、え」
驚いた顔をしたのは、妻の方だった。
反射的に動いた自分の手と村雨とを見比べて困惑の表情を浮かべている。
「どうした」
「な、何も」
様子がおかしい。普段と異なる。抱きしめたときからそう感じてきた。瞳孔の開き具合。視線の揺らぎ。身体の強張り。肌を撫なでたときの緊張。口付けをしたときのぴたりと閉じられた唇。彼女は全身で、村雨を拒んでいる。
「──あ、あの」
沈黙を破るようにあげた声は、緊張による喉の渇きで擦れている。不安と恐怖による発汗。頻度を増す瞬きの回数。村雨との性交渉を恐れているのは火を見るより明らかだ。
予想されたひとつの結果だ。村雨は、これは落胆ではないと自分に言い聞かせながらすっとぼけた。
「何か?」
妻の現状を慮るならば、そっとしてやるのが一番だ。また一から手懐ける労力を割くのが妥当だ。だが、明確なノーをもらうまでは食い下がろうと決めていた。
「い、いま、ですか?」
「嫌か?」
「嫌じゃな、ないです」
ならば、と村雨は立て続けに尋ねた。
「怖いか?」
妻は言葉を失った。驚いたように瞳孔が開く。どうして分かったのかと、視線で問うてくる。新作のリップグロスが残る美しい唇が震えていた。
その場しのぎの嘘を吐いて誤魔化そうとしたのか、一瞬だけ笑顔を作ったが、その表情もすぐに崩れた。
「ずみ゙ばせん゙……っ」
いままで、彼女がこんなにも肩を震わせて大粒の涙を零したことがあっただろうか。鼻水を啜って無様に泣き崩れたことがあっただろうか。前の上司に立ち向かうときも、不審者と勘違いした真経津に対峙したときも、ここまで怯えてなどいなかった。
「わた、わたし、分からなくて──分からなくなっちゃって」
村雨は、今回ばかりは折れてやることにした。良い夫として、憔悴した妻は優しく宥めてやるべきだ。
妻は怯えつつも村雨から逃げるような素振りは見せていない。未知の不安のなか、縋る相手として村雨を認識しているのだ。それならば問題ない。また惚れさせればいい。どのように仕掛けるべきか、すでに並行して思考を走らせていた。
「大丈夫だ」
「どうしよう。先生、せんせぇ、わたし、できない」
「あなたのせいではない」
「お、おと、男のひととするの、わからなくて」
「は?」
妻が何を言っても受け入れようと考えていた村雨は──思わず聞き返していた。
//////////どうやら妻は、男性経験をまるごと忘れてしまったらしい。
会社のことを忘れさせようとしたのに、思いがけぬ副産物だ。前後で「過去の男たちを忘れさせる」と発言したことが、無意識的に効いてしまったのだろうか。そうすると、妻はかなり思い込みが激しい傾向があると言える。
「私の名前を言えるか?」
「村雨先生。むらさめ、れいじ、さん」
「そうだ。いま、あなたは一切の男性経験の記憶がなくなっている。そうだな?」
こくこくと頷いた拍子に涙の粒がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……ちなみに、私以外の男と付き合ったことはあるか?」
妻は不思議そうに首を傾げた。まるで、村雨以外の恋人など存在したことがないかのように。やはり、同期の垣本だけでなくすべての恋人たちの記憶が抜け落ちているようだ。
彼女の目元に残った水分を親指で拭う。眼球という急所に近い場所に触れる行為だが、それに対しては拒否反応を見せない。村雨は小さく息を吐いた。安堵のため息だ。
自分ともあろう人間が、ケアレスミスを犯すところだった。彼女が怯えていたのは、村雨に対してではない。〝はじめて〟の性行為をうまくできるかという不安が恐怖として表面化していたのだ。村雨に向けている感情に、彼女の愛に、何の変化もなかったのだ。
「どうしよ、せんせぇ、ごめんなさい。嫌いにならないで」
「ならない」
「おかしい。おかしいよ、だって、先生と結婚してっ、指輪ももらってっ、ちゃんとっ、ちゃんとしてたはずなのに、分かんない……っ」
妻はしゃくりあげながら混乱を口にした。事実として記憶していることと、思い出として抜け落ちている記憶。そのちぐはぐな状況を整理できずにいる。
そんな彼女を可哀想だとも思った。その反面で違う感情が興る。形容し難いどろっとした情欲が胸を占めた。
彼女がこんなにも弱々しいのは初めてだ。いまなら、こんな彼女の〝初めて〟を暴く男になれる。処女膜に興味はない。処女信仰など持ち合わせていない。が。彼女の脳に、記憶に、村雨が初めての男だと刻まれるのは悪くない。
「わたし、EDなのかも」
「……女性は勃起不全にはならない」
まるでドラマのワンシーンのようにほろほろと美しく涙を零しながら、てんで的外れな彼女の言葉に毒気が抜かれた。
抱き寄せて頭を撫でてやると、幾分か落ち着いたようだった。自分は次男であるが、甥姪の面倒をみたことはあるし、年下の友人も多い。村雨礼二は〝年下のお守りは慣れている〟と自認していた。
「初めてが私では不満か?」
胸のなかで小さく首を横に振られたのがわかった。
「いまから抱いても?」
「だ、抱くって……」
「性行為をするということだ」
村雨の耳には、息を呑む声すら鮮明に聞こえた。高鳴る彼女の心音も、つられて鼓動を早める自分自身の心拍も。互いの熱も。呼吸も。新鮮な興奮を与えてきた。
「あなたの夫は、近年稀に見る思いやりのある男だ。あなたに無理を強いるようなことはしない」
「そう──そうかな?」
「そうだ」
初夜のことを思い出させまいと彼女の下顎を掴んで意識を向け直した。ホテルで乱暴に緊縛して虐めたことは良い思い出だが、いまの彼女には不要な記憶だ。柔らかい頬に挟まれ、むにっと歪んだ唇が愛おしい。
妻は両手を胸の前で握っている。筋肉の緊張。胸と腹を守る仕草。腕を挟むことで物理的な距離をとっている。
村雨は彼女を怯えさせないよう、軽く額に口付けた。
「せ──先生は、したい、です?」
「どちらでもいい」
「そ、そっかあ」
彼女が一瞬浮かべた感情は、落胆だった。小さな絶望。その背後の不安。淀んだ感情を切り替えて、すぐに笑顔で上塗りしていく。その鮮やかな取り繕いは、村雨以外ならば上手く騙されただろう。
「ど、どっちでもいいなら」
「不安がるな」
また下顎を掴んで目を合わせた。無知な子どもに道徳を教え聞かせるように言い含める。
「『どちらでもいい』と、『どうでもいい』は大きく異なる。性行為をしようが、しまいが、そんなことであなたに対する感情は変わらない。私の思いやりを、投げやりな言葉として受け取るな。あなたが断っても、変わらずあなたを愛している」
「ゔぅ」
「泣くな。こちらもこちらで、持て余している」
空いた左手で彼女の手を引き、己の下半身へ導いた。硬く熱を持ったままの陰茎に服越しに触れさせる。
これまでの彼女なら喜んで触ってきただろうが、いまはおっかなびっくりな調子で表情も身体も硬直している。握ろうともしない。おかげでおかしな気持ちに目覚めそうだ。怖がる処女に性器を無理矢理触らせようなど、痴漢もいいところだ。
「あの、せんせぇ、あの、これ」
「勃起しているが」
勃起、という言葉に顔を赤くする。気まずそうに目を逸らした。新鮮な反応だ。いまの彼女にならユニコーンも傅くだろう。
「あ──あの、先生、わたしで興奮、して、くれます、か?」
「しているが?」
何を当然のことを、と思ったが、いまの状態の彼女には必要な問いだった。そもそも繁殖を目的としない性交渉は、その名の通りコミュニケーションだ。身体だけでなく、言葉も重ねなければ交渉ではない。
「あの──わた、わたし、きょう上手くできない、かもしれないんですけど」
勇気を必死に振り絞る声だった。羞恥と不安で震えた声だった。彼女はそんな小さな声で「抱いてくれますか」と問うた。無論だ、と頷く。
「き、気を遣ったりしなくていいですから。先生のいつも通りで、せ、先生が良くなかったら、途中でやめていいですか──んぅ」
妻の言葉を取り上げるように、村雨はキスをした。優しく触れるように。ちょうど開いていた唇の隙間から舌を差し込むと、身を守るように歯が閉じた。歯列をなぞって誘い出そうとするも、頑固だ。
「舌を出せ」
素直な彼女は恐る恐る顎を上げて口を開いた。舌先がわずかに顔を出したところを迎えにいく。いつもは熱烈に求めてくる舌が、いまでは箱入り娘のように恥じらって村雨の舌に翻弄されていた。
彼女の細い身体に跨って、ねっとりとしつこいキスを繰り返す。最低限の呼吸は確保しつつも、長く、永く、村雨の味と温度を教え込むように。眼鏡がずり落ち、体温で曇るので一旦外した。
村雨はとっくに彼女の口内に詳しかったし、上顎の気持ちのよいところや、逃げ惑う舌がどのように隠れるのかも分かりきっている。彼女は舌先を吸われるのが好きだ。根本をくすぐられるのも悦ぶ。答えを知ったドリルを解くように彼女の口内を犯していく。
キスをしている間、手をどこに置いていいかわからず、遠慮がちに村雨の服を摘んでいるのが愛おしかった。可愛らしかった。いじらしい。健気だ。その手を剥がして指を絡ませると、少しだけ身体の緊張が解れたのがわかった。手を繋ぐのが好きなのは、変わらないようだ。
唾液を飲むタイミングがわからないようで、口内の水分はどんどん容量を増して水音を大きくしていった。彼女の小さな舌が疲れ、鼻呼吸だけでは辛そうなのは分かっていたが、この甘い時間をもう少し堪能したくて引き伸ばし続けた。
やがて口角から溢れ落ちそうになったとき、唾液を引きずりながら舌を抜き「飲め」と短く命じる。彼女は一拍遅れて指示を理解し、ごくんと喉を鳴らして飲み込んだ。
「いい子だ」
額に張り付いた前髪を退けてやろうと指でなぞると、撫でてもらえると思ったのか頭を預けて顔を擦り寄せてくる。汗で湿った髪を梳くように撫でてやると、満足そうに目を細めて微笑んだ。
顔も首も耳たぶまでもが真っ赤に染まっていた。
「かわいいな」
思わず口から漏れていた。
こんなことは村雨礼二にとっては珍事だった。あらゆる感情をコントロールできる彼にとっては、思ったことが口を突いて出てくるなど、幼少期以来のできごとだった。
「へ──?」
妻は目を丸くして、すぐに顔を背けた。回り込むようにしてじっと表情を見つめるとまた逃げる。それを追ってまた顔を覗き込む。すると手で顔を隠す。その手を力ずくで剥がすと、ようやく観念したように、緩みきった赤面を露わにした。
「にゃ、──なん、ですか」
睨みつけるように啖呵を切っても、キスで疲れ切って回らない舌と潤んだ瞳ではとても迫力がない。
「別に? かわいいと言っただけだが」
ぴくっと妻の肩が跳ねた。
「かわいいものをかわいいと言ってなにが悪──」
村雨の口を妻の手が塞いだ。涙目でムスッとしているのは、揶揄われていることに気付いたからだろう。二回目以降はともかく、本音が漏れたのだとは思ってもいないのが妻らしい。彼女は反撃をするように生意気な視線で睨みあげた。
「き、キスだけで終わらせるつもりですか?」
「まさか」
意地悪く釣り上がった口角を覆い隠してしまうと、一瞬にして村雨の表情は読めなくなる。妻が戸惑った隙に、その身体を抱き上げて背中に手を回した。
ブラジャーのホックを一瞬で外し、汗ばんだ背中をつうとなぞる。ゆっくりと背中を指が這い、彼女の敏感な箇所を通るたびに大袈裟に身体が跳ねた。
「んっ♡」
「身体は私を覚えているようだな?」
「わかんなっ、いです」
「感度が変わっていないか診てやろう」
「んぅ……」
揶揄う村雨に、妻は不満げな声で唸った。身体を遠ざけるように、また腕を間に割り込ませた。
「か、変わってたら、どうするんですか……」
「どうとは?」
「か、かんっ、感じ方とかっ、知らな、覚えてないのに……っ」
いまの彼女はよく泣く。
村雨に泣かされるのではなく、自発的に泣く。いつもは隠したがっている弱みを明け透けに見せてくる。昔の彼女はこんなにも泣き虫だったのか。あるいは一年前の事件のせいで、弱みを見せることができなくなったのか。
これまでにも彼女が甘えてくることは多分にあった。うざったいほどに。空気も読まず。一方的に。ただし、そこにはいつでも保険があった。村雨が無碍なく断っても笑いになるように、村雨にいつ捨てられても諦められるように。彼女の強引さの裏には、それが叶わなかった場合の自己防衛策が透けて見えていた。
彼女はいつでも自分を罰したがっていた。
「──うまく、できなかったら、」
「上手くいくに決まっている。セックスは共同作業だ。私に任せればいい」
「でも」
「私を誰だと思っている?」
「……村雨せんせぇ」
「睦言に理論を求めるな。言葉責めも興奮を高めるための手段だ」
「い、いじわるしないで──優しくしてください」
彼女から初めて聞く言葉に、村雨は口角を釣り上げた。薄い唇が三日月型に歪む。
「言わずもがなだ。とびきり優しくしてやる」
村雨礼二は有言実行の男だった。指先で身体を弛緩させ、言葉で恐怖心を解きほぐす。自分が選び、着させた服を一枚一枚剥いでいくのは愉快だった。下着だけは彼女の自前だったので、今度は下着も揃えて贈ろうと思ったほどだった。サイズはすでに把握している。
ショーツのみの姿にされた妻が、ようやく思い出したように「で、電気」と口にした。
「眩しいか?」
「は、恥ずかしい……、です……」
恥じらう彼女をこそ見たいのだ。しかし、〝優しくする〟からにはベッドランプの明かりを残して照明をオフにする。
妻はベッドランプも気になるようだが、一度は素直に言うことを聞いてくれたので、それ以上のお願いはできないようだった。
空気を読むが故に流されやすい、彼女の本質の一片を垣間見た気がした。
キスと同じくらいに焦ったい愛撫に、妻はすぐに音を上げた。湿って不快なショーツを脱ごうとすると村雨に阻まれ、生地の上からすりすりと柔らかに刺激される。
ようやく中指が挿入されたときには、その身を反らして「ああっ♡」と声を上げた。思いがけない嬌声だったのか慌てて口を手で覆う妻に、村雨は「聞かせろ」と短く命じた。
「んっ♡ うぅっ♡」
室内に水音と妻の押し殺した喘ぎ声が響いた。ぎゅうぎゅうに締めつける膣内を村雨の中指が押し進める。快感を拾いやすいところはわざと避けた。これから訪れる刺激に慣れさせるために、優しく、優しく、やわらかな肉壁に触れて知らせた。これからここに立ち入るのは決して悪いものではないと。
「は、ゔッ♡♡♡♡」
「ここが、あなたの好きなところだ」
ようやくGスポットを刺激して甘イキさせたときには、漏らしたような大きな染みがシーツに広がっていた。
人差し指、薬指と本数を増やすにつれて、膣内も心も十分とき解されたようだった。何度も甘イキを覚えさせる内、自ら指を迎えるように腰が持ち上がっていった。その無意識的な行動を愛おしいと思いながら、村雨は枕を引っ張って妻の腰下に置く。その気遣いでようやく自分の体勢に気づいたのか、妻は恥ずかしそうに顔を手で覆った。
「隠すな。私に隠しだては許さない」
「だっ、て……」
「キスができない」
そう言えば素直に手を退けるところがまた愛おしい。困ったように垂れた眉尻にも口付けを落とした。
コンドーム越しにぬちゃぬちゃと割れ目を擦る。十分に濡れてはいるし、指はスムーズに咥えるようになったが、やはりまだ固い。
投げ出された手が乱れたシーツを掴んで震えている。なるべく密着するようにと、村雨は首に手を回すよう指示をした。
さらに押し込んだ瞬間、がりっ、と彼女の爪が村雨の背を掻いた。一瞬痛みに顔を顰め、すぐに取り繕う。幸い、彼女は村雨の表情を見ている余裕もないようだった。
「っ、ぃ」
「ふぅ──」
どうしても入らない。心も身体も十分に解したはずなのに。まるで「お前はここの主人ではない」と門前払いを食らっている気分だった。
意識次第でこうも違うか。村雨は落胆することもなく、新たな知見に興奮していた。
ひっ、ひっ、と苦しそうに呼吸をする妻の意識が逸れるようにとあちこちにキスを降らせた。
「一旦抜く」
「っ、だっ、じょぶ、ですからぁっ」
村雨にとっては大丈夫ではない。陰茎がもがれそうなくらいの締め付けだった。そして、それはいまも村雨の亀頭を飲み込んできゅうきゅうと締め付けている。
やはり一時撤退が良い、と考えていたときだった。
「っせんせ、ごめんなさ……っ」
妻の申し訳なさそうな涙声が熱った脳に響く。
「ぁたし、がんばるからぁ、も、ちょっとだけ、待って、くださ、ね?」
潤んだ瞳でそう〝お願い〟され、村雨は一時撤退の方針を脳内から抹殺した。何より、ぎんと硬さを増した陰茎がここから出たがらなくなってしまった。自分の陰茎を息子と擬人化するレトリックが何となくわかる気がした。自分の体の一部だが、時折り反抗的なのだ。
愛撫やキスで誤魔化しながら、少しずつ進入を試み、たっぷりと時間を使ってようやく根元まで挿入することが叶った。
お互いに「ふーっ」と長く息を吐く。
村雨は繋がったまま妻を抱きしめた。彼女も喜んで抱き返し、お互いの鼓動の音を聴きあった。
しばらくして、妻は違和感に気づく。
ようやく挿入できたのに、村雨は一切動く気配がない。まさか、疲れ果てて寝てしまったんだろうかと、控えめに声をかけてみることにした。
「せ、せんせ?」
「何だ?」
はっきりと耳元で返答がある。微睡んでいた様子もない。それに、咥え込んだままのペニスはずっと熱く、硬いままだった。
「な、なんでも……」
何か粗相でもしたかと不安になり、結局妻は沈黙を選んだ。遠慮がちに村雨の背を抱く手のひらが、不安げにぴくぴく動いている。村雨は分からずやな妻に説明してやることにした。
「馴染むのを待っているだけだ」
「な、なじむ?」
「あなたのここが」
村雨は腹でぐっ、と圧迫して子宮とその下の膣道を示した。
「んぅっ♡」
「私の形を覚えるように、だ」
「っ、いい、いいです。そんな、の、大丈夫ですから……」
「私に任せろと言った」
「言ったけどぉ」
「待て」
まるで犬へのコマンドのように妻の言葉を遮る。その声色だけで、賢い妻は何を言ってもだめだと理解した。
──五分後。
痛みがだいぶ和らぎ、呼吸が落ち着いてきた。村雨の背中を強く抱きすぎていることに気づき、腕の力を弱める。
──十分後。
体勢のキープに疲れたのか、村雨の身体が重くなった。圧迫されるのが心地いいが、内臓越しにありありと村雨のカタチを意識してしまう。
──十五分後。
すっかり馴染みきったように思うのに、村雨は「まだだ」と少しも動く様子がない。あまりに長く放置され、強張っていた身体が軟化してベッドに沈み込む。少しだけうとうとした。
──二十分後。
焦れて腰を動かすと「動くな」と叱られてしまう。抗議のつもりできゅうきゅうと膣内を締めると「叱られるのが良いのか?」と問われて動かせなくなってしまった。
──三十分後。
異物感はとうになくなっていた。あんなに熱かった体温がいまは均されたように、まるで自分の身体の一部として溶け合っているようにさえ感じる。
──四十分後。
「せんせえ、そろ、そろぉ……っ」
「待て」
性知識豊富な状態の彼女なら、「ポリネシアンセックスでももう腰振ってますよ!」とでも言っただろうか。村雨のコマンドに忠実に従う彼女はとても愛おしく、動いてやる代わりに何度も顔や頭を撫でてやった。
──五十分後。
擦らないで挿入されているだけで、こんなに気持ちが良くていいのだろうか。妻は身体の芯からじんじんと深く柔らかく染み渡る快感にくらくらしていた。
子宮が降りてきて村雨の亀頭に吸い付いているのも、びくびくと膣内を痙攣させているのも、彼女の意思によるものではない。時間をかけてようやく、彼女の身体が村雨に応えてくれているのだ。
──やがて時計の長針が一周の旅を終えた。
「〰︎〰︎〰︎〰︎っ♡ せんせぇ、むりぃ、もぉ、むりでしゅ……」
「……私はまだいけるが?」
ぐり、とわずかに動かされた感覚だけで腰が砕けそうになる。約一時間もその硬さと大きさを保っていられるなんて、「私の体力はゴミだ」なんて誰がほざいた言説なのだろうと妻は遠い目で考えていた。
「うご、きたい、です……っ♡」
「痛みは」
「もぉないからぁ……っ」
「〝よし〟、動いてみろ」
エサの前で涎を垂らし続けた犬に、ようやく許可が与えられた。彼女はまず腰を引いてすっぽり収まった陰茎を抜こうとして──それだけで絶頂して動けなくなった。
ぱちぱちと視界に火花が散る。
焦点が合わなくなった眼球が揺れた。
頭が真っ白になる。
「──、? っあ?」
「ふっ、腰が抜けたか?」
「っ? え、ぁ」
「具合は良いようだな。動くぞ」
ずるぅうと抜かれた直後にぢゅぱんっと強く叩きつけられるように穿たれ、身体を突き抜ける快感に失神しそうになった。すっかり村雨の形に馴染んだ膣内は、その凹凸をいやでも感じとり、ごりごりと擦られる快感に脳を揺さぶられてしまう。
いままでの静寂が嘘であったような、激しく貪るようなピストンに言葉も出なかった。ただ横隔膜を突き上げられて肺から漏れ出る息が、喘ぎが、不明瞭な嬌声に変わって寝室に響いた。
「あ゙ぁッ♡♡♡ ぅあ♡ は♡ あッ♡ あッ♡ あッ♡♡♡♡ あ゙〰︎〰︎ッ♡♡♡♡」
何度も絶頂を通り過ぎたかわからず、気を失いかけてもまた中を穿たれ覚醒させられる。もうこれで終わりだろう、と何度思っただろうか。これが自分の感じる最大だと何度思ったことだろうか。それは何度も塗り替えられ、また新たな快感と悦びで上書きされていく。
「あぇ、ま゙ッ♡ まっでぇ♡」
「子宮口が吸い付いて来るぞ。そんなに私の子種が欲しいか?」
「や゙っ、とま゙って♡ とめ゙てっ、おねがっ、あっ、ひぅッ♡」
防音性の高い寝室内に、ばちゅっばちゅっと濡れた肌がぶつかる音が響き続ける。声を抑えることも忘れてしまった妻は、肺の空気を絞り出しきって酸素を求めて喘いでいる。村雨にとっては馴染みのある──そして自分用に整えた──柔らかく温かい膣内を、懐かしむように蹂躙した。
村雨とて余裕は残っていなかった。あまりに長い挿入時間のあいだ、きゅんきゅんと締め付けられるたびに精巣が迫り上がるのを感じていた。彼女が腰を動かした瞬間、目が眩むような快感を彼も感じていた。
体感的には普段より幾分も早く射精し、コンドームを取り替える。いまだとろとろと愛液が漏れ出る妻の秘部に二度目の挿入を行い、まるで掻き立てられるように腰を振り、その身を抱く。もはや言葉や愛撫は必要なく、水音と肌がぶつかる音だけが部屋に響いた。二発目を終えても昂りは治らず、三枚目のコンドームが目の前で被せられていくのを、妻は信じられないという顔で眺めていた。そのマヌケな顔が愉快だった。 //////////
両者ともに疲れ果て、ベッドに横たわってお互いの顔を見ながら息を整えていた。
ふにゃっとした緩んだ表情で、妻は微笑む。
「やっと満足できました?」
「やっと、とは?」
「え──えっと、なんでだっけ……い、いつものわたし、たぶん、先生のこと気持ちよくできてなかったんですよね? それはすっごくよく覚えてて……」
言い淀んだ言葉の温度変化に、村雨が気づかないわけがなかった。
「あなた、記憶が戻っているな?」
うっ、と言葉に詰まって視線を逸らした。
村雨は見極めなければならない。彼女が何をどこまで思い出したかを。歴代の男についてはまだ良い。彼女を最も苦しめている病巣を取り除けているかが肝要だ。それに、一体どのタイミングで思い出してしまったのか。
「そ、その、……」
「いつからだ?」
「──かわいい、って。言って、くれたときに。そう言えば、催眠? みたいなのかけられたなあって」
序盤も序盤ではないか。見抜けなかった自分に村雨は驚いた。不思議だった。興味が湧いた。ならば何だったのだ、あの処女らしい身体の強張りは? リアルな恐怖を滲ませた不安げな顔は?
「演技だったと?」
「いえ、ちゃんと思い出したのは、その、動いてもらったときで……なんだろ、ぱんって音が聞こえたと思ったら」
大きな柏手で催眠を解いていたのが、まさか腰を打ちつける音と誤認して勝手に解けていたとは。これも思わぬ実験結果だ。予期せぬインシデントだが、これも興味深い。
「その、せんせ、そんなに処──うぶなわたしを抱きたかったん、ですね」
「は?」
「えーっと、その、すみません。せっかく、エロ催眠で忘れさせてもらったのに……、もとに、戻っちゃって……」
「だからエロ催眠では──はあ?」
「は、半年も先生の奥さんやってるのに、ちっとも先生のこと理解できてなくて、ごめんなさい。あの、わたし、恥じらいがなかったんですよね。か、可愛げがないというか。自分のダメなところがやっと分かったというか」
「何だと」
「か、かわいいって──言ってもらえて、嬉しかったです。だから、あの、また、お願いします」
真っ赤になりながら照れる彼女は心底嬉しそうで、そのことがより村雨を苛立たせた。この期に及んで彼女は、まだ自分の魅力を見失っているのが許せなかった。そしてその遠因に「かわいい」と睦言を言ってこなかった自分が関係していることも腹立たしかった。
「先生?」
静かな苛立ちを感じ取ったらしく、妻は声量を落とした。彼女なりに〝恥じらい〟をそのように解釈したのだろう。それでも、恥ずかしさや気まずさを早口で流そうとする癖は抜けないようだった。
「あ、あー。こ、こういうのを口に出しちゃうのが可愛くない、んですよねー。まーたやっちゃった。先生、お風呂沸かしてきますね。ついでにお背中流しましょうか? なぁんて」
「頼む」
「へぁっ!?」
この半年間、裸で抱き合ったことはあれど一緒に入浴したことはなかった。
「は、恥じらいを持てって言うところじゃないんですか!? ここは」
「夫婦で混浴して何が悪い」
「わ、悪くはないんですけど。……そんなに、……そっか、そっかぁ……」
彼女の声が鼻声になっていき、やがてひぐひぐと本格的に泣き出した。いまの彼女は本当によく泣く。予想できていなかった反応だが、その思考回路は簡単にトレースできた。例えば──処女の自分が良かったから、一緒に風呂へ入る気になってくれたのだろう。それほどまでに、これまでのセックスが、自分の行いが悪かったのか──そんなところだろう。
「だが、その前にもう一度あなたを抱く」
「あ──はい、どうぞ。こ、こんな感じでいいですか?」
妻は村雨の様子を窺いながら仰向けになり、臍の上で指を組んだ。目を閉じて待っている。ふたたび、催眠をかけられるのを。
「もう催眠はかけない」
「なんで?」
大きな瞳をぱっちりと開いて、心底不思議そうに尋ねてきた。
「あの、たぶん大丈夫ですよ。わたし単純なので! きっと、今度こそちゃんと効きますって」
「しなくていい」
「──う。わ、分かりました。じゃあ、なるべくお上品にお淑やかにしますから」
「できもしないことを言うな」
「む。そ、そうですけどぉ……そうしないと、先生が気持ちよくなれないじゃないですか……」
「あなたは、まだ私が処女厨だの何だの言うつもりか?」
「ちがっ──、そうじゃなくて。先生を馬鹿にしてるんじゃなくて。わたしが煩いから、身が入らないのかなって」
「身が入らないセックスをしていたか? これまで? 私が?」
「そういうんじゃなくてぇー……」
会話が噛み合わない。
そして互いが互いに、話が通じないのは相手のせいだと思っている。呆れている。あまりに彼/彼女の物分かりが悪いので。よりにもよって、処女プレイがしたいからエロ催眠をかけたと妻が思い込んでいるのが最悪だ。村雨は頭が痛くなった。
ため息を吐いて頭を抱えたのを見て、妻はもにょもにょと言葉を詰まらせた。まるでご機嫌を窺うような素振りが、逆に村雨を苛立たせた。妻は妻で、「また要らんことを言ったらしい」と自覚しつつ、どうにか村雨の望むプレイを実現させてやりたいと、しどろもどろになりながら適切な言葉を探していた。
「さ、催眠かけたのって、そういうことですよね? け、結局思い出しちゃったけど、またやってくれるならいくらでも、して、ください。ね? これで懲りないでくださいよ。ね?」
「おい」
「あー、もう。なんで思い出しちゃったかなあ。ごめんね、ごめんなさい、先生。奥さん失格だぁ。ずっと、先生の嫌がるようなことばっかしてたんですね。だ、大丈夫です。感覚? なんとなく分かったんで。たぶんですけど、途中で思い出しても最後までキャラは守りますから──」
「聞け」
「ぶぅ」
村雨の指が妻の下顎を掴んだ。いつもはされて嬉しそうにするのに、今回は不服な感情を隠そうともしない。「先生が間違ってるもん」と、逸らされた視線が訴えかけている。
「私はいま反省している」
「ふぉんとに?」
「確かに、普段と同じ扱いはしなかった。経験のないあなたを、不安がらせないように接した。だからといって、いつものあなたをぞんざいに扱っていたつもりはない」
「……うそぉ」
「私が意地悪をすると興奮する、あなたがいけない」
これまで村雨の機嫌を窺うように下手に出て催眠を勧めていた妻も、これには腹を立てた。顎を掴む腕を叩き落として叫ぶ。
「やっぱりわたしのせいにする!!」
「していない」
「ひとをドMみたいに扱ってぇ!」
「扱っていない」
「先生がドSなのが悪いです!」
「SはサービスのSだ」
「ふんだ。処女厨のSでしょ。ほかの男の手垢のついた汚い女じゃ興奮できないんだー」
「なんだと?」
「処女膜再生手術でもしますか? それでまた記憶消してくれたら本当の処女ですよ。それとも他の男に使われた穴は汚くてイヤですか! そーですか! じゃあ新品のTENGAでも買えばよくないですか!」
怒りの炎が、村雨の脳裏をめらっと焼いた。引き際を見失ったからといっても限度がある。彼女はわざと怒らせて叱られたいようにも見えた。唇を尖らせて泣き喚くその目が「早く謝らせてください」と訴えかけている。
──早く論破して、わたしを屈服させてください。
──ごめんなさいって、間違ってましたって言わせてください。
はー、と村雨は長いため息を吐いた。
どうしてこのように絡からまってしまったのか。もう少しストーリーを練った催眠をすべきだったとも反省した。
「私に処女信仰などない。肌についた手垢など洗えば落ちる。細胞も日々生まれ変わり、とうに入れ替わっている。子宮の内膜も毎月剥がれ落ちている。感染症の既往歴でもない限り──いや、あったとしてもだ──汚いも何もない。それはそれとして、あなたの過去の男のことが気に食わないだけだ」
「タイムマシン出してくれなきゃどうしようもないこと言われて、わたしはどうしたらいいんですか! あのねぇ、だいたいの女の子にはみんな彼氏いるんですよ! 若くて可愛くて身持ちが固い子なんて、わたしの妹くらいしか──」
あれ、と妻が首を傾げる。まずい、と村雨は直感した。よくないことを思い出しかけている。
「そういえば、妹の話したことありましたっけ?」
「余計なことを考えるな。いま痴話喧嘩をしているのは私たち二人だ」
「……これって痴話喧嘩なんですか?」
「そうだ。妻の過去の男に嫉妬している。これが痴話喧嘩でなくて何だ」
「は?」
「夫婦喧嘩は犬も喰わないというだろう。諺ができるほど一般的なことだ。私たちも一般的な夫婦なのだから、私たち痴話喧嘩するのも一般的な──」
「そこじゃなくて! ──嫉妬? 誰が?」
「私が」
「誰に?」
「あなたと過去に付き合った男どもにだ」
妻は頭を抱えて床に蹲った。嫌な過去がフラッシュバックしてしまったのかと、村雨はすぐに駆け寄って身体を支えた。脈をとる。心拍は。呼吸は。体温は。全身の神経をより尖らせた。妻は映画を見て気絶し、吐くほどに脆いのだ。ひび割れたガラスが、いまとうとう粉々になるかもしれない。その不安が村雨を焦らせた。
しかし、彼女の口から漏れたのは、ひどく拍子抜けした声だった。
「──や、やきもち妬いてたんですか?」
「……最初からそう言っているが」
返答に少し間が空いたのは、脳裏に友人の意地悪い笑みが浮かんだからだ。嫉妬、悋気、やきもち、恋煩い。そんなマヌケな言葉で示されると、認めづらい。だが、いまはその単語が最も伝わるだろうと判断した。認めよう。村雨礼二は、やきもちを焼いている。
「言ってなかったよぉ」
妻はぺたんと座り込み、今度は両手で顔を覆った。
「あなたの過去を奪いたかった。そうすれば、私があなたのいちばんになるからだ」
言葉にしてようやく──ここしばらくの胸の支えが取れた気がした。考えるよりも早く出た言葉が、何よりも的を射た答えだった。
「お、重〜〜〜〜」
「そういう私が好きだろう」
「わかってんのも重い!」
「そういう私も好きだろう?」
カーペットを敷いているとはいえ、いつまでも床に全裸で座らせておくわけにもいかない。村雨は妻をベッドへ引きずるように移動させた。
「えっと、つまり、わたしは悪くないんですか?」
「一度でもあなたを責めたか?」
「だって、いつもと全然扱いが違うし。優しかったし。か、か、かわいいって……言って、くれた、し」
「初めてならば、格好つけたいだろうが」
「か、かっこつけたかったの? 村雨先生が? あの村雨先生がわたしに……?」
「はん。幻滅したか?」
「先生の目にはどう見えてます?」
村雨は妻の顔を見つめる。いままで不安一色だった瞳が、涙に濡れていた眼球が、きらきらと輝いていた。
「……私を可愛がりたそうだな? 撫でていいぞ」
「あーっ!! かわいい!! かわいい!! すき!! すきぃ!!」
「うるさい」
耳元で叫ばれながら、わっしゃわっしゃと髪を豪快に撫でまわされる。幼い頃、加減を知らない兄がそうしたように。頭がぐわんぐわんと揺れ、眼鏡が大きくズレた。歪んだ視界の中でも、妻が楽しそうに笑っていることだけはよく見えていた。
─2─
〈追い焚きが完了しました〉
明るいジングルとともに機械音声が告げる。そして数秒の沈黙。
「ですって」
「聞こえた」
「お風呂の準備、ありがとうございました」
「構わん」
ややぎこちないのは、一緒に風呂に入るかどうかのお誘いが、わたしの軽口によるものだったからだ。先生も同意してたけど、あれは売り言葉を買っただけのような気がする。風呂に入る前にもう一度抱く、と言った先生の科白もその後のわちゃわちゃで流れてしまったし。先生の中では無かったことになっているかもしれない。
わたしが催眠を受けてぐーすか寝ている間にお風呂の準備をしてくれていたようで。追い焚きボタンひとつで環境が整ってしまった。どうしよう。
「あの、シーツ取り替えておくので、お先にどうぞ」
「ふたりで終わらせた方が早い」
「い、い、で、す、か、ら! わたしはメイク落としたりいろいろあるので! いってらっしゃい!」
先生はじとっとした目でわたしを睨みつつ、部屋を出て行った。
ふうとため息を吐いて、ふたたびシーツに倒れ込む。
体温と匂いが残った湿ったリネンを肺いっぱいに吸う。
五分ほど力を抜いて体力を小回復したあと、ようやくシーツを剥いでベッドメイキングをする。シーツ下の敷パッドまでぐっしょり湿っているのはさすがに恥ずかしすぎる。全部剥ぎ取って新しいシーツを敷き直した。
あとはメイクを落とすだけだ。
洗面所で鏡を見ると、髪も乱れてメイクもぐっちゃぐちゃになっていた。こんな顔を見せていたなんて申し訳ない。すっぴんよりも恥ずかしい。
手早くメイクを落として浴室のドアを開ける。あったかい蒸気越しに浴槽で寛ぐ先生が見えた。
「んひゅ。んふふ。えへへ。先生だ」
「私以外が居たら事件だぞ」
嬉しさでつい叫びそうになるのを噛み殺そうとして、思わずオタクっぽい声が漏れ出る。あー、もうだからこういうとこがダメなんだってば。おしとやか、おしとやか……。
わたしは泡が浴槽に飛ばないように、いつもの五倍は丁寧に身体を洗った。先生の視線がじーっと背中に突き刺さる。もしも鋭い視線が実体を持つ針ならば。いまのわたしはサボテンのようになっているだろう。
何かマズったらしいぞ、と鈍いわたしでも気がつく。
恐る恐る鏡越しに先生の様子を窺おうとしたら、ばっちり目が合ってしまった。向こうは裸眼だし気づかないはずだけど、確実に。
ざぱんと水音を立てて先生が立ち上がった。思わず股間をみガン見して、立派だなあ、カリ高いなあ、赤いなあ、陰毛濃いなあ、などと思っている内に背後に立たれてシャワータオルを奪われた。え。わたしいまから絞殺されますか?
そんなこともなく。
先生は恐ろしいほど優しい手つきでわたしの背中をシャワータオルで擦った。その瞬間に思い出す。
「あっ! お背中流しますねって言いました、わたし!」
「やっと思い出したか」
一緒に入浴できることがショッキングすぎて、すっかり忘れてしまっていた。わたしは自ら村雨礼二の背中を流す栄誉を手放してしまったのだ。不甲斐ない。
「う、うわ……すみません……」
「私は済ませた。しばらく待っていたのだがな」
「そ、それは、大変申し訳ないことを……」
「腰を浮かせ。尻と足裏はまだのはずだ」
先生にお尻を洗ってもらうのは大変忍びなく、しかし、ここで退くようなお人柄でないことは重々承知しているので、わたしは悩んだ挙句腰を上げた。
優しい泡がお尻とその割れ目を洗っていく。行く先にあるデリケートゾーンも何の感慨もないように普通に洗われ、足を持ち上げられて足裏を洗われた。くすぐったくて声をあげそうになったけれど、さすがに浴室にわたしの馬鹿でかい声が響いたら先生の耳が壊れちゃうだろう。
ぬるめのシャワーで流してもらい、わたしの身体はピカピカだ。ちょっとはえっちな雰囲気になると思ったのに。ねぇ、そうじゃない!? 垢すりと称しておっぱい揉まれたりはすると思ったのに。まるで湯灌される死体のようでしたわ。
「先生、お髪は?」
「まだだ」
「洗わせてくださいっ!」
わたしはぱんと手を合わせてお願いした。
その瞬間、なにかを閃きそうになったんだけど──結局何もなかった。何か思い出しかけたような気がするんだけどな。
先生のご快諾を得て、洗髪させてもらえることになった。いたずら心が涌いて、先生の首を挟むように両肩におっぱいを置いてみたけど、鏡に映る先生の顔は無表情のままだ。ちくしょう。
クールミント系の先生用シャンプーを手に取り、頭で泡立てながら「痒いところはないですかー?」「問題ない」なんて美容室ごっこをする。
側頭部から前頭部、後頭部へ。見れば見るほど不思議な毛質だ。生え際、こめかみ、耳の後ろ、襟足は汚れを掻き出すように指を立てて丹念に洗う。背中につけちゃった引っ掻き傷が、真新しく赤く血が滲んでいるのが目に入る。傷口になるべく触れないように泡を流した。
濡れ鼠になった村雨先生の可愛いことといったら!
強い毛流れがしっとりと垂れて、いつもと違う雰囲気だ。思わず抱きついてしまった。
「あなたはベッドまで待てないのか?」
「え?」
黙ってされるがままだった村雨先生が、急に口を開いた。鏡越しに目を合わせると、血行が良くなって隈は少し薄くなったものの、相変わらずの無表情が浮かんでいる。
「風呂場での性行為は危険だ。転倒事故の多くは浴室で起こっている。気分を昂らせるのにシチュエーションは重要だが、推奨はできないな。無論、」
急に村雨先生が振り返って、わたしのお尻を掴んだ。ひゃっと声をあげる。
「あなたが望むのなら吝かではない。肛門性交と同様に」
「──!?」
わたしは言葉を失い、お尻を掴まれたまま硬直した。そしてはしゃいだ自分が何をして、先生のナニがどうなっているのかを、いま、思い知った。
風呂椅子に腰掛け男らしく股を広げて座った先生のちんちんは、元気そうにぎんぎんに勃っている。血行が良いのか、ズル剥けの皮膚が赤みを増して形の良い亀頭が上を向いている。思わず先生の顔を見た。相変わらずの無表情がそこにある。すけべな気分になってるなら教えてよぉ!
「それと。あなたの爪は長すぎる。肛門性交に興味があるのなら、私が完璧に準備しよう。初めての私は優しいと、今回学んだな?」
ふにふにと尻を揉みながら、政治経済の話でもしているように淡々と先生は言う。
「そ、ですけどぉ、う、後ろを使うのは、まだ、いいかな」
「ふん。『まだ』か。アナニーはひとりでやるな。必ず私立ち会いのもとで行え。安心しろ、浣腸や切れ痔縫合の経験は十分ある」
「とっ、当分いいかなぁーーーーッ!?」
耐えきれず、浴室に響く大きな声を出してしまい、わたしは口を手で押さえた。そりゃあ、興味がないわけではないけれど。先生に肛門を見てもらう勇気がいつ持てるやら。
「あのぉ、礼二さん?」
「なんだ?」
うっかり「とりあえず手コキで一回出しちゃいましょうか?」と問いかけて、いやいやそれがいかんのだ! と自分で突っ込んだ。危ない。自制心が働いてよかった。以前、村雨先生のをしゃぶろうとした折、しっかり叱られたことが頭から抜け落ちていた。純情な乙女はちんちんをガン見しないし、自らちんちんを握りにいったりしない。手コキなんて言葉使わない。涎垂らしてしゃぶりにいったりしない。わたしはお淑やか、お淑やか、お淑やかな奥さまなんだ……!
「……だから、何なんだ」
「な、なんでもぉ……」
「…………はぁ。そんなに咥えたいなら咥えろ」
「えっ」
先生って、もしかしたらエスパーかもしれない。もしくは宇宙人。
「いいんですか?」
「したいならすればいい」
「怒りませんか?」
「諦めた」
「その、しょ──生娘っぽくできないかもですが」
「まだその疑いは晴れんのか」
不愉快そうに先生はこめかみに指をあてた。まるで出来の悪い新人看護師に指示を飛ばすように言葉を続ける。
「やるなら必ず目を閉じろ。精子が目に入って失明しかける事例があるので十分注意しろ」
顔射前提なの何なの。それじゃあ先生の反応を窺いながらご奉仕できないじゃん……と思いつつも、口答えをすれば注意事項が増えるかもしれない。方針に従う良い患者であることを示さなければ。
わたしは一度脱衣所に出て、洗顔時に使ったヘアバンドを手に取って戻った。
「これで目隠しするので! これなら安心ですよね」
「……歯は立てるな。異常を感じたらすぐに口を離せ。睾丸を揉もうとするな。膝をついて安定した体勢でやれ。私の指示には必ず従え」
おっと。なぜか注意事項が増えてしまった。
ヘアバンドを頭につけて、風呂椅子に腰掛けた先生の前に膝をつく。こんな風に先生を見上げ、先生に見下ろされるだけでゾクゾクしてしまう。床暖房のおかげで冷たくないのがありがたい。ちんちんに手を添える前にもう一度先生を見上げると、どこか不服そうな顔でわたしを見ていた。
鬱蒼と茂る陰毛は毛髪に似て太く剛毛で、手を添えるとちくちくする。硬く張り詰めたちんちんは、つるつるした手触りと慣れない弾力がある。様子見で上下に擦りながら、もう一度先生の様子を窺った。
「……目を保護しろ」
「はぁい」
グリーティングちんちんタイムは終了らしい。
わたしはヘアバンドをずり下げて、目を覆った。感じられるのは手に触れたちんちんの感触。肌にあたる蒸気。先生の息遣い。換気扇の音。
毎日使っている浴室も、視覚を失うと一気に別モノに変わってしまう。少しの不安と、緊張と、期待を胸に、わたしは自分の手の位置を頼りに顔を近づけた。
ちゅ。
まずは鈴口にキスをする。「よろしくお願いします」の意味を込めてのご挨拶だ。急にしゃぶりついてはびっくりされると思うので、まずは舌全体を使って先っぽを舐めた。亀頭の形、カリのか高さを確かめるように舌を這わせる。綺麗に洗ってあるせいで、匂いや味は大してない。先生の顔を見たくなった。怒ってるかな。しょ──淑女らしくないと呆れてるかな。
いまのところ、やめろと言われたり突き飛ばされたりしないことだけを頼りに、わたしは舌に合わせて手も動かしはじめた。
唾液を足してぬこぬこと上下に擦る。あ、もっと慣れてない感じ出すべきなのに。また「離せ」と突き飛ばされないかと身構えながら、なるべく優しく奉仕する。竿を唇ではむはむと喰んだり、ちゅっちゅっとキスしたり、「先生が大好きですよ」「怒らないでね」と心を込める。
ふと頭に手が置かれ、わたしはびっくりして固まった。嫌だったかなと思って口を離すと「……続けろ」と許しが出る。よかったぁ。安堵したと同時に頭を撫でられた。……あれっ先生に頭を撫でられるなんて初めてでは!? 心臓が爆縮するような強力なときめきに胸を支配される。
そこからは少し大袈裟に、上から下までちゅっちゅれろれと舌を這わせた。相変わらず先生は優しく頭を撫でてくれる。うれしい。きもちい。もっと撫でてほしい。もう少し調子に乗ってもいいだろうか。
顔の角度を変えて、亀頭を頬の内側に擦りつける。そのまま、より硬くなった先生のちんちんを喉奥へと飲み込ませる。ふーっ、と先生の強い吐息が聞こえた。
顎が苦しい。息がしづらい。
おっきくてかたい。熱い。
口を窄めて頭を前後に振る。歯を当てないように。ちんちんが気持ち良くなるように。先生が喜ぶように。ぢゅぽぢゅぽと水音を立てて速度を上げる。
「っ、待て」
わたしも昂っているのに、先生は意地悪だ。でも、先生の言うことを聞くと約束したので、素直に動きを止めた。
最奥まで飲み込んだ位置から、ぢゅるりと逸物が引き抜かれる。唇に粘性のある液体が垂れる感覚がして、無意識にぺろりと舐めた。
「飲み込むな」
「ゔ」
先生の親指が口内に突っ込まれ、舌上に残った先走りを拭われる。ほんのちょっとのカウパーくらい飲ませてくれたっていいのに。ヘアバンドでの目隠しを取ろうとすると、先生の手で阻(はば)まれた。
「っぜ、んせぇ」
いや、前言撤回。精子が喉に絡んで気持ち悪い。
シャワーの放水音が聞こえ、手のひらに適温のお湯が当たる。これ幸いにと手で掬ってうがいをした。結局気持ちよかったんだろうか。どうなんだろうか。
「ど、どうでし──ひゃんっ♡」
浴室にあられもない声が反響した。
おそらく先生の足──親指から足の甲を使ってずりゅんと股を擦られた。予想通り、興奮で濡れまくったそこは、急に訪れた刺激に敏感に反応してしまう。ずりゅ、くにゅ、ずりゅ、にゅるっ、ずりゅ、と押し付けられるように擦られ、わたしは嬌声を我慢しながら先生の膝に突っ伏した。
足でイかされそう。わたしは手も口も使ってもイかせられなかったのに!
悔しさと快感のなか、先生に引き上げられてわたしはタイルの上に立つ。目隠しした状態だと、何がどこにあるか分からなくて怖すぎる。先生に抱きついていたら、非情にも引き剥がされて浴槽近くの手すりを掴まされた。
やっぱり先生はわたしの拙い口淫じゃまるで足りないらしい。がんばったのになあ。フェラチオのやり方なんて知りませんよって顔でカマトトぶるほうが良かったんだろうか。後悔、後悔、後悔。先生、この記憶も消していただけませんか。
「──しっかり握っていろ」
耳元で囁かれた甘い低音に、わたしは反射的に手すりを掴む力を強めた。ほとんど縋り付くように抱き込むと、強引に腰を引かれた。
目を閉じて聴く村雨礼二の声、良すぎる……! 有料音声として販売してほしい。ため息だけで利鞘を稼げそう。
依然硬さを保ったちんちんを太ももに擦り付けられ、まもなく中へと侵入してくる。先生との立ちバックなんて初めてだ。思わず腰が抜けてしまいそうになるのを、先生の右腕に支えられる。
流しっぱなしのシャワーの音でも掻き消せない嬌声と身体がぶつかり合う音が浴室に響き渡る。杭のように深く穿たれながら、わたしはふと何か忘れているような気がした。
何だろう。何を忘れてるんだっけ。
「考えごとか? 余裕そうだな」
「んぁっ♡ な、ことなぁっ♡ あ゙ッ♡♡♡♡」
お腹に回された先生の腕がぐっぐっと圧迫してくるので、強すぎる快楽に思考が奪われる。深く突き刺さった亀頭が子宮口をこじ開けるように何度も叩いてきて──
あ。
そうだ。
思い出した。
「っんせぇ、ご、むぅっ♡ ぁっ♡ はっ、あっ♡ ごむ、つけてなっ」
「それがどうした?」
淡々とした囁きに耳が溶けそうになる。
「だっ、てぇ♡ あっあかちゃ、あっんっ♡ できちゃうぅ♡」
「夫婦なのだから問題ない」
身体を持ち上げられ、お腹をすりすりと撫でられる。ぐぅ、と指の腹で的確にポルチオを刺激され、腰砕けになってもなお止めてもらえない。
「出る」
「あぇっ♡ ま゙っ──♡♡♡♡」
ぐぅーーーーっと腰を押し付けられる。抱きしめる力もより強く。ぶるぶると体が震える。あ、あ、あ、出されてる。いま、先生の精子が注がれてるんだ♡
「っはぁ」
一際大きく吐かれたため息が、先生のオルガズムの深さを感じさせてとてもセクシーだった。ずるっと自身を引き抜かれたあと、ポルチオを肌の上から刺激されてきっちりイかされる。後を引く快感が強すぎて、わたしは床にへたり込みながらもびくびくと波のように押し寄せる快感に甘イキを繰り返した。
ふと、ヘアバンドはとっくにずり落ちて首に掛かっていたことに気がついた。ふにゃふにゃの思考回路で背後を振り返って、わたしはびっくりした。
「──ゴムつけてんじゃん!」
「つけてないとは言ってない」
先生は濡れた手でゴムの端を結んでいるところだった。たぷんと詰まったあのザーメンを、飲み損ねた上に出し渋られた。ほっとしたようなガッカリしたような気持ちで、壁にもたれかかる。水滴のついた内壁は冷たくて、熱った身体から急激に熱を奪っていく。
「子作りは計画的に行う。あなたの体調も鑑みて、だ」
「期待してすみませんね」
「期待を裏切って悪かったな」
「ふんだ」
鼻で笑う先生の顔がどこか穏やかで、優しくて、かっこよくて、悔しい。
シャワーで洗い流されたあと、ふたりで浴槽に入る。村雨先生の膝上に、わたし。並んだ足の太さの違いにドキドキしてしまう。細身に見える村雨先生も、関節は骨張って太く、男らしい。
その上、村雨先生は濡れた髪を煩わしそうに後ろに流しているのだ。村雨先生のオールバックなんて初めて見る。どきどきが止まるところを知らない。重力に反して飛び出る毛のかわいさよ。露わになったおでこの広さよ。いつもはよく見えない右側からのアングルで見えるご尊顔よ。細い顎から滴る水の美しさよ。このときほど、村雨先生の奥さんになってよかったと思った瞬間はない。
お風呂場でいちゃつくという念願叶ってめちゃくちゃハッピーだ。ちくしょう、あまりに幸せだもんで、拗ねたい気持ちがあっという間に昇華されてしまう。いくらでも許しちゃう。
おもわず鼻歌を口ずさみながら、気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、どこにゴム用意してたんですか?」
「シャンプーボトルの下」
「自分だってヤる気だったくせに。わたしばっかりシたがってる変態みたいに言って」
「胸を押し付けてアピールする方が悪い」
「すみませんねぇ!」
あ。せっかくだからパイズリしてあげればよかった。なんて見落としだ。ムッツリスケベでおっぱい大好きな先生だもん。そっちの方ならちゃんとイけていたかもしれない。
水面に浮かぶふたつの脂肪を抱えてシミュレートしていると、先生の機嫌が悪くなる気配を感じた。
「……あなたのフェラチオはよかった。十分満足させられた」
「出してくれなかったくせに」
「精液を飲みたがる嗜好が分からん」
それに、と村雨先生はわたしのお腹を押した。思わず膝がくっつく。昂る気持ちから目を逸らすように、視線を泳がせた。
「出すなら、〝ここ〟がいい」
「あぅ」
あまりに重く甘美な囁きに、わたしの身体がまた熱を帯びはじめる。あったかいお湯につかっているはずなのに、背中がぞくぞくする。先生、絶対声の良さを自覚してやってる。ずるい。かっこいい。おかげでわたしは、また高まりはじめた性欲を見ないふりしなきゃいけない。
先生の手を剥がそうと、長い指に手をかけるも素直に離れてくれない。もっとえっちしたくなっちゃうじゃないですか! これ以上先生に負担をかけないために、わたしは大急ぎで違う話題を引き出した。
「……あのぉ、礼二さん?」
「なんだ。今度は何をやらかす予定だ?」
「違いますって! その、背中、すみませんでした」
先生に背を向けているから言えることだ。恥ずかしさはもちろん、先生に傷をつけてしまった後ろめたさが尾を引いている。
「この程度の引っ掻き傷、問題ない」
「まー、その、ほんとにね、お恥ずかしいです。必死、だった、もので。あの、決して嫌で引っ掻いたわけではなくてですね、あの」
水がぴゅっと飛んできてわたしの言葉は途切れた。先生、片手で水鉄砲なんてできるんだ。お義父さんに教えてもらったのかな?
「あなたから初めてもらったものだ。悪くない」
照れ臭さと恥ずかしさ、嬉しさ、その他もろもろでわたしの心はいっぱいになってしまった。と、同時に。背中に爪を立てたことを喜ぶなんて、やっぱり先生は処女厨だと思った。不遜な考えが伝わってしまわないよう、鼻先までお湯に浸かって誤魔化すようにぶくぶくと泡を立てた。
─3─
村雨礼二は疲れていた。
きょうは本当に色々なことがあった。午前中のオペを終わらせ、妻の妹と買いものに行き、浮気と誤解した妻を諭し、催眠をかけ、仮眠をし、長い時間をかけて抱いた。妻が望むので(ほんとうに妻の身体がそう望んでいたので)、不安定で視界の悪い風呂場でも性交渉に付き合ってやった。できる夫も楽ではない。
そんな疲れ果ててベッドにうつ伏せになった村雨に、妻は能天気そうな顔で話しかけてきた。
「そういえば、わたし良いことを思いついたんですよ」
「……」
「あっ、ろくなこと考えてないなって顔ですね! 違うんですって。わたし、先生のこと蹴落としたりしてたでしょ? これで改善できるかなって」
妻は洗い替え用のヘアターバンを広げて見せた。思いついたばかりの天才的アイディアを是非とも共有したい、と目を輝かせている。
また疲労感が増しそうな気配がした。
「……説明してみろ」
「これをですね、このように」
ヘアターバンを引き伸ばして8の字に捩り二重の輪にすると、妻の細い両足首をその輪へ入れた。簡易的な足枷だ。
「こうすれば、すくなくとも先生を蹴落としたりしないですよね? 寝相も治って先生の睡眠不足も解決!」
「やめろ。血行に悪い」
「んん……いいアイディアだと思ったんですが」
「どこがだ」
「あの、じゃあ通販で手錠……足錠? 足枷か。的なものを買っておきますので。プレイ用の肌に優しいやつもあるはずです」
「しなくていい。探すな」
「……すみません。わたしなりの、誠意、のつもりで。そりゃあ、わたしだって白雪姫のように寝相が良ければふつうに寝ますけど。これ以上は、ほら、先生が不眠で倒れちゃいますよ」
「問題ない。必要な睡眠は適宜取っている。それに、あなたの寝相は治る」
説明が面倒で、村雨礼二は答えのみを与えた。が、納得していない妻には途中式まで提示しなければならないようだ。
深く、ため息をつく。きょうは夜勤のため、午後まで眠れることだけが幸いだ。
「あなたの病巣をひとつ、取り除いた。これからは経過観察だ。データを取るため、いつも通りにしろ」
「……はぁい。一応、納得してあげます」
「これからはもっと気楽でいろ。少なくとも、私よりは気楽だろう」
「むむ。わたしだって頭を悩ませることはありますが」
「あなたは私に感謝するべきだ」
「人一倍してると思うんですけど」
「もっと感謝してもバチは当たらない、と言っている。私の素行の良さを褒め称えろ。私はあなた以外に経験がない。昔の女とやらに頭を悩ませる時間がなくて結構なことだ」
「…………は?」
妻はたっぷりと間を置いてから聞き返した。まるで異次元の言葉を聞いたかのような、理解に苦しむ顔をしている。その顔がマヌケで可笑しかった──いや、かわいいと言うことにしたのだった、これからは。
「ラブホテルの経験がないことも、フェラチオに慣れていないことも、重ねて馬鹿にしてくれたな? 相手がいないのに経験があるはずないだろう」
「…………」
「私たちの相性は抜群だ。初回とて、童貞と不感症でお互いあれほど快感を得られたのだから。あなたにとって私以上のパートナーはいない。これから探す必要もない。だから、あなたは私より気楽だなと言ったのだ」
「…………」
「いつまで大口開けている。口で塞いでほしいのか?」
「…………い、いままで、『村雨先生の初めての女ってだれよ! どこのどいつよ!』って思っていたんですが」
村雨は長い人差し指を妻に向け、不敵に笑った。歯並びの良い前歯を意地悪に見せて、口角を上げて。まるで魂を騙し取った悪魔のように笑う。
「犬が自分の尻尾を追うようなものだったな。私の気苦労が少しでも伝わったか?」
こうして、妻は村雨礼二が童貞だったことを告白されたのだった。
「あ〰︎〰︎惜しいッッッッ!」
「うるさい。深夜帯だぞ」
「なんで酔っ払ってたのわたしー! 童貞の村雨先生を食えるチャンスなんて二度と来ないんだよー!! ぐやじい……ッ」
「私が妬く気持ちが分かったか? あなたの場合は、過去の自分自身が相手だが」
「よぉーく分かりました」
「あなたの元恋人たちは、三十路手前の童貞に負けたのだ。クソザコ早漏男どものことはこれを機に忘れろ」
「み、みんな早漏だったわけじゃないと思うんですけどぉ……」
「ほう。やはり経験的な実測結果があるのか?」
「N=3ですけどぉ!」
最悪の事態は免れた。最も忌むべき垣本の記憶は会社共々ともども封じられたらしい。残り三人も記憶から屠りたかったが、いまは良しとしよう。
きっと、彼女にとっての性交渉は男をもてなすための、男を満足させるためだけの行為だったのだろう。オーガズムに達したことがないと言っていた。いつでも男を喜ばせる小手先のことを考え、性交渉のゴールが互いの満足であることを知らなかった。彼女の戸惑いの根源は、男を差し置いて自分が満足してはいけないという、マヌケな思い込みのせいだ。
そのために口淫や手淫の技術を磨いたり、自ら積極的に働きかけてはこちらを早く達させようとしたりした。恐らくは、苦痛な時間をやり過ごすために必要だったのだろう。もしくは、自分にはそのくらいの価値しかないという過小評価のせいか。
村雨と結婚し、苦痛なはずのセックスが気持ち良いことに気がついて、動揺もあったのだろう。そして妻は気づいたのだ。自分は夫を満足させられていないと。いままで以上のケアが必要であると思い込み、空回りし、空想に妄想を重ねて暴走した。ある意味誠実ではあるが、マヌケでしかない。
「それと、申し添えておく。私は絶倫でもない。我慢していただけだ。今後はイきたいときにイかせてもらう」
「は? 我慢してたんですか? なんで?」
催眠のために抱き潰す必要があったのだと理由を述べれば、催眠療法で聞き出したあれこれまで話す羽目になる。
無事、会社の記憶は消えて彼女の心労のひとつがなくなったのだ。甘い言葉でピロートークを締めるのも悪くないだろう。
「──達するあなたの顔が好きだからだ」
「ひえっ」
「……聞いておいて気味悪がるのは失礼では?」
「好きが高じてもなお怖かったですよ、いまの顔」
「冷たい妻だな。あなたを喜ばせたいという夫の努力を無下にして。果ては遅漏だの、絶倫だの」
「悪口じゃないのにぃ。それに、わたしはこういう時間も好きですよ?」
「こういう、とは?」
ふふっ、と妻は照れたように笑う。村雨の頭を抱き寄せて囁いた。されるがまま、すう、と深く息を吸う。柔らかく豊満な乳房は、とてもよい香りがする。
「先生と一緒にいるだけで、幸せになっちゃうので」
「……覚えておこう」
疲労は最高の睡眠導入剤だ。いまはまだ手足の怠さが憎たらしいが、きょうは深く眠れるだろう。いい夢を見れそうだった。
夢を見るなら、妻の夢がいい。風呂場で見る彼女の肢体も最高だった。水を弾く肌が非常に煽情的で、鏡があるのも良かった。視界が悪いのは難点だが、またあそこでしても構わないと思った。睡眠中の脳が、本日はそのあたりを重点的に整理してくれればよいのだが。
そんなことを考えながら、村雨はレム睡眠へ落ちていくのだった。