#01 村雨礼二32歳の新婚旅行
─1─
「新婚旅行を行う」と村雨先生が口にしたのは、結婚してから三年目の冬のことだった。あまりに突然の布告だったので、わたしは「は?」と腑抜けた声を上げたまま言葉を失った。頭が発言の意味を理解するより早く、血色の悪い唇が決まり切った術前説明のようにスラスラと言葉を続けた。
「来月、四日間の休暇をもぎとった。私を褒め称えろ。三泊四日の温泉旅館を希望する。ランクは任せるが露天風呂付きの客室がマスト。海か山なら山がいい。夕食は──」
「待った待った待った、メモるから待ってー!!」
//////////果たして結婚三年目の旅行がハネムーンと言えるのかどうか。そこについては語り合えぬまま、わたしたちは出発日を迎えたのだった。
当日の早朝に帰宅してきた先生をそのまま助手席に座らせて寝かしつける。さすが多忙な外科医。ここ二週間はほぼ帰宅する間もない激務で、下瞼の隈も記憶よりずっと濃くなっていた。わたしが用意した軽食をぺろっと平らげると、すぐに寝息を立てて眠りはじめる。この日のために車のメンテナンスはばっちり。車内の清掃はもちろん、移動中はゆっくり休んでいただけるように用意したアイマスク、ブランケット、耳栓も使ってもらえた。余計な振動で起こさないように、安全運転で走り出す。
この旅行の目的はたったひとつ。村雨先生を癒し、もてなし、満足いただくこと! 何せあの大忙しの村雨先生が四日も休めるのだ。しっかり養生させるのが良き妻というもの。最近はお友だちともあまり遊んでいないようで寂しそうにしていたので、しっかり癒してあげたい。
わたしが選んだのは関東北部の温泉地だった。
山中にあるためバスツアーや自家用車での利用が多いらしく、がやがやしていないしっぽりした雰囲気が良さそうだった。料理の評判も良いし、近くには一般見学が可能なワイナリーや牧場もある。旅程を見た先生の反応も上々だった。
途中、トイレ休憩のために立ち寄ったのは名物サービスエリア。十分仮眠できたのか、先生の真っ青な顔もいつもの青白い顔色に戻っていた。整備された公園で休憩しながら、お昼ご飯代わりにB級グルメを楽しむ。ご当地マスコットがデカデカと印刷された立て看板の前で真顔ピースする村雨礼二というSSRな写真も撮れた。
目当てにしていたワイナリーでは国産のワインを試飲し、いくつかを購入した。このために車で来たと言ってもいい。ワイン好きの先生がいくら買っても良いように、トランクは十分整理してきた。もちろん、運転手であるわたしは飲めないけれど、代わりにぶどうジュースを飲ませてもらう。濃く甘い果汁に感動して、こちらも一ダース購入した。姪っ子ちゃんと甥っ子くんへのお土産にもしよう。
余裕をもって宿泊地近辺に到着できたので、チェックインの時間まで近くの観光地をぶらつくことにした。あちこちから温泉の湯気が立ち上がる風景は非日常的だ。きんと冷えた冬の空気に、硫黄の香りが溶け込んでいる。灰色がかった山間に鮮やかなのぼりやレトロな看板が並び、なんと言うべきか──いい。とてもいい。村雨先生がよく映える!! 軒下でみたらし団子を食べる村雨礼二。スーツの裾を捲って足湯を楽しむ村雨礼二。抹茶パフェを食べる村雨礼二。温泉玉子を食べる村雨礼二。〈何かを食べる村雨礼二フォルダ〉がどんどん潤っていく。最高だ。
午後三時。チェックインのためお宿の暖簾をくぐる。
今回は先生のリクエスト通り、専用の露天風呂付きの離れを予約した。「ランクは任せる」と言われたけれど、もちろん旅館でいちばん良い部屋だ。ひとり旅行ならいざしらず、村雨礼二の新婚旅行に金を惜しんでいられない。何故なら浴衣を着た村雨先生がバッチリ映えるロケーションにしたかったから!!
増改築が繰り返されたことを感じる長く折れ曲がった廊下を突き進むと、わたしたちの離れがあった。もうひとつの家とも呼べるような入口を開けると、突き当たりの部屋の向こうには静謐な日本庭園が広がっていた。奥ゆかしい雪見障子、檜と藺草の香りが郷愁をそそる。
写真で見たよりずっと素敵。女将さんが丁寧に紹介してくれるが、部屋のレイアウトやアメニティ、旅館の歴史は頭に叩き込んでいたので、いつでも代わりに説明できる。
村雨先生よりも重そうな座卓で宿帳に記入をしていると、「本日は新婚旅行とお聞きしています。ご結婚おめでとうございます」と恭しく寿がれる。あ、ありがてぇ! 第三者に〝ご夫婦〟扱いされるって健康に良い!! 村雨先生からの冷めた視線を受け止めつつ、淑やかにお礼を述べた。これからはふたりっきりの時間だ。
わたしはこの日のためにお義兄さんから借りた一眼レフカメラを取り出し、お茶請けに早速手をつける村雨先生を画角に収めた。サマになりすぎ!!
ただ、慣れない重さで手ブレしやすいのが難点だ。このカメラを使うのは室内だけにしておこう。落とすのも怖いし。
「茶が飲みたい」
「はぁーい!!」
わたしはカメラを置いてお茶を用意する。今回の旅行中、好き勝手写真を撮って良いとの許可は事前に得ていたので、もう強気だ。ふたり分のお茶を淹れたあとは、いろんな画角からシャッターを切る。
うん。とてもいい。でも、やっぱりここは浴衣を着た先生の写真が撮りたい。一刻も早く。
「お夕飯まで時間がありますから、温泉に入って来ませんか? 大浴場にも露天風呂があるそうですよ」
「ああ。そうする」
よし来た。スーツケースから先生の下着を取り出し、部屋に置かれていた浴衣や洗面道具をバッグに詰めて先生の傍にスッ……と差し入れた。わたしの下心が伝わってしまったのか、じろりと一瞬睨まれる。いいや、温泉で癒されてほしいのは本心ですから! 本心の一部に下心があるだけですから!
先生が大浴場に向かっている間、わたしは部屋の露天風呂で軽く汗を流すことにした。効能がありそうな白濁湯が肌にじんじんと染み入る。最初はちょっと熱すぎると思っていた温度も、やがて慣れてじんわりと長距離運転の疲れを癒してくれる。
余裕を持って先生を出迎えようと思っていたのに、結局長風呂になってしまった。
スキンケアを終えて髪を乾かしている最中に、先生は戻って来た──戻って来てしまった。浴衣に羽織を着た村雨礼二が──湯上がり礼二が!!
思わず跪いて手を合わせてしまう。
「あ〰︎〰︎〰︎〰︎生きててよかった……」
「楽しそうでなによりだ」
ちっとも「なにより」と思っていなさそうな渋い表情で先生が答える。傅くわたしの頭に、固くて冷たいものをコンと当てて「早く受け取れ」と言う──コーヒー牛乳だ。
「わ、買って来てくれたんですか」
「不要なら私が飲む」
「飲む飲む。飲みます。ちょうど飲みたかったんです。いまぴったりコーヒー牛乳の気分!」
感謝の気持ちを込めてほかほかの身体に抱きつくと、しっとりと温かい先生の身体が心地よかった。いつまでもこのままで居たいと思うくらい。
ふたりでコーヒー牛乳を飲んだあとは、先生の髪を乾かした。
まだ時間に余裕があるので、いつものように風呂上がりのマッサージをすることにした。
居間の隣に設けられた主寝室は和洋室になっていて、畳の上にローベッドがふたつ並んでいる。糊のきいたシーツはパリッとして気持ちが良くて、横になっただけで旅行を終えた気分になってしまう。はっ、いかんいかん。わたしはもてなす側だった。
わたしと同じように布団に沈んで微睡んでいる先生の背中に手をかけ、ゆっくりと体重をかける。石のように硬い肩から、長時間のオペで酷使されてきた脹脛や足の指先まで丹念に揉みほぐす。
「露天風呂の方も行ってみました?」
「ああ」
「気持ちよかったですか?」
「ああ」
「夕食は十九時予定ですけど、それまでゴロゴロしましょうね」
「ああ」
先生の生返事も、いつもよりリラックスしている気がする。連休を取るために頑張ったと言っていたから、その苦労が少しでも報われたならいいな。
じっくり六十分コースのマッサージを終えて、わたしもすっかりやり遂げた気分になった。
「あなたは大浴場に行かなくて良いのか?」
「明日でもいいかなぁって」
わたしも大浴場へ行っていたら、きっと先生を出迎える暇がなかっただろう。初日くらいは、きっちりもてなしたい。
「そうか。早めの利用を推奨する。堪能できる内にな」
そんなに温泉を気に入ってもらえるとは。ここを選んで正解だった。もっと褒めてほしくて、わたしは先生の背中を揉みつつディナーの話題に触れる。
「リクエスト通り牛ステーキのコースなんですけど、きょう観光してきたワイナリーのワインも冷やしてもらってますからね。礼二さんが気に入った赤ワイン、ステーキに合うって言ってたじゃないですか。もちろん地酒も良いのを用意してもらっているので──」
「解説は後で聞こう。ゴロゴロする、のではなかったか?」
おっと。喋りすぎてしまったようだ。
わたしは先生の背中から退くと、隣の布団に横になった。ふふ。純和風な布団に横になる村雨礼二の絵面の良さよ! 一眼レフをこっちに持ってくれば良かった。マッサージオイルを使うので、スマホも居間の充電器を差して置いてきてしまっている。
「じゃあ、夕飯までお昼寝しましょうか」
「そうだな。体力は温存しておけ」
「はぁい。素敵な旅行にしてみせますからね。このスーパーガイドにお任せください」
昔取った杵柄、前職の経験で旅程を立てるのは大得意だ。
明日は牧場見学を予定に入れている。ソフトクリームを食べ、乗馬体験をし、羊を撫でてジンギスカンを食べる。あったかい温室でいちご狩りも予定している。
先生を楽しませたくてアレコレ考えてしまうけれど、いちばんの目標である先生を癒すためには、余裕がある方が良いだろう。大都会を離れて自然の空気をたくさん吸ってもらおう。美味しいものをたくさん食べさせて、たくさん寝てもらって、たくさん癒されてもらおう。「いままでで一番マシな旅行だった」と言ってもらえたら重畳。それから、それから──
うとうとしている内に眠ってしまった。はっと目を覚ましたときには十八時を過ぎていた。隣の布団ですやすや眠る先生を脳内に焼き付けて、わたしは軽く身支度を整える。
三十路に踏み入れてますます先生はセクシーになっている。大人の魅力がむんむんに漂っている。こんな村雨礼二を堪能できるなんて、わたしは前世でどれほどの徳を積んだのだろう。
あどけない顔で眠る先生の髪を撫でる。「幸せだ」と思うと同時に、「幸せにしてみせる」と分不相応な意気込みを抱く。
耐えろ、わたしよ。
このセクシーな先生を前に決して欲情してはならない。わたしから誘ってはいけない。先生がしたいならしてもいいけど(念のためゴムもちょっとだけ用意してきたけど)。すべては先生の身体とこころを癒すため。わたしはぐっと力強く拳を握った。
//////////その覚悟から約三時間後、夕飯も終えて一息吐いたときのことだった。
「これから子づくりを行う」
「は? ──あっつ!」
「気をつけろ」
「す、すみません」
茶器から溢れたお茶を拭きながら、わたしはぐるぐると考える。こんなやりとりを、つい先月にもした気がする。数時間前の決意がぐらぐらと揺り動く。
先生から誘ってくるならセーフ! セーフだよね!? 新婚旅行だもんね、三泊もするんだもん、一回くらいはいいよね!? 先生もそう思うよね!? あれ、というか──、
「こ、子づくりですか?」
そうだ、と先生は頷く。
「きょうから三日間が、あなたがいちばん孕みやすい周期だ。無事妊娠した暁には、子づくり記念日としてまた訪れよう。着床には時間がかかるので、あくまで性交渉した日となるが」
目眩がする。つまり誕生日みたいな感じで中出し記念日を祝おうってこと!? 頭おかしいんじゃないですか!? そういうクレージーなところも好きですけどぉ!!
「無論、これは双方合意で行うものだ。まだ時間がほしいというなら、コンドーム着用の上、安全な性交渉を行う」
「け、結局、するはするんですね?」
「あなたが『子づくりできないと契約破棄されるかも』などと要らん心配をする可能性があるからだ、マヌケめ。今回でなくとも、あなたが望むときにいつでもやり直せる」
さすがは村雨礼二。卑屈な人間が考えそうなことをよくわかってらっしゃる。先回り思考の先生の言動には、ついていくのもやっとだ。わたしはいまだに実感がわかず、視線をうろうろと泳がせていた。
そんなわたしの両頬を挟んで、先生が覗き込んでくる。視界を占めるいい男。まるで子どもに言い聞かせるように、先生はゆっくりと話し出した。
「悩みたいだけ悩め。返事は旅行中でなくとも構わない。妊娠すれば凡そ一年、あなたはあなたの身体の変化に振り回されるだろう。出産には逃れられない痛みを伴い、身体は傷つき、精神は疲弊し、長い月日を他人に費やすことになる。これからの人生のほとんどを消耗すると言っていい」
「ちょ、なんて怖くなることばっかり言うんですかぁ」
「医者はデメリットの説明もする。当然のことだ」
「じゃ、じゃあメリットは?」
「私たち夫婦の幸せと苦労と喜びだ」
まるで迷いのない断言だった。わたしの動揺も不安もすべて断ち切る鋭い言葉。こんなに力強い科白があるだろうか。こんなに心強い夫がいるだろうか。
「あはっ、苦労もメリットなんだ」
「当たり前だ。分かち合う前提なのだからな」
大真面目に答える先生に、わたしは思わず顔が緩んだ。表情を変えず大ボケをかます先生だけど、こればっかりはジョークでもギャグでもなく、本気なのだと推して知れた。先生らしいや。村雨礼二らしい。だから、安心する。
「──礼二さん」
わたしの声の温度だけで、返事はきっと伝わっただろう。
//////////行燈型のアンプに照らされた寝室に白いシーツがぼうっと浮かびあがる。マッサージに使ったときに乱れたシーツが、濃い陰影を形作っている。外に積もる雪がすべての音を吸い取ったように静かだ。自分の心臓の音がうるさい。
この三年間、何度も身体を重ねて来たのが嘘みたいな緊張感。まるで初夜のよう──いや、わたしたちの初夜ってそういえばこんなしっとりした感じじゃなかったな。緊張しすぎて歴史を改変するところだった。
浴衣の裾を握りながら年甲斐もなくもじもじしているわたしに対し、村雨先生は胡座を組んで堂々と座している。羽織に腕を通している様がとってもイイ。和装の村雨礼二なんてなんぼあってもいいですからね。
意を決して、浴衣の袂を指先で割り薄い胸板に手を添える。先生もドキドキしてるのかな、と思ったのだけれど、自分の心臓の音がうるさくて分からなかった。
ふと視線を上げると、先生と目が合った。レンズの奥の鳩みたいな赤みがかった虹彩、真っ黒な瞳。うう。好き好き好き。
先生が目を閉じた。これは「眼鏡を外せ」という合図だ。わたしはゆっくり眼鏡を抜き取ると、枕元に置く。この動作も慣れたものだ。
ちゅ、と耳打ちのようなキスが耳たぶに落ちる。頬に、瞼に、唇に。
お互いの耳を塞ぎ合いながらキスをする。こうやって頭に響く水音に、わたしは未だ慣れることができない。でも、すきだ。せんせいに口付けられるのが、唇で喰まれるのが、舌で翻弄されるのが、心底、すきだ。
唇を離した瞬間、ほぅ、とどちらからともなくため息が漏れた。
「怖いか?」
怖いんだろうか、わたしは。いまの自分がどんな感情なのか、まるで分からなかった。喉の奥が、胸の底が、胎の中が、熱くて恋しくて切なくて苦しくて弾けそう。訳のわからないものでいっぱいいっぱいだ。
わかりません、と答えた声は掠れきっていた。
すっ、と暗闇のなかで人影が身を引いた。先生の体温が離れていく。やだ。行かないで。
「あ、待って、待って。大丈夫、です──」
ちゅ、と返事のようなリップ音が足元で鳴った。皮膚に触れた先生の唇が熱い。熱った舌先を尖らせて、れろっと足の甲を舐めた。
「ほゎっ」
「マッサージは心臓から離れた位置からするのだったな」
確かにそんな話をしたことがある。マッサージは村雨先生にしてあげられる数少ない特技のひとつだし、きょうだってお風呂上がりの身体を掴ませてもらった──けど、文脈がおかしいじゃないですか。
「筋肉が強張っている。声の高さ、表情、どれをとってもあなたが気を張っているのは明白だ」
「もう大丈夫です、って──ぁ!」
ぢゅぷ、と音を立てて先生がわたしの親指を口に含んだ。村雨礼二が、わたしの、足の、親指を! 背筋がゾワっと粟立ったのは、性的な興奮ではなく畏れ多さからだ。咄嗟に引き抜こうとしたものの、あまり強く動かすと先生を蹴ってしまいそうで、もぞもぞとしか動かせない。
「やだ、や、先生、なんでそんな、」
「動くな」
ぴたりと動きを止めたものの、背徳的な光景を見ていられなかった。
「仰向けに」
ゆっくりと背を倒したのは、諦めの気持ちからだ。ちゅ、ちゅ、と下から上ってくるくすぐったい感触に、思わずシーツを掻いた。
「いい子だ」
ぞくぞくっ、と悪寒とも快感ともつかない騒めきが背筋を駆け上っていく。
わたしは先生の褒めに弱い。跪いているのは先生なのに、どこまでも支配者なのだ。
「汗が甘くなった」
こういうときの彼の発言は、どこまで本気なのだろう。わたしが感じた瞬間に、本当に汗が甘くなるなんてあるんだろうか。
くるぶし。アキレス腱。太腿。脛。膝小僧。膝の裏。舌を這わせるのと反対の足も指先でなぞりながら、先生が上ってくる。近づいてくる。待ち遠しくて、焦らされて、早く来てほしい。はやく、はやく、といつの間にかわたしの身体が先生を待ち望んでいる。
まるで板前に下拵えをされる高級食材みたいだ。わたしが感じるほどに甘くなるのなら、もうとっくに熟れている。先生に食べてもらえるのをいまかいまかと待っている。
太腿の内側をちろりと舐められた瞬間、じゅんと秘部が湿るのがわかった。
なのに先生は素通りして、浴衣の中をつうと撫でていく。今度は左手を取って、結婚指輪にキスをした。ああ、そういえば先生も今朝からつけてくれてたっけ。ありがとうって言い忘れてたなぁ。
ちゅ、ちゅ、と先生の唇が指を這っていく。もどかしい。くすぐったい。先生のおかげで、もう解きほぐされたのに。
「──先生」
「まだだ」
何をとも言っていないのに、先生にぴしゃりと制される。
空いた右手をゆっくりと動かして、中指を股に沿わせた瞬間、先生の左手で絡め取られてしまった。
「私は『まだだ』と言ったはずだが?」
先生が上目遣いで睨めつけてくる。その凶悪な目つきも、捻くれたように垂れる眉も、諌めてくる小言も、何もかもがわたしをときめかせる。ああ、もっともっと叱ってほしいと思わせる。
「せんせぇ」
思わず甘い声が出た。ねばっこく誘う雌猫のような鳴き声。
「いい子に待てるな?」
「くぅ──」
喉の奥から漏れた悲鳴が返事の代わりだった。
帯をしゅるりと解いて、臍下を──おそらく、その下にある子宮を──とびきり優しく撫でられる。産毛を逆立てるようなフェザータッチに体温が上がる。
今度は恋人繋ぎをした指先に、手の甲に、手首に、肘の内側に、先生の唇が触れていく。いつもより唇が潤っている気がするのは、温泉の効能だろうか。
肩に、鎖骨に、首筋に、乳房に、脇腹に、キスが降る。だんだん強く、痛みを残すように肌を吸う。もっと、もっと、強く痛くしてほしい。そんな願いを持つほどに先生のセックスはいつも柔らかくて優しい。この顔で。あんな性格で。ズルすぎる。
ひとしきりわたしの身体を愛でた先生は、仕上げとばかりに人差し指を心臓の上に置いた。長いストロークでつぅーっ指を滑らせ、ようやくショーツに手を掛けてくれた。お尻を浮かせたとき、染み込んでいた愛液がわたしの太腿を汚していく。待ち望んだ秘部の入口を指の腹ですりすりと撫でられた。ここに来てまだ焦らすつもりだ。羞恥心なんて掻き捨てて腰を振り、早く入れてとねだってようやく、先生の指が挿入はいってくる。
つぷり、ぬぷり、ぢゅぷり、暴力的なほど紳士的に膣内をほぐされていく。ぐにぐに、とんとん、すりすりと、指の腹でやさしく、やさしく、意地悪に。そんな甘美な責苦に耐えることしばらく、ようやく先生が自分の腰帯を解いた。はらりと浴衣が垂れ下がってくる。白い肌には、玉のような汗が浮かんでいた。鬱蒼と生い茂る陰毛から、赤黒い陰茎が屹立している。いつ見てもかっこいいちんちんだ。先端から涎のように先走りを垂らしている姿さえセクシーでぞくぞくする。
ぬちぬちと入口に亀頭を擦りつけるのは先生のルーティンのようなものだ。その焦らすような儀式に早く入れてくださいと乞うのもいつも通りだった。
でも、いつも以上にじっと見ちゃう。ナマだ。一糸纏わぬ、コンドームなしの先生のおちんちん。入るんだ。先生が。先生が。先生が。入ってくるんだ。
「……ふっ」
ばくばく高鳴る心臓の音に掻き消されそうな、小さな失笑が聞こえた。笑われた。今更カマトトぶったと思われただろうか。意地悪な先生の顔を見てやろうと視線を上げると、意外にも切羽詰まったような表情でこめかみに汗をかいていた。
「どうやら、私も興奮しているようだ」
「うそ」
先生が心臓を押し付けるようにわたしに覆い被さった。どっ、どっ、と自分の大きな鼓動な混じって先生の早鐘が鼓膜に響いた。
先生も、興奮してる。
このまま死んでも即成仏できるくらい、幸せだ。
「れいじ、さん」
「ああ」
吐息にも似た返事がわたしをますます熱らせる。まだ挿入もしてないのに、繋がっているみたいだ。汗ばんだ肌がぴたっとひっついて永遠に離れない気さえする。
「きて」
「ああ」
先生が身を起こしたとき、外気に触れた肌が薄ら寒くて淋しくて、早く早くと先生の太腿にわたしの足を絡めた。
またくちゅくちゅと入口を擦り直してから、ずぷんっと、緩やかに中へ入ってくる。どうしよう。緊張してしまう。まだ先っぽしか入ってなきのに、もう苦しい。締め付けて、締め出してしまう。力を抜かなきゃと思うほどに身体が固くなってしまう。いっそのこと一思いに貫いてほしくて、わたしは腰を浮かして迎えに行こうとした。
「焦るな」
宥めるような声に押し留められてしまう。
「だって」
「夜は長い」
その言葉が、わたしの背筋をぞくぞくさせる。一回じゃ終わるつもりがないことを教えてくる。嬉しすぎるけど、先生を疲れさせちゃったら、〈村雨礼二を癒し隊〉隊長の名折れなんだけどな。
「何か懸念が?」
「その、わたし、今回の旅行は、礼二さんに元気になってほしくて」
「私は元気だが?」
「んんっ」
ぐりっとより深く侵入してきた質量に、思わず横隔膜を震わせられる。
「ちが、ちがうのにぃ……」
「違わない。あなたのお陰で最高のコンディションだ。感謝する」
──先生に褒められた!
頭がふわっと軽くなる。嬉しさで身体が溶けちゃいそうだ。その隙を突いて、先生がずんっと最奥まで辿り着く。一拍遅れて甘い快楽が全身を痺れさせた。
「──っ、はぁ」
先生が深く息を吐く。先生も達したのだろう。
中出しされても分かんないものだな。いつもと同じ──いつも以上に気持ちよくて、深くイッてしまって、わたしのなかに先生の細胞が入ったなんて感覚はなかった。
「……ここに」
先生の広い掌が、まだ先生自身が入ったままの下腹部をグッと押した。ポルチオを外と内側から抑えられて、わたしの腰がびくんと跳ねた。
「私の精子が放たれた。分かるか?」
じんわりとお腹をさすられるのが快くて、快すぎて、わたしは舌を出したまま声も出せずに首を横に振ろうとすることしかできなかった。先生は敏感にNOを汲み取ったようで、クリトリスからお臍に向けてゆっくりと親指を滑らせていく。
「いま、あなたの中を私の精子が泳いでいる。あなたの卵子を求めて我先へと駆けずり回っているのだ。ちょうど、このあたりが子宮口」
「お゙っ♡」
「そして子宮」
「んぁ──ッ♡」
「卵巣がこのあたり」
「ふぅっ♡」
「排卵された卵子と会うには数日かかる。今月排卵痛があったのはこちらだったな? 優秀なものがこちらへ向かってくれるとありがたいのだが」
いつも思うんだけど、なんで先生は挿入したままぺらぺら喋れるんだろう。わたしと言えば、先生の手が肌を押すたびにきゅうきゅうと締め付けて甘イキを続けているというのに。不公平だ。
先生の精液が、わたしのなかに。
「──んぅっ♡♡♡♡」
自覚するともういてもたってもいられなくて、捌きたてのイカみたいにきゅんきゅんと膣内が痙攣する。
「ぁっ、抜いてっ♡ おなか、へん……っ♡ へんになってりゅ……ッ♡」
「変ではない。大丈夫だ」
「やだ、やだぁっ♡ きもちいの、なおらなっ、ん、んん〰︎〰︎〰︎〰︎っ♡ っぁ♡ イくのっ、とまらなっ♡」
こんなにぐちゃぐちゃになっているのに、まるで「いい子だ」と褒めるように先生がわたしの頬を撫でるので、またきゅうっと身体のあちこちが反応してしまう。
「うぁ、しぇん、せぇ……」
「礼二」
「れぇじさん、ぬい、てぇ……」
ゆるゆると動かした腰を、先生が掴んで離してくれない。ずっとじんわり気持ちいいのが続いて、逆に苦しいのに。
「ぬかろく、という言葉を知っているか?」
「へ?」
「抜かずの六発の略称らしい」
「は」
「試行回数は多いほど良い」
「ちょ──」
ただでさえ遅漏のくせに!? これから五回!? むりむりむりむり!!!
そんなのぜったい──、
「しんじゃう」
「腹上死はさせん。私もしない。安心しろ」
言って、先生は悪魔のような笑みを浮かべた。果たしてそれは、わたしを安心させるものだったのか。それとも絶望と諦めを与えるためだったのか。
//////////「あぅ♡ あ♡ う♡ ううう♡ あ゙〰︎〰︎ッ♡♡♡♡ も゙っむ゙り゙ぃ゙♡♡♡♡」
「はや゙くイ゙って♡ まだなの゙ぉ゙♡♡♡♡」
「あ゙〰︎〰︎〰︎〰︎ッ♡ しんじゃっ♡ しんじゃうよぉ」
「んっ♡ あっ♡ あっ♡ あっ♡ あっ♡ これすきぃ」
「ま゙たイ゙っぢゃう……ッ♡ ぁ、あ゙っ♡ いくいくッあ゙あ゙あ゙っ♡♡ ──っ、か、げほっ」
ひとしきり大きく達した瞬間、唾液が喉に絡んで咳き込んだ。喉の違和感が取れず、肺も横隔膜も酷使され引き攣ってしまい、何度も何度も咳き込む。「大丈夫か?」とわたしを案ずるくせに、先生は一物を抜いてさえくれない。さすがに腰振りはやめてくれたけど、わたしの咳が落ち着いたのを確認すると、布団のそばに用意していたミネラルウォーターに手を伸ばして飲みはじめた。自由すぎる!
ごく、ごく、と尖った喉が動くのをぼうっと見上げる。汗が光る首筋がきれいで、うっとりと見惚れてしまっていた。何口目かの水を口内に溜めて、先生が口移しで流し込んでくれる。ぬるまった温泉水をこくりと飲み込んだ。生き返る思いがした。
「落ち着いたか?」
「……おかげさま、で」
言うてこんなになったのは先生のせいでしょ──という不満が滲み出ていたのか、先生は枕元に置いていた新品のタオルで口元を拭ってくれる。
いまになって思えば、ハメ倒すぞと言わんばかりの守備配置だ。温泉水のペットボトル、タオル、ティッシュ、ウェットシート、ゴミ箱、着替えが手に届く場所でその機会を待っている。その準備万端整っているのがなぜか可笑しくて、わたしは思わず笑っていた。
「余裕そうだな」
「ないない。もう限界ですってば」
正直な気持ちを吐露しても、先生は相変わらずだ。村雨礼二に賢者タイムはないのかしら。覆い被さってぎゅうと抱きしめられる。汗ばんだ肌がしっとりとくっつき合う。遠慮がちに預けられた体重が心地いい。
「休憩だ」
「……くっつくの、すき」
「知っている」
汗で湿った頭皮を撫で、硬い髪を梳いてあげると、甘えるように顔を押し付けてくる。さらに自重を預けて深い呼吸を繰り返す様子からすると、本当は疲れているようだ。すき。すきすき。お股がきゅんとしてしまった。一度締め付けてしまうと、より先生の形を感じ取ってしまって、連鎖的にきゅうきゅうと収縮する。
「……私は休憩してやると言った」
「ふ、不可抗力ですぅ──!」
「あまり騒ぐな」
はっとして口を抑える。
忘れかけていたけど、ここは良い値段のする旅館だ。防音壁のマンションでもなければ、行為が主目的のラブホテルでもない。
これまで情けなく喘がされていた自分を思い返して、恥ずかしさで身がすくんでしまう──と同時に、羞恥と罪悪感できゅうんと膣内が締まるのを感じた。先生の顔が歪む。
「──っ、違う、意味だ。騒がれると、刺激が強くて、敵わん」
小声で「でも」と口ごもると、先生は「何のために離れの部屋を押さえさせたと思う? 朝食の時間を遅らせたのは何故だと思う?」と捲し立てるように問うてきた。ご配慮痛み入りますと感謝する代わりに、わたしは口を開いた。
「せんせぇの、ばかっ、えっち、すけべ、──」
「褒め言葉か?」
「ぜつりん、ちろー」
「褒め言葉だな」
「あ゙ッ♡」
─2─
なんとか四回目で手を打ってもらった(というか、さすがの村雨礼二も連勤明けで限界らしかった)翌朝、わたしは身体中につけられた大量のキスマークと歯型を見て、大浴場に入れないまま旅行を終える悔しさに歯噛みした。
何が「私は前日までの連勤で疲労困憊だろうから、予定はすべて午後からにしろ」だ。「朝まで濃厚セックスの予定だから体力に無理のない旅程を立てろ」と馬鹿にでもわかるように伝えてほしい。
ベッドに沈み、朝食の時間まで二度寝を決め込もうとした薄い背中をぺちぺち叩く。八つ当たりだ。
「ばかばかばかばか先生のばか。わたしまだ大浴場も露天風呂も行ってないんですよ」
「知らん。私は『早めの利用を推奨する。堪能できる内にな』と進言した」
「意図が伝わんなきゃ意味なくないですか!?」
「いい湯だったぞ。特に露天風呂は開放的で気分がよかった。あなたも堪能するといい」
意地悪そうにニヤリと笑うその顔が好き。腹が立つほど好き。
「ふーんだ。わたしには個室風呂で十分ですし」
つんと拗ねたふりをして唇を尖らせる。事実、個室風呂には何の不満点もないのでゆっくり浸からせてもらおう。そう思って腰を上げた瞬間、
「あ」
どぷりと股から粘液が漏れる感触。内腿とシーツを汚す白濁液は、昨夜の残滓だ。一糸纏わぬ姿だったわたしは、大慌てでタオルを掻き寄せようとした。
「待て」
先生の声にぴたりと動きが止まる。これも愛ゆえか、飼い慣らされた犬のように先生のコマンドを守ってしまう。膝を突いたわたしの前に先生が這い寄り、顔を近づけてじいと見つめてくる。ああもう、いまとなっては懐かしいような羞恥心。経血を観察させてくれと頼まれたあの日を思い出して、同時に諦める。
「見ないでくださいよぉ」と苦し紛れにか細い声を上げた拍子に、どぷりと粘液が漏れる。身体はままならないものだ。いま滴り落ちたものが本当に先生のものなのか、いままさにわたしの粘膜から生まれたものなのかも不明だ。
昨夜の熱を忘れられずにいるわたしの肩に、先生が羽織を掛けてくれる。こんな気遣いを見せても先生の変態性は軽減されない。ちょっと絆されはするけど。「身体を冷やさないように。私は朝食まで寝る」
そんな主治医らしい科白のなかに、まるで身重の妻を慮るような温度を感じて──膣から零れ落ちた精液を名残惜しく思った。
朝食会場で先生の健啖家っぷりを再確認したあと、わたしたちは予約していた牧場に向かった。予約さえなければ一日休みたい気持ちもあったけれど、せっかくの新婚旅行、思い出はたくさん作りたい。
残念ながら規定以上の積雪で乗馬体験は中止とのことだったが、代わりに畜舎見学と搾乳体験を提案された。ここは畜産農場というより観光客向けのファームなので、牛に混じって羊や山羊、犬の姿も見られた。
畜舎は想像よりも温かく、干し草と堆肥の匂いが篭っていた。レトロなストーブに置かれた真鍮性のヤカンがしゅんしゅんしているところがまたノスタルジックだ。
「外よりはマシだな」
礼二さんは寒がりですからねぇ、と揶揄うときょとんとした顔で見つめ返された。あざとっ!! その上、腰をぐいと引き寄せ「身体を冷やすな。特に腹部は」と耳打ちされた。鼓膜を叩くその低い声で、わたしの体温は鰻登りだ。逆に熱くなってマフラーを緩めるはめになった。
案内をしてくれた職員さんから「ご旅行ですか? どちらから来られたんです?」と世間話を振られ、「新婚旅行なんです!!」と前のめりで答える。「良いですねえ」と社交辞令的に微笑まれる視線さえ美味しい。
なんだか、こう、ものすごく〝村雨礼二の妻〟をしている感がある。
消毒と注意事項の説明を受け、乳牛のモカちゃんのお乳を絞らせてもらうことになった。あったかくて弾力のある、ゴムのように力強い乳房。わたしは下手くそでちっとも絞りきれなかったけれど、村雨先生はすぐにコツを掴んでびゅーびゅー搾乳していた。職員さんに「お兄さん、即戦力で働けますよ」と言われるくらいには。尤もっとも、村雨先生は牛たちに吹っ飛ばされそうだけど。
ふと。思うことがあって、職員さんが離れた瞬間、村雨先生に耳打ちする。
「わたしのおっぱい飲んでみたいですか?」
聞きたいような聞きたくないような気持ちで、恐る恐る尋ねる。わたしの月経にすら興味津々の先生なのだ。興味がないわけがなかった。
「ああ。是非とも後学のために」
後学のためにってなんだ。分かっていたけれど、そうハッキリ答えられるとむず痒いというか、恥ずかしい。村雨先生が真顔でお乳を飲んでいる姿を想像して面白いような、居心地悪いような、ヘンな気分になってしまう。聞いておきながら、わたしは「ふ、ふーん」と生返事だけを返して、牧場の設備を興味深そうに見るふりをしていた。
それから、なんとなく──本当になんとなくだけど──村雨先生の視線を胸に感じる。ひしひしと。ちくちくと。じっとりとした粘着質な視線が、べっとりと絡むようにわたしの胸元に注がれているような気がする。
要らんことを言ってしまったという後悔を胸に、カフェエリアで農場の牛乳をホットミルクでいただいた。先生はこの寒いのに生クリーム付きワッフルとソフトクリームまで。先生の赤い舌がクリームを舐めとるたびに、なんだかいけない気分になって目を逸らしてしまう。今後、乳という文字を見ると授乳プレイを連想してしまいそうな自分がいやだ。
邪念を打ち払おうと、次は併設されたビニールハウスでいちご狩り体験に集中する。こちらは予約なしでもすぐに入れて助かった。真っ赤に熟れたいちごに唇を触れされる村雨礼二、セクシーだ。絵になる。
おっぱいをじっと見られていることを忘れるくらい写真撮影に夢中になっていると、先生がいちごを差し出してきた。村雨礼二に「あーん」してもらえること、ある!? 感動に打ち震えていると、「早く食べろ」と睨みを効かせてきた。シャッターを押したい気持ちに抗いながら、先生の指を噛まないよう控えめにかぶりつく。じゅわっと口内に酸味が広がり、遅れて甘味が舌に残る。こんなに美味しいいちごは、二度と味わえないだろう。
「よかったら練乳も使ってくださいね。隣の牧場で取れた牛乳で作っているんです」
そう職員さんに声をかけられ、わたしはまた胸元に視線を感じるのだった。
//////////さて、予定より早いが宿に戻ることにした。
何せ昨夜は大いに疲れさせられたので、わたしが休みたいと音を上げた──のは、先生にゆっくり休んでほしいからだと、きっとお見通しなのだろう。先生にとっては子づくり旅行のつもりだったとしても、わたしにとっては先生を癒すことこそが本懐だ。
部屋でしばらく寛いだあと、そろそろお風呂に入っておきましょうかという流れになった。大浴場へ向かうと思われた先生は、意外にも客室の露天風呂に入ると言った。いや、そもそも露天風呂付きの客室を希望したのは先生だし、やっぱり入ってみたいよね。
夕方に差し掛かり、青い夜の帷が赤い空を西へ追いやっていた。赤と青のグラデーションが、山のシルエットを切り絵のように引き立てていて、風情のある景色だった。夕闇にぽつぽつと星が顔を出しはじめていた。
ガラス張りの内風呂で汗を流してから、露天風呂へ向かう。
「先生、足元気をつけてくださいね。そこ、段差です」
「見えん」
当社比五割り増しに目つきの悪い先生の手を引いて、なんとか浴槽へ誘導する。ふたりで並んで入るには十分な大きさだ。冷えた板張りの上を歩いた足にお湯がじんと沁みる。檜の爽やかな香りが、鼻腔をすーっと通り抜けていく。少し熱めの温泉と冷えた外気が心地よくて、いつまでも入っていられそうだ。
少し視線を上げると、さらに暗くなった乾いた夜空にもったいないくらいの星が散らばっていた。ひときわ輝く月は、満月に少し足りないけれど、まあるく夜の雲を照らしている。きれいだ。きれいな景色を見ていると、なんだか口が軽くなるというか、心が素直になってしまう。
「わたし、いいお母さんになれますかね」
「期待はしていない」
「はいはい。『ひとりで気負うな。一緒にがんばろう』ですよね」
「そうだ」
村雨先生はいつも鋭いくらい本質だけで話すくせに、肝心なときに言葉足らずだ。たまに本当に意味を取り損ねてしまうこともあるけれど、三年の月日の積み重ねは決して短くはなかった。だから、わたしは安心して、お礼を述べることができる。
「へへ。ありがとうございます。礼二さん」
「──礼には、及ばない。私の希望だ」
先生の科白が返ってくるまで、ほんの少しだけの間があった。そのわずかな間隙が、わたしのために言葉を選んでくれているようで嬉しかった。
濡れた手を合わせて口元を隠し、うひひと声を漏らす。ふと、その手を掴まれたと思った直後に引き寄せられた。手繰り寄せられるまま先生の膝に乗ると、ほかほかの胸に顔を埋められた。湯船に浸かっているとはいえ、外気に晒された先生の鼻が冷たくて、谷間がひんやりした。ぐりぐりと顔を押し付けられたかと思うと、乳首にかぷっと噛み付かれる。
「ちょ、ここでっ?」
「私のものを貸し与えるのは、我が子とは言え業腹だな」
そういうこと? 生まれてもいない赤ちゃんにジェラシー感じているの? 先生って本当におっぱい大好きだな。しかも貸し与えるって。わたしのおっぱいは貸与するものだと思ってんの? わたしのおっぱいはわたしのものなんですが。そんなツッコミが湧きつつも、そこは惚れた弱み。甘えてくるような仕草が愛おしくてきゅんとしちゃう。頭を包み込むように抱きしめながら、硬い毛質の髪を撫でる。
「とにかく、きょうはゆっくり休みましょうね。お夕飯食べたらすぐ寝ちゃいましょ」
「何を言っている?」
「はい?」
「私は昨夜、『きょうから三日間が、あなたがいちばん孕みやすい周期だ』と言った」
「……」
わたしが絶句したのも、無理からぬ話だろう。
外科医の体力どうなってんの。三分割しといてアレなの。さまざまなツッコミがあぶくのように浮かんでは消える。観念したわたしは、先生の骨ばった手に指を絡め最大限甘えた声を出した。
「……………………きょうは手加減してくださいね?」
「善処する」
─3─
さて早くも三日目の朝。わたしは、ひとの少ない時間に大浴場へ赴くことにした。せっかくきたのに名物の大浴場や露天風呂を堪能できないのはもったいないし、よくよく考えてみれば、そんなにじろじろと身体を見てくるひともいないだろう。旅の恥はかき捨てとも言うし。
広々とした浴場には、混雑を避けて来たらしい個人客や子ども連れが数組いるだけで、のんびりと過ごすことができた。源泉掛け流しの湯だけではなく、炭酸湯やジェットバスも堪能していたら、ゆうに一時間を超えていた。それからスキンケアをし、髪を乾かし、マッサージチェアでほくほくにほぐされる。このまま二度寝したくなる頭を無料の黒酢ドリンクで叩き起こし、先生への手土産も兼ねてフルーツ牛乳を二本買った。大浴場に来る時は先生と一緒だったけど、さすがにもう部屋に戻っているだろう。
下駄をカラコロ鳴らしながら廊下を戻っていると、途中の休憩所から先生が出て来た。ここのマッサージチェアで休んでいたらしい。
「あ。奇遇ですね。いま戻るところだったんですよ」
「奇遇ではない。あなたが部屋の鍵を持っているのだから」
「わー! すみません!! 預けとけばよかった!!」
「ところで、それはどうした?」
それ、と促されるままわたしは背後を見た。すると、二〜三歳らしき見知らぬ幼児が、ぽかんとした表情でわたしを見上げていた。周囲を窺うが、保護者らしき人物は見当たらない。
「え、だ、誰? どうしたのボク?」
まんまるな顔が見事に硬直している。やがて無言で後ろを振り返ったりわたしの顔をまじまじと見直したりして──ようやく自分が迷子になっていることに気づいたのだろう。いまにも泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。
慌てるわたしをよそに、村雨先生が膝を折ってしゃがみ込む。距離をとりつつも視線を合わせ、優しい声で話しかけた。
「名前は?」
「…………ゆうくん」
人見知りなのか、あるいは泣くのを我慢しようとしているのか、ぶっきらぼうにゆうくんは答えた。
「ゆうくんはママと来たのか?」
「…………ん」
尖らせた口がひよこのようにかわいくて、思わず抱きしめたくなってしまった。
先生と打ち解けたゆうくんが訥々と語るには、「あのね、あのね、ままとね、おんせんはいってね、でたらね、ままがまいごになってたの」とのことだ。女湯の脱衣所を出るとき、間違ってわたしについてきてしまったんだろう。館内着はみんな同じ浴衣だし、幼児の視野では仕方ない。
「一緒にママを探していいか?」
「ん。いいよ」
かわいーッ!!
胸を貫くこの思いを〝萌え〟と呼ばずになんと呼ぼう。小さきひとの何もかも一生懸命な姿はまさに庇護欲をそそる可愛さだ。その上、膝を折って幼児に視線を合わせる村雨礼二の尊さ。義兄家の子たちに向けるものとはまた違った対応が新鮮で愛おしい。しかし、ここで悦に浸っている場合ではない。芽吹いたオタク心を迅速に胸にしまい、わたしはゆうくんを抱っこさせてもらうことにした。
フロントへ行けばどうにかなるだろうという見込み通り、ちょうどゆうくんの家族が受付スタッフと話しているところだった。「まま!」と声を上げたゆうくんを床に下ろした瞬間、てちてちと駆け出していく。もう擬態語ですらかわいいんだ。
恐縮して頭を下げる両親と大人らしい会話を交わし、早くもゆうくんと別れる時間となった。
お母さんに手を引かれながら「ばいばい」と小さな手を振られ、わたしたちもゆうくんに手を振り返した。真顔で幼児に手を振る村雨礼二、とても滋養がある。
「先生って、意外と面倒見が良いですよね」
意外とは余計だ、とか言って下顎を掴まれるだろう──と顔を差し出したわたしを、村雨先生は無言で見下ろしていた。妙な前傾姿勢のまま、上目遣いで様子を窺う。
「安心したか?」
予想していたどのお小言とも違う言葉に、わたしは反応に困ってしまった。村雨先生は視線を外して嘆息してから、改めてわたしの顔を真っ直ぐ見つめて尋ねた。
「私は善き父親になりそうか?」
「ふぐぅ──ッ。も、もちろん!」
爆発しそうな愛おしさを助走の威力に変えて、全力で抱きしめたら「ぐぇ」とカエルを押し潰したような呻き声が漏れた。薄くて広い背中も、倒れそうになって脚を踏ん張る姿も何もかもが愛おしくて、わたしはいっそう強く抱きしめた。
その日の夜、お返しのように強く抱き返されたことは言うまでもない。
ふっ、と礼二さんが吐息を漏らすように笑った。悪くない響きだ、と噛み締めるように零す姿がひどく印象的で──面映く、愛おしかった。
─4─
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。家に着くまでが新婚旅行と自分に言い聞かせても、もう名残惜しくてたまらない。あと一ヶ月くらいはここに住みたいくらいだ。桜や紅葉の時期は特に人気だと聞いたので、また季節を変えて来るのも良いだろう。今度は三人家族で。そんな展望を、未来を、思い描く。
朝食を終えて荷物をまとめていると、村雨先生が一眼レフカメラをいじっていた。そういえば、結局あんまり使えなかったな。撮りたいと思った瞬間にレンズを向けるには、やはりスマートフォンの方が手に慣れきっている。せっかくお義兄さんに借りたのにもったいなかったな。
庭にカメラを向ける村雨先生をスマートフォンで撮る。美しい。村雨礼二は横顔もまたいいんだ、これが。
荷造りを終え、部屋を見渡し、忘れものがないかを確認する。初めて来たときと同じように片付けたのに、なぜか物寂しい。引っ越しで空っぽになった旧居を見ているようだ。
そんなセンチメンタルなわたしをよそに、村雨先生がスーツケースを引いて歩き出す。
「あ、荷物はわたしが」
「いい」
「重いですよ。段差もありますし」
「だからだ」
端的に断られ、わたしはしぶしぶ自分のバッグだけを持って歩き出した。
フロントで鍵を返した際、「玄関で記念撮影はいかがですか」と女将さんから提案された。願ってもないことだ。もちろんと頷きスマートフォンを預けようとすると、先んじて先生が一眼レフカメラを手渡した。なんてスマートな。女将さんも慣れていますと言わんばかりに受け取って、旅館の門扉まで誘導してくれた。
村雨先生も、きっと幼少の頃からこうして旅行先で写真を撮ってもらったに違いない。以前見せてもらったアルバムにも、家族全員で写っているものがたくさんあった。先生を撮るのに夢中で忘れていたが、もったいないことをした気もする。
せっかく撮ってもらうならラブラブに写りたくて、わたしは村雨先生の腕に自分の腕を絡めてぎゅうとくっついた。
鬱血させる気か、と叱られ、ほんの少しだけ力を緩める。
やけに上機嫌のわたしと、いつも通り無表情の先生。この日を昔話のように語る日が来るだろうか。いつか、この写真をふたりで──家族で見返すことがあるのだろうか。その日がいまから待ち遠しくて、楽しみでしかたがなかった。