誘う
長風呂を済ませて温まった肌を、廊下の冷えた空気が無情に撫でる。ぶるりと身震いをしてから寝室へ向かう。末端冷え性の村雨先生は、人間湯たんぽのわたしをベッドで待っていることだろう。もとい、待たずあるいは待ちくたびれて就寝していたとしたら、きょうこそゆっくり寝かせてあげよう。
そんなことを考えながら、足音が立たないように摺り足で歩く。リビングに入ったとき、とっくに寝室へ行ったはずの村雨先生がいた。ソファに悠然と腰掛ける姿は古の賢者か、えらい王さまのようでもある。読書灯代わりにしたフロアランプの光が、先生の白い肌に濃い陰影を落としている。まるで絵画のような美しさに数秒、見惚れていた。村雨礼二、ビジュアルが強すぎる。
その本は、遠目からでも分厚さが見て取れる。きっと仕事関連の専門書なのだろう。なんて勉強熱心なんだ。素敵。先生は野生の獣よりもずっと敏感なので、近づきすぎると邪魔をしてしまう。そーっとリビングを壁沿いに渡って、先へ寝室で待っていようか。でも、もうしばらく村雨先生に見惚れていたい。わたしは目に焼き付けるように、じっと立ち止まって眺めていた。
「……いつまでそうしている」
本から顔を上げることなくそう尋ねられたので、開き直って「見惚れてました」と答えた。先生は呆れたような顔でわたしを一瞥した。
「まだ寝ないんですか?」
「……湯冷めした」
あら、と合いの手を入れつつ、考える。追い焚きして入浴し直してもらおうかな? 湯たんぽ用意しようかな? 温かい飲みものが良いかな。
「もう歯磨いちゃいました? カフェインレスコーヒーもありますけど、白湯が良いですかね」
「いや。もう寝る」
選択肢を間違えたようだ。返す声は素っ気なかった。
けれど、先生はそう言ったものの本を閉じたまま動かない。何か待っているように。
なんだろう。わたしはいま、何を見落としているんだろう?
まるで「考えればわかるだろう、なぜ気づかない」と言わんばかりの視線を見つめ返しつつ、わたしはふさわしい答えを探していた。
ゆっくりとソファに近づいた。すぐそばに立っても微動だにしないので、わたしは先生の手を取る。すらりと細長くて、白くて、でも男性らしい節張った指。お風呂上がりのわたしの手は無論ほかほかだけれど、先生の手はそれを加味しても異様なほどに冷たかった。
「わ、ほんとに冷たい」
振り払われないのをいいことに、両手を取って温める。これはやはり入浴し直した方がいいんじゃないだろうか。そう申し出ようと口を開いた瞬間に、「きょうは冷える」と先生が言う。
まただ。またわたしは、何かを間違えている気がする。村雨先生はゆっくりと述べる。解説するように。言い聞かせるように。外国語の先生ができの悪い生徒に教えるよう、文節で区切りながら。
「あなたの風呂が長いから」
「湯冷めした」
「きょうは冷え込むと」
「ニュースでも言っていた」
「……まだ分からんのか」
「誘っているのだ、あなたを」
思わず緩んだ手を、先生が離してくれない。
「あなたはさぞ温かいだろうな」
「それは、まあ」
湯船に浸かっていたときよりもずっと顔が熱い。
「暢気に長風呂しててすみません……」
「まったくだ。おかげで同じ本を二回読み終えてしまった」
先生はため息を吐く。
その頬を両手で挟むと、やはりひんやりとした。
わかりづらいお誘いに、わかりやすい返事を返す。長めのキスはわたしたちの体温を少し上げた。