#02 村雨礼二32歳の新婚旅行(後日談)

─1─

 新婚旅行を終えてから、村雨先生の言動が妙だ。いや、村雨礼二が妙でなかった瞬間など、生まれ落ちてから今日この日まで一秒たりともあっただろうか。しかし普段の先生の言動を加味しても、最近の村雨先生は奇妙だった。

「何か食べたいものはないか」

「寝づらくないか」

「葉酸サプリを定期配送させる。これは今月分だ。毎日飲むように」

「外に出るのは構わんが、激しい運動や重い荷物は持つな」

「顔が浮腫んでいるな。水は飲んでいるか?」

「何か食べたいものはないか」

「あなたの手料理は嬉しいが、ミールキットの活用も視野に入れる。候補をリストアップしてくれ」

「名づけに関しては互いに候補を挙げて協議する形にしたいのだが、異論はないか?」

「何か食べたいものはないか」

 体調を気遣ってくれているのだとわかりつつも、ふだんの二倍はよく喋るようになった村雨礼二に困惑を禁じ得ない。何せ、帰宅してから二日目でコレなのだ。田舎のおばあちゃんかと言いたくなるくらい腹を空かせてないか気にしてくる。

 その上、着床しているかも分からないというのに、まるでそこに命が宿っているのが当然かのようにお腹を撫でてくる。それも、(あの村雨礼二が)遠慮がちに、(あの村雨礼二が)話しかけなら! しかし、まだ見ぬ赤子に対してどう話せば良いのかわからないようで、大抵は「きょうは曇りだ」とか「今夜は雨らしいぞ」とか天気の話が主だ。そのうち、話題に困って日経平均株価の話とかしはじめるかもしれない。

 今朝も酷く名残惜しげに出勤して行った。あまりに玄関から出たくなさそうな顔をするので、行ってらっしゃいのちゅーを三回もして見送った。


 わたしの生理周期は二十八〜三十日とばらつきがある。排卵期の四日間にドンピシャで休暇をもぎ取った村雨先生の執念に、畏敬の念を抱かざるを得ない。これは納得し難いことなのだけれど、妊娠の週数は最終月経の開始日から数えるので、わたしは現時点で妊娠三週目という扱いになるらしい。いまは黄体期に当たるが、約二週間後に生理が来なければ妊娠の可能性が高いと見て良いのだろう。

 それにしても気が早い──などと、わたしは先生のことを言えないのだ。旅行中にポチった「たまごクラブ」やら名付け関連の本や初めての妊婦向けの本が本日まとめて届いた。先生がいるときじゃなくて良かった。浮かれている先生は面白いし可愛いけど、バランスを取るためにわたしは平静を装っていたい。それが、嘘の類たぐいが一切通じない村雨礼二相手であってもだ。

//////////

 日を増すごとに過保護になっていく村雨先生が、ある日不機嫌極まりない顔で帰宅してきた。口角が下がり、目尻は吊り上がり、ひとをひとり殺してきたような殺伐ささえある。おかえりのちゅーをしてもずっと表情は険しいままだった。

「ど、どうしたんですか?」

「急な出張が入った。再来週、ロサンゼルスの学会に出なければならない。移動日も含めて六泊七日だ」

「えー! 新婚旅行より長くて遠いじゃないですか」

 わたしとしては気の利いたツッコミだと思ったのだけれど、「ゔ」と痛いところを突かれたような声を上げられた。ちょうど妊娠が確定しそうな時期にそばで観察できないのが無念でたまらないのだろう。わたしのちいさな良心が痛んで、なにか励ましの言葉をかけようと頭をくるくる回転させる。

「お土産買ってきてくださいね。ロスの名物ってなんだろ。カジノとかあるんですっけ。先生賭け事とか強そう。一発当てて帰ってきてくださいよ」

「確かに私は賭け事も強いが」

 村雨先生はやはり不満げだ。

「美味しいもの食べて元気出してください。きょうは牛フィレステーキですよ。付け合わせのマッシュポテトの出来もよくて」

「ミールキットやレトルトでも構わないと言ったが」

「いま、いろいろ試してますよ。なんか副菜がイマイチなとこが多いんですよねえ」

 先生は大食漢かつ美食家なので、なかなかお出しできそうなものが見つからないのだ。室温に戻しておいた肉をいざ焼こうと手に取ったとき、後ろからふわっと抱きしめられた。最近の村雨先生、抱きしめ方も柔らかすぎてヘンな感じなんだよな。

「身重の妻を置いていくなど、非常に不本意だが」

「重い重い。徴兵にでもされに行くんですか」

「似たようなものだ。私は当然不服を申し立てた。一心に抗議した」

「分かってますって。わたしが心配で行きたくないんでしょ? 毎日メールしますから。通話もしましょうね」

「ああ。何か体調に変化を感じたらすぐに知らせろ。どんな些細なことでも構わない。体調不良の際は義姉を頼れ。私が不在のことは伝えておく」

 些細な変化か。そういえば──、

「先生、いつもと違う香りがしますね?」

「……院長の葉巻だろう。失礼した」

 すっと先生の腕が解かれる。もしかして気にしてしまっただろうか。

「ああ、違いますって。ほら、妊娠すると嗅覚や味覚が変わるとか言うじゃないですか。そういうのかなって」

 くるりと体勢を変えて、先生に抱きつく。うん。葉巻っぽいスモーキーな香りの奥にはちゃんと先生の匂いがある。落ち着く。

「そういったあなたの変化を(つぶさ)に観察できないのは遺憾だ。また、煙草は健康に百害あって一理ない。近づかぬように」

「はいはい。いまからお肉焼くんで先生も離れてくださいね」

「ああ──、そうだ、伝え忘れていた」

 膝を折り、先生は(ひざまず)く。わたしの下腹部にすりすりと頬を寄せると「いま帰った。きょうは晴れ。昨日より温かかった」と毎晩の報告を行う。やっぱり話題が天気しかないんだと笑いを噛み殺していると、先生は続けて「しばらく家を空けるが、母親を頼むぞ」と語りかけた。母親。その一言でわたしの心臓は弾けてしまいそうだ。

 「肉を焼かないのか?」と(うなが)されるまで、わたしは立ち尽くしたまま幸せを噛み締めていた。

─2─

 先生が学会に出かけて、早くも三日が経った。海外出張で一週間家を空けると言っても、これまでも散々連勤やお友だちとのお出かけで家を空けることがあったし、わたし個人としては慣れたものである。

 生理期間中はこちらに帰ってくれないことにいじけていたのもいまは懐かしい過去だ。

 一日に何度も開いている体調管理アプリを立ち上げる。何度見ても、生理開始予定日を過ぎている。体温の上昇や眠気、胸の張りなども感じている。いままでのPMSと大差は感じないが、どうやら妊娠初期状況でも同じ症状が出るらしい。スマホでぽちぽちと調べ物をしつつも、眠気で文章が頭に入ってこない。もう少し昼寝するかとうとうとしていた頃、スマートフォンが震えた。村雨先生からの定時連絡だ。

 こちらは昼下がりだが、向こうは夜の九時頃だ。

「こんばんは」

〈ああ。変わりはないか〉

「はい。元気ですよ」

 きのうも通話したというのに、もうこの声が懐かしい。愛おしい。会いたい。妊娠初期症状が出てますよ、と伝えたい。でも、伝えたところで帰ってくるのはもう少し先だ。歯がゆい思いをさせるかもしれないし、黙っておいた方が良いかなと思案していると──、

〈嘘を吐いたな〉

 やはり、彼に嘘は吐けない。

〈月経が遅れていると言ったな。きょうも?〉

 そこから始まるのは電話問診だ。いまの体調についてぽつぽつと語る。通話ではきちんとした診断ができないと言って、先生は特に何も言ってくれないけれど、聞いてもらえるだけで少し不調が軽くなったような。気がする。気がしてしまったので、わたしはつい、弱音を漏らしてしまった。

「……元気じゃないです。さみしい。会いたい、です」

〈──〉

 無言。わたしを慰める言葉を探してくれているのだろうか。どうにもならないことを言うなと言われるだろうか。母親になるくせに弱音を吐くなと叱られるだろうか。

 どんな言葉でもいいから、先生の声を聞きたかった。そばに感じたかった。それが厳しい叱咤だとしても、きっと先生の言葉ならがんばろうと思えるから。

〈いい子で待てるか?〉

 待ちに待った言葉は、そんな子どもを宥めるような温度で聞こえた。先生の顔を想像して、思わず笑ってしまう。わたしは「はい」と元気よく答えた。


 先生の帰国まであと一日。

 朝から非常に身体が怠い。きょうは義兄家の手伝いに行く予定だったけれど、泣く泣くドタキャンさせてもらった。村雨先生に安静にしろと言われたからには、もちろんいい子のわたしは従う。

 頭を締め付けるような頭痛で眠ることもできない。せめて栄養は取らなければとミールキットを温めたものの、ハンバーグの匂いを嗅いで吐き気がした。なんでこんな重たいメニューを選んだんだ、わたしは。そんな自己嫌悪でもがいていて、ふと、これが「つわり」なのではと思い至った。

 村雨先生はすでに妊娠検査薬を用意していて、新婚旅行から帰ってきたときに保管場所を教えられていた。薬箱を開けると、予備なのかメーカー違いで二箱確認できた。

 あと一日で先生が帰国する。

 きっと先生は検査に立ち会いたいに違いない。

 でも、妊娠検査薬っておしっこかけるんだよね?

 村雨先生のことだから──それも見たいと言い出しかねない。

 ごめんなさい、村雨先生。

 わたしは排尿を見られるかもしれない羞恥心から、妊娠検査薬の箱を開けた。

//////////

 陽性反応を示す二本の線を見て、「やっぱり」と同時に「まさか」と思った。先生に画像を送ろうとカメラアプリを立ち上げる。一枚、二枚、と撮影していくうちに、なんだか画像ではこの感動が伝わらないような気がした。

 メールアプリを立ち上げ、本日の自分の体調を正直に(しる)し、本日の定時通話はおやすみしたいと伝えた。そして〈到着ロビーまで迎えに行っていいですか〉とお伺いを立てる。〈通話の件は承知した。迎えには来るな〉と簡潔な二文が帰ってきた。

〈どうしてですか〉

〈多種多様な雑菌とウイルスだらけの場所に行かせたがる夫がどこにいる〉

〈じゃあ駐車場まで。車でいい子に待っていますから。あとものすごく愛してます。礼二さん大好き。早く会いたい〉

 こうしてようやく許可を得た。便名と着陸予定時刻と一緒に〈温かくしろ〉〈少しでも不調を感じたら安静にしろ〉云々、注意事項が長々と羅列されていた。

//////////

 先生の帰国当日。

 言いつけ通り、空港の駐車場で待っていると、スーツケースを引いた村雨先生が遠くから目視できた。ジップロックに入れた妊娠検査薬を引っ掴んで、外に出る。

 わたしが大きく手を振るよりも先に、村雨先生の口が動いた。「戻れ」かな。「マヌケ」かもしれない。わたしは無視して駆け寄る。村雨先生は諦めたように早足になった。

 いますぐ抱きつきたい気持ちを胸に押し留めながら、わたしは村雨先生にジップロックを掲げた。がたん、と地面に倒れたスーツケースが大きな音を立てる。先生の目がわたしの手中に釘付けになる。もうとっくにわかっていたでしょう、と思いつつも、わたしは見慣れない先生の驚き顔を見て「してやったり」と満足するのだった。


 車に乗るなり、村雨先生が「産婦人科にはまだかかっていないな? 明日行くぞ」と早口で宣言した。明日はお昼から出勤だと聞いていたのに、大丈夫だろうか。

「早期受診に越したことはない。私も同席する。昨今、受入猶予のある産婦人科は僅少だ。午前中に予約を入れておこう」

「帰国したばっかりなのに大丈夫ですか? 一人で行きますよ」

「私はあなたの主治医だが?」

 殺意かと見紛うほどの気迫に気圧されてしまったが、こんなにありがたいことはない。何しろ初めての妊娠なのだ。期待以上に不安が大きい。

「先生」

「なんだ。いまさら不満か。産院は私に一任すると合意を得たはずだが」

「そうじゃなくて。──ありがとうございます」

 村雨先生は珍しくわたしの言葉の意図を汲み取れないようだった。重たそうな瞼を二度三度とゆっくり瞬かせる。きっと、絶対に理解なんてできないのだろう。ご自分がどれだけわたしの救いになっているか。そばにいてくれるのがどれだけ心強いか。

「好きです」

「そうか」

「愛してる」

「知っている」

「『私もだ。愛してるハニー』って言って!」

「予約を終えるまで待て」

 村雨先生の薄っぺらい頬を突くと、邪険に拒まれる。このやりとりが楽しくて、ついついちょっかいをかけたくなるのだ。そんな子どもみたいな悪戯心も自重するべきかもしれない。何せわたしは母になるのだから。

 もう妊娠しているのだから。

//////////

「妊娠はしていませんね」

 目の前の産婦人科医は何を言っているんだろう、とわたしは診察室で首を傾げた。言葉の意味がわからず、途方に暮れて村雨先生の方を見る。やがてじわじわと言葉の意味を理解しはじめるものの、心がまったく追いついていかない。

「あの、あのっ。何かの間違いなんじゃ」

 プロに対しておかしいと分かっているのに、わたしはそんなことを口走ってしまう。

「市販の検査薬では陽性でっ、あのっ」

 回らない呂律と震える手でスマホのカメラロールを示して見せる。村雨先生にも見せた二本の線。こんなにはっきりと見えているのに。

「検査薬はすぐに確認しましたか?」

「えっと──すぐ、すぐだったかな。そ、そわそわして、見るのが怖くて、すこし、時間を置いちゃった、かも──」

 必死で思い出しながら、あわあわと説明をする。叱られまいと言い訳をする子どものようだと、いやに冷静な自分がいた。

「時間を置くと尿が蒸発して誤検出することがあるんですよ」

「え。あ、はいっ、でも、生理も来てないし体調も不安定だし」

 ぞわぞわと悪寒が腰から背中にのぼってくる。ああ、村雨先生。なんで黙ってるの。「食い下がるなみっともない」と叱ってください。足元がふわふわする。

「季節の変わり目は体調が変化しやすいですし、生理が遅れているのが不安でしたら、子宮内検査も可能ですが」

「えっと、ほんとに何もないんでしょうか?」

「はい。六週目くらいには、通常これくらいの大きさになっていまして──」

 パンフレットを手に説明を受けるけど、まだ納得ができない。

 いるはずなのに。いるはずなのに。先生との赤ちゃんが、いるはずなのに。

「あの、でも、そ、そうとしか思えなくて」

 声が震える。専門医の意見がいちばんだってよく知っているはずなのに、信じられない。だってあんなに身体に兆候があったのに。先生だって同意してくれたのに。

 担当医が身を乗り出して優しく説くように言った。

「──もしかしたら落ち込ませるかもしれないけれど、プレッシャーが強すぎると、身体が妊娠の兆候を示す場合もあるんですよ。このプレッシャーというのは、決して後ろ向きな意味ではなくてね。愛や希望が強いときも、そうなってしまうことがあるんです」

「そ、想像妊娠ってやつですか……」

 それからのやりとりはあまり覚えていない。ただ呆然としていた。


「はあああああ……」

 はやとちりだったってことだ。

 ぬか喜びだったってことだ。

 わざわざ先生について来てもらったのに。先生が赤ちゃん作ってもいいって言ってくれたのに。あんなにがんばってくれたのに。なんでできなかったんだろう。さすがの先生もがっかりしているかもしれないと思うと、顔を上げられなかった。失望された目で見られるのが怖かった。

 待合室で会計を待っている間、重い沈黙がわたしたちを(へだ)てていた。プライバシー配慮のために仕切られたソファ席が、より孤独感を増した。支払いを終えた先生が迎えに来てくれたときも、顔を上げることができなかった。先生に手を引かれるまま、血の気の引いたふらふらの足をどうにか動かしてゆるゆると歩く。唇が震える。喉の奥が熱い。病院の自動ドアを二回超えて、わたしはようやく声を出すことができた。

「せ、先生。せっかく時間使ってくれたのに、すみません。わたしの、はやとちりでしたね。あはは、わたしって身体までアホだったというか、あの、思い込みの力ってすごいですね! わ、恥ずかしいなぁ。は、恥ずかしい思いをさせて、すみ、ませんでした……」

「恥ずかしい? 何がだ」

 村雨先生の声は平熱だ。いつもと同じ、低くて固い声。わたしの大好きな声。その声がいまは耳にするのもいやだ。私は分かっていたと、あなたが愚かで早とちりだっただけだと指摘されるのがいやだ。言われるくらいなら、先に全部自分で言ってしまいたい。

「だって、こんな、意気揚々とぉ……先生に、ひ、期待させてぇ、うぇ、ひっぐ……」

 期待させてごめんなさい、なんて言えば、先生は「期待などしていない」と答えるだろう。あの日のように。でも、いまのわたしは突き放されたように感じてしまうだろう。頭でわかっていても。それがいやだ。いやだ。いやだ。

「涙は車まで我慢しろ。デリケートな患者も多い」

「あき、呆れてますよね、馬鹿だって思ってますよね、ガッカリして、が、がっかり、させちゃったぁ、あぁ……」

「落ち着け」

「ひぐぅ……」

(はな)をかめ」

「ごぇんなさいぃ……」

 差し出されたポケットティッシュを使い切る勢いで、わたしは涙をぬぐい、洟をかむ。

 抑え方を知らない幼児のように、しゃくりあげながらみっともなく涙を落とした。


 車内でようやく落ち着いたときには、ずきずきと頭痛がするほどだった。こんなにも全力で泣いたのは子どものとき以来な気がする。大のおとなの本気の号泣を見せてしまい、恥ずかしくなった。いまさら取り繕えないとはわかりつつ、もうわたしは大丈夫だと示したくて、つい茶化してしまう。わたしはちゃんと笑えているだろうか。

「よく考えたら、こんなことでピーピー泣くようなお母さんのところに赤ちゃんは来てくれませんね」

「身の振り方で確率は変わらない。どれだけ善人であろうとだ」

 村雨先生なりの励ましだ。その優しさが嬉しくて、だからこそ申し訳なくて、落ち込んでしまっている自分が許せなくて、ぐずぐずになった鼻を鳴らして、湿ったティッシュを握りしめる。

「でも、もっとしっかりしなきゃ。先生忙しいし、ひとりでもちゃんとしないと! 『いつまでも あると思うな 村雨礼二』! 字余りですね!」

「確かに医者は多忙だが。私は最善を尽くすぞ」

 わたしの渾身のボケもいつも通りスルーされる。先生はマジレスしかしない。

「あ、大丈夫ですよ。いざとなったら里帰り出産して落ち着くまで実家に──」

「だめだ」

 否定が早くて鋭い。

「でも」

「義姉にすべてを頼んでいる。了承も得た」

「外堀埋めるの早過ぎません!?」

「あなたよりも、ずっとせっかちだろう?」

「……ですね」

 わたしの手の甲を、先生の指が何度も往復する。わたしを慰めるように行ったり来たりする。不思議だ。あの村雨礼二が、言葉を探している。

「私は親になったことがない。ので、あなたと一緒に親になる。ひとりで先には行かせないし、あなたを置いていくこともしない」

「──うん、うんんん……」

 ぎゅう、と遠慮がちなくらい優しく抱きしめられた。頭を撫でる手の、指先までもが柔らかくて、また鼻の奥がつんとした。

「帰ったらあなたを抱きたい。居もせぬ胎児に配慮し過ぎた」

 生理周期が狂ってしまったので、確率は低いだろうけど。でも、そんなことをいま言い出すほど、わたしは空気を読めないバカじゃない。

「か、数をこなすのも大事ですもんね」

「……はぁ」

 空気を読めないバカみたいな目で見られた。しゅきー!! いや、これからは村雨礼二の妻かつ村雨礼二の子の母を目指すのだ。これまで通りのバカではいられない。これまで以上にがんばらねば。

「あの、わたし、が──」

「がんばる、などとほざくな。自然妊娠に任せる以上、あなたが努力するのは健康を維持することくらいだ」

「が、が、が……がん検診とか受けようかなぁ」

「今年の健康診断の結果は良好だった。婦人科系疾患の検査結果も問題ない。安心しろ」

「えっ、もしかしてアレってブライダルチェック的なやつだったんですか!? 確かに去年より細かいなあと思いましたけど!!」

 さすがは村雨礼二。気持ちが悪いほど先回りができる男だ。子どもが欲しいという執念を感じる。より一層、先生の子どもが欲しくなった。本当にわたしが原因でなければいいんだけど。

 わたしの質問には答えず、「飲みものを買ってくる。レモンティーとほうじ茶、どちらの気分だ」「……ほうじ茶」「わかった」と短い会話をしてドアを閉めてしまった。

//////////

 運転席でハンドルにもたれながら、ぞわりと悪寒にも似た嫌な予感が浮かんでくる。あの村雨礼二が計算ずくで孕まそうとして失敗するようなことがあるだろうか? あんなに子種を注いでもらったのに? 先生のことだから、彼自身についても問題がないか調べているはずだ。もし、わたしが子どもを産めなかったら? もし、産めないまま先生の時間を何年も奪うことがあったら? 契約書には養子でも良いと書かれていたけれど、言及するからには自分の血が繋がった子どもが欲しいだろうし。わたしだって村雨礼二の赤ちゃんが見たくて堪らないし。まだ、まだ一回失敗しただけだから大丈夫。もし、わたしがダメだったら潔く次に行ってもら──いたくない。やだやだどうにかなって!!

 妊娠してないのにマタニティブルーになることがあるんだろうか。診察を終えるまでは期待混じりの不安だったのに、いまはひたすらに後ろ向きな、純粋な不安に押しつぶされそうだ。

 そんな不安からか、先生が戻ってくるまでの時間がいやに長く感じられた。

 苦虫を噛み潰したような顔で戻って来た先生が、ほうじ茶を渡しつつ心底嫌そうに口を開いた。

「院長と担当医から呼び止められている内に冷めてしまった」

 そういえば、我慢できず待合室で泣き出してしまったんだった。いや、診察時点で心ここに在らずだった。わたしのせいで、お叱りや心配を受けたのかもしれない。

「あああ、パニくっちゃってお恥ずかしい……」

「これは院長からの伝言だ。『何かあったら礼くん無しで相談に来なさい』だそうだ。……医院からの指示なので伝えたが、今後も私を必ず伴うように。わかったな?」

「〈礼くん〉!?」

 受け取ったほうじ茶が座席の下にボトッと落ちる。キャップを緩める前でよかった。わたわたとペットボトルを拾い上げながら「れ、れれれれいくん?」と聞き返す。

「まず、返事は?」

「はいッ」

 元気よく返事をする。もとより、先生がついてきてくれるなら、こんなに心強いことはない。その気持ちは変わらない。

「ここは大叔母が建てた産院だ。さきほどあなたを診た現院長も遠戚にあたる──ので、礼くんと、そう呼ばれている」

 ひい、と喉奥で悲鳴が漏れた。

「ご挨拶なにもしてない!!」

「しなくていい。信用できるから選んだだけで、単なる医者と患者の関係だ」

「ど、どーしよぉー……わたしめちゃくちゃテンパってましたよね!? 『ウチの礼くんに相応しくないお子ちゃまね』とか思われてないでしょうか!?」

「要らん心配をするな」

「やらかしたぁー。やっぱり村雨家の家系図的なものほしいですよぉ。ほら、わたしたち結婚式もしてないから、いまひとつ親戚関係とか把握できてない感じもあって……」

「結婚式か」

「親戚付き合いしなくていいってのはありがたいんですけどぉ、こうしてどっかで関わる前に知っておきたいというか、やっぱりできることはやりたいというか」

「やるか」

「はい? いいんですか?」

 結婚三年目にして親戚付き合い開始とは、嬉しい誤算だ。現金にも心を躍らせはじめたわたしの耳に、予想だにしない単語が飛び込んできた。

「最近は結婚後に披露宴を行う夫婦も少なくないと聞く。面倒だがやる価値はある」

 わたしは再びほうじ茶を落とした。

「そっち!? ないない。今更ですよ。それに子ども作ろうってときに何百万も使えますかって」

「必要経費だ」

「将来が不安になるんですが!?」

「予算は気にするな」

「奥さんなんだから家計は気にしますってば!!」

 言うて先生の貯金残高とか知らないし、財布も別だから家計なんて把握していないんだけど。いまだってそれなりに豊かな暮らしはさせてもらっているはずだ。

 それに。披露宴なんかして、わたしの顔や名前が広まるのはよくない。万が一、不妊を理由に後妻を迎える可能性を考えると。

 やだなあ。

 これは、「離婚はやだな」って思う気持ち半分、〈「離婚はやだな」とマジで思っている自分〉に対する「やだな」という思いが半分だ。

 わたしはこの三年弱、あまりに村雨礼二尽くしの生活だったので──手放されるのが惜しいのだ。とても。すごく。ほんとに。

「……これから何が起こるか分かんないんですから、お金は大事に取っておきましょうよ」

 たとえば、先生の子どもなんだから良い体験も学習もたくさんさせてあげたいし。

 たとえば、わたしの不妊治療に時間やお金がかかるかもしれないし。

 たとえば、万が一、億が一、後妻を迎えるとして──そのひとの金遣いが荒いかもしれないし。

 たとえばを積み重ねてもキリがないとは分かりつつ、投資するにも元手が必要なのだから。

「分かった。披露宴については今後検討するとして」

「検討しません。やりません」

「あなたは私のタキシード姿を見たくないのか? 愛しい夫のお色直しも?」

「それは見たいーーーーッ!!」

 ふっ、と先生が笑う。顔を覆って天を仰いだわたしがよほど滑稽だったようだ。だって見たすぎるじゃん。ケーキ入刀する村雨礼二も見たいし、紋付袴を着る村雨礼二も見たいじゃんッ!! 両親への感謝の手紙を読む村雨礼二を4K画質で収録したいじゃんッ!!

「決めた。披露宴をやるぞ」

「決めてない。やらない。わたしの合意に基づいてない」

「あなたは私の晴れ姿を見たい。私は美しい妻を自慢したい。一挙両得だ」

「うぅ……」

 美しい妻を自慢したいなんて言われたら、唸るしかなくなるでしょ! なにより、村雨家の家族写真から血族のDNAを感じたい。

「兄夫婦が使った会場は利便性も食事も良かった。秋から冬の大安の日を適当に選んでおけ。出席者の都合は適当につけさせる」

 一度前向きになった村雨先生を止めることなんて、わたしにできるはずもない。どうやって止められるかと考える一方で、もし披露宴をするならという工程表を頭の中に組み立てはじめている。

「それから。私は子どもが欲しいのではない。あなたとの子どもが欲しいのであって、そこを誤解されては──なんだ、その顔は」

 きっと気持ち悪いくらいにわたしの顔が緩んでいたのだろう。いや、緩んじゃうでしょう。こんな嬉しいことを言われたら。

「なんだと思います?」

「私の愛情を再確認して嬉しくて堪らない顔だな? 加えて、いますぐキスしたくてうずうずしている」

 大正解! と答えてわたしは先生に抱きついた。

─3─

 そんなやりとりをしたのも、もう一年も前のことだ。八ヶ月を迎えたお腹はまあるく張り、わたしは妊娠線予防の保湿クリームを毎日塗っている。先生が塗ってくれることのほうが多いけれど。冷え性の指先をお湯で温めてから優しい手つきでクリームを塗る村雨礼二は、なんというかとても似合っていなくて、とても良い。

 おそらく〈親バカ〉と揶揄(やゆ)されるくらいには、わたしの目から見ても浮き足立っているように見える。最近は先生が注文した赤ちゃん用グッズが毎日どかどか届くのだ。だから、わたしも日々の置き配には慣れきっていた。重い荷物は持たないように厳命されているので、軽いものだけを選んで家に運び入れるが、その際、ひとつの段ボールの伝票が目に留まった。

「礼二さん、匿名の荷物が届いてるんですけど」

 宛名は〈村雨礼二様・ナマエ様〉となっているが、利き手じゃない方で書いたような下手くそな字だ。まるで筆跡を誤魔化すような。わたしはお腹を(かば)いつつ荷物から距離を取る。どこかにいるかもしれない村雨礼二オタクから届いた爆発物かもしれない。

 そんな突飛な被害妄想をしているわたしをよそに、伝票を見た先生は「ああ」と納得顔でダンボールを持ち上げた。

「これは、真経津だな」

「えっ、行方不明になったんじゃ」

 村雨先生の数少ない友人のひとり──真経津晨くんが行方不明になったと聞いたのは、妊娠が発覚してしばらくのことだった。まるで近所で引っ越したとか、転職したとか、そんな軽い感じで「二年前から行方不明だ」と伝えられた。ここしばらくお友だちと遊んでいないようだったのは、真経津くんがいなかったからなのだろうか。

「どこから聞きつけたか知らんが、息災のようだ」

 数年行方知らずだった友人から連絡があったのに、なんてあっさりしてるんだこのひとは。

「出産祝いですか? 内祝いのリストに追加しないとですね」

「不要だ。どうせ住所もダミーだ」

「真経津さんてスパイかなんかなんです!?」

「とにかく。仕分けは私がやる。あなたは安静にしていろ」

「ちゃんと名前と内容控えておいてくださいよ。獅子神さんたちにもいっぱいお祝いもらったから、お返しだけでも大変ですね」

「……雑菌まみれの俗物たちが理由をつけて訪ねてきても追い返せ。わかっているな。免疫のない新生児と体力の落ちたあなたは、鍵のかかっていない空き家同然なのだから」

「はいはい。でも、その内ちゃんと顔見せしましょうね」

 そんなやりとりをしつつ、荷物の仕分けを見ていると──やっぱりまた服を買い足してる。村雨礼二の子どもにいろんな服を着せたい気持ちはわたしが一番よくわかっていると自負しているからこそ、一言言ってやりたくなる。

「洋服を使い捨てだと思ってません?」

「思っていない。きちんと年齢別に買っている。成長具合にもよるが、これは六歳児程度だな。母子おそろいで着用できるものだ」

 なんて可愛いものを買うんだ、村雨礼二。わたしを上目遣いで見上げながら、「これを着たあなたが見たいのだが?」という視線を向けてくる。くやしい。許しちゃう。

「パパの分はないんですか?」

「残念ながらなかった。パパはさみしい」

 ふっ、と礼二さんが吐息を漏らすように笑った。昔のわたしに、村雨礼二の一人称がパパになる日が来るぞと言って、信じてもらえるだろうか。自分で言っておきながら可笑しそうに笑い、「悪くない響きだ」と噛み締めるように零す姿がひどく印象的で面映い。あの日、三年遅れの新婚旅行で「私は善き父親になれそうか?」と問われた質問に、いまも自信を持って(うなず)くことができる。

─4─

 ──新婚旅行一ヶ月前。

「礼くん。あなたは言葉数を増やしなさい。そうね、ナマエさんとはいまの三倍喋るといいわ」

「私はすでに、十分な会話を重ねていますが」

「産前産後の恨みは一生よ。蝶よ花よと大事になさい。たんぽぽの綿毛のように優しく接しなさい。あなたは利口なのが長所ですが、利口すぎるところが欠点です。これから子づくりをしたいのなら、小手先も口八丁もぜんぶ使うの。いまのあなたなら、(かず)くんのロールプレイングと思えばできるでしょう」

「兄貴は小手先や口八丁は使わない──が、参考にします。大叔母さま」

「おばあちゃん」

「大叔母さま」

「ばーば」

「……おばあさま、私の妻をよろしくお願いします」

「ええ。任せなさい。とびきり良い個室を用意しておくわ」

 こうして、激甘すぎる愛妻家が生まれた。真っ平な腹に天気の話題を振る村雨礼二は、先人のアドバイスを受け素直に行動した結果だった。

 そういった経緯を妻が知るのは、もっとずっと後のはなしである。