金木犀で彩って

──妻の髪にゴミがついている。

 村雨が日勤の仕事を終えて帰宅すると、オレンジがかった黄色の花がひとつ、妻のこめかみの上あたりについていた。丸っこくて小ぶりで、甘い香り。金木犀だ。

 本人は気づきもせず、逆に村雨のジャケットにブラシをかけるのだと手を伸ばした。
 ただいまのキスをする間も、視界には入っていたのだが取り損ねた。

 きょう、金木犀の下を歩いたのだろうか。きちんと外を出歩いているようで安心だ。村雨礼二は妻を家に押し込めるような夫ではない。日中の散歩はビタミンDやセロトニンの生成を促進し、健康に良い。

 まあ、あと一時間もすれば風呂に入るのだから、取ってやる必要もないかもしれない。気になってしまうのは村雨側の問題だ。

 ──だが。つい、その顔をじっと見つめてしまう。視線の意味に彼女は気づくだろうか。きっと気づかないだろう。

 食後のハーブティーをれて差し出される際も、気づけとばかりに視線を送った。穴が開くほど見つめてくる夫の視線に妻はたじろぎ、きょろきょろとあたりを見渡す。あ、と思い出したように声をあげ、「さっき言ってたチョコレートお出ししますね!」と早合点してキッチンへ引っ込んで行った。

 この妻は、村雨のことを余程の食いしん坊だと思っている。食事中に兄の一希が海外出張から帰ってきた話をしていたので、「土産のマカダミアナッツチョコレートを早く出せ」という命令と受け取ったようだった。自分で気づくように彼女のこめかみを凝視してやったのに、彼女の鈍さには敵わないようだった。

 村雨はソファの左側を叩いて妻を呼んだ。彼女は菓子箱を手にしたまま座り、チョコレートを一粒村雨の口に運ぶ。そのまま舌の上で転がすと、外国らしい甘すぎる風味が口内に広がった。甘いものは苦手だと伝えればいいのに、笑顔で受け取るものだから、こうして村雨が消費することになるのだ。

「きょうは兄貴の家以外に、どこかへ出かけたか」
「ごはんの買出しに行ったくらいですかね。その前にちょっと公園に寄ったんですけど、──あ、駅の北の方にある、そうそう。金木犀が咲いてて。もう秋ですねぇ……っていうか、やっと秋って感じなんですけど。秋ってどれだけ遅く来ても〝もう秋なんだ〟って感じしません?」

 妻は楽しそうに話しながらハーブティーに口をつけた。髪が揺れて、やはりゴミが落ちないか気になる。

「先生は春夏秋冬だとどれが──」

 妻がカップを置いたタイミングで、村雨は手を伸ばした。やはり取っておいてやろう、という優しさからだ。妻は長い睫毛を伏せて、村雨の手を受け入れるように顔を差し出した。

 いわゆるキス待ち顔だ。
 村雨はその単語を知らないが、妻が口づけを期待して目を閉じているのは火を見るよりも明らかだった。早とちりめ。村雨は小さく笑った。

 目を閉じてから二秒目で妻は瞼を開けた。「あれ?」という顔で村雨を見つめ返す。そして分かりやすくねる。意地悪しないでください、とその表情が明確に語っている。うるさいくらいに訴えかけてくる。

 ──意地悪などしていない。
 ──誤解をしたのはあなたの方だろうに。

 この妻の短所は、早とちりしやすく、誤解しやすく、思い込みが激しいところだ。短所であるからといって、村雨は妻のこの性格が嫌いではなかった。表情筋をこれでもかと動かして百面相をする彼女も、自分の勝手な憶測で落ち込む彼女も同様に可愛いので。

「ちゅーじゃなかった……」
「髪にゴミがついているのがずっと気になってしょうがなかった」
「えぇ!? 早く言ってくださいよ」
「動くな」

 村雨の命令に、妻はいつも忠実だ。再び目を閉じ、やっと髪についたゴミを指で摘んだ。やはり金木犀だ。
 ついでに、触れるだけのキスをする。
 驚いた妻が目を開け、村雨を見る。その顔が愉快──ちがう、可愛かった。

「ちゅーじゃないって言った……」
「言ってはいない」

 視界を邪魔するゴミは払えた。
 これでようやく、彼女に集中できる。村雨はふたたび、口うるさ妻の唇をおおった。