妻はお姫さま抱っこに憧れるか

「〝お姫さま抱っこ〟とやらに、憧れたことはあるか?」

 なんてことない休日の昼下がり、村雨が突然そんなことを問うたのは、先般のできごとが原因だった。友人の恋人が「誕生日プレゼントはお姫さま抱っこがいい」となどと口走っていたからだ。

 まっとうな社会人として、無論表情にも口にも出すことはなかったが、その発言に抱いた感想は「いますぐ言え。それで解決する」だった。獅子神はその程度のおねだりを嫌がる人間ではない。むしろ喜ぶ方だろう。しかし、子どもっぽくないかと心配する彼女の意見も分からないではなかった。同年代の同性という括りはあまりに大雑把すぎるかもしれないが、思いやりを学んだ村雨は妻が望むなら、やってやらないこともないと考えていた──そして、その結果が冒頭の質問だった。

 問われた妻の方はと言えば、いきなり何を聞いてくるのかとまたたきを繰り返したあと、一拍おいて「ああ!」と声を上げた。

 嫌な予感がした。
 そして、村雨の予感というのは、その良し悪しに関わらずよく当たるものだった。

「まっかせてください! わたし、これでも演劇部だったので! お姫さま抱っこなんてやる方もやられる方も大得意ですよ!」
 彼女は上腕を曲げながら答えた。

「そんな細腕で私を抱き上げる気か?」
「先生って体重六十キロもないでしょ? 五十五キロの子までは抱っこしたことありますので!!!」

 うるさい。声が大きい。余計な情報だ。
 思考回路をどう繋げたのか「村雨の役に立てる」と思ったようで、待ち受けるように両手を広げる。やる気に満ちたその瞳は、村雨がその腕に飛び込むまで下ろされそうにない。

「念のため尋ねるが。あなたを抱き上げた人間に男性は含まれるか?」
「え、そりゃそうですよ。わたし、結構タッパありますし」

 ──腹立たしい。あっけらかんと言う彼女が。

「あ、でもでも、成人男性を抱っこしたことはないなぁ! せ、先生が初めてだなぁ!」

 自分の失言に気づいたらしく、わざとらしい声を上げる。白々しいが、村雨の機嫌は幾分か上方修正された。

 ため息を吐き、改めて妻を見やる。
 期待に満ちた瞳。嬉しそうに上がった口角。失言を自覚して少しだけ緊張した指先。
 当初の予定とはまるで逆だが──善き夫として、妻の望みに付き合ってやることにした。

「抱っこされる方にもコツがいるんですよ。わたしの首に手を回して、なるべく体重を内側に向けるように──そうそう、上手です!」

 村雨をソファに座らせた状態で、彼女はデモンストレーションを行う。その手慣れた説明も不愉快だった。こうやって、何度も誰かを抱き上げてきたのだろうと分かったことが。彼女に身体を預け、彼女の豊満な胸の柔らかさを知ったものが大勢いることが。

「じゃあ抱き上げますね。怖かったらすぐ下ろしますので、言ってくださいね」

 バンジージャンプの事前同意くらいにしつこく念押してから、妻は「よっ」と掛け声をして村雨を持ち上げる。軽々と──とはいかないようだが、なかなかに安定感がある。ある種、ハンモックに寝転んでいるような心地よさに村雨は驚いた。このように抱き上げられるのは子ども時代以来──いや、大学時代も患者役で何度か持ち上げられたことはあるが、このような心地よさがあったはずはなかった。

「どうですか? 怖くないです?」
「ああ」
「ふぅ。ふふ、やっぱ腕力落ちてるな〜。下ろしますね」

 そう弱音を吐きつつも、妻は難なく村雨をソファに降ろす。また筋肉を誇張するように腕を曲げ、「どうでした、お姫さま抱っこ」と感想を求めた。

「悪くない」
「やったー! また、いつでもしますからね」
 村雨の願いを叶えられたことが相当嬉しいのだろう。妻は上機嫌ではしゃいでいた。

「では交代だ。座れ」
「え」
「今度は私が抱き上げる」
「やだ!!」

 妻は食い気味に大声で答える。まさか断られるとは思わず、村雨は一瞬目を見開いた。そしてすぐに不機嫌を表情の最前面に押し出し、鋭い目つきでにらみ返す。

「なぜだ」
「む、無理無理無理無理。絶対に無理ですから。脱臼しちゃいますよ!?」
「医者を甘く見るな」
「腕は大事な仕事道具でしょ!?」
「あなたの動きを見てコツは掴んだ。あとは実戦だけだ」
「だ〰︎〰︎〰︎〰︎め!! それだけは許可できません!!」
「あなたの許可など求めていない」
「そんな細腕で何ができるって言うんですかぁ!」
「人の命を救える」
「立派だぁ! そんな立派な腕はお仕事にだけ使いましょうね」
「また、あなたを押し倒して絶頂させることも可能だ」
「それはいま関係ないんで!」

 そうした押し問答が続き、やがて妻は罪を懺悔するように語り出した。

「あのォ……、マジな話、わたし、たぶん、先生より重い……と……思いましてぇ……」
「いまは六十二──プラスマイナス一と言ったところか」

 ぎくり、と彼女の筋肉が強張る。どうやら目算もくさんの通りらしい。

「なんでわかるのォ!? すごすぎません!? ──あっ、いや、あの、女性は体質的に太りやすくてですね、わたし身長一七〇ありますし、あの、決してデ──肥満というわけではなくて! そこそこ筋肉はある方ですしぃ! き、筋肉は脂肪より重いし!」
「健康体重を私に説こうと?」

「う。ほら、男のひとって女の子はみんな四十キロそこそこだと思ってそうでしょ……」
「思うか。私は医者だぞ」

「ち、ちなみに先生のお体重は……?」

 敬語がぐちゃぐちゃになって体重に「お」をつけはじめている。マヌケめ、と思いながら正直に申告する。この程度、嘘を吐くほどのことではないからだ。

「院内の健康診断では五十九.三キログラムだった。身長は一七六.二センチメートル」
「ほらぁーーーー!!」
「何が『ほら』だ」
「よしわかった、わかりましたよ」

 いや、理解していない。
 妻は獰猛な小型肉食恐竜を制すように手を広げ、村雨を落ち着かせようとする。落ち着いていないのは妻の方だというのにだ。仕方なく村雨は先をうながした。どうせくだらない提案に違いないという予感は、やはり大当たりだった。

「わたしが先生より軽くなったら挑戦していいですから。ね? わたしもダイエットがんばりますから」
「ダイエットなどする必要はない」

「だってぇー……先生より重いとか、女としてのプライドが許さないって言うかぁ……」
「自分の口で言ったことを忘れたのか。あなたの体型は適切だ。くだらん矜持のために身体を消耗させるな」

「でも、自分より重い奥さんとか、嫌じゃないですか?」
「そう言われたのか?」

 ぐ、と妻は言葉を飲んだ。失言をしたが最後、ネチネチと過去の男について根掘り葉掘り聞かれるであろうことを悟ったのだろう。

「もう一度言う。交代だ。ソファに座れ」
「やだやだやだーッ!! 理屈とかじゃなくて心がイヤなのッ!!」

 妻の猛反対に遭い、その日はしぶしぶ引き下がらなければいけなかった。お姫さま抱っこは抱き上げられる側の協力が必要、という彼女の弁に村雨も賛成だったからだ。甥や姪を抱き上げる際、イヤイヤと暴れられ落としそうになったことが何度あったか。いわんや自分と同体格の妻なのだから、安全に抱き上げなければならない。

 

 ──〝お姫さま抱っこ〟とやらに、憧れたことはあるか?
 その問いに対する妻の回答は未だないに等しい。何度も経験して慣れているのならば、その行為自体を特別視はしていないようにも思える。
 だが、答えを得ずとも彼女なら当然喜ぶだろうという確信が村雨にはあった。

 その日の深夜、就寝中の妻を持ち上げようとして村雨は腰を痛めそうになった。
 やはり抱かれる側の協力が必要なようだ。

 

 だから。なので。そういうわけで。
 後日、村雨はヨガマットを別邸から持ち込んだ。

 妻も自分専用のヨガマットを持っているくせに、初めて見た異国の品を見るような目で「なんですかそれ?」と問うた。

「あなたを安心させるために、こちらでもトレーニングしようと思ってな」
「トレーニングぅ? 先生が?」

 驚嘆に混じって鼻で笑われたのを、聞き逃す村雨ではなかった。ガッと下顎を掴まれ、妻は続きの言葉を取り上げられる。

 ぷうと唇を尖らせたまま、彼女は疑いの眼差しを村雨に向けた。村雨がトレーニングをするなんて夢にも思っていない顔だ。

「私とて、健康のために運動くらいはする。以前からヨガも行っている」

 実際には三日坊主で、マットも箪笥たんすの肥やしになっていたのだが。身体を鍛えているところ見せ、安心感さえ与えれば彼女は頷くだろうと考えたのだ。彼女の協力さえあれば、お姫さま抱っこくらい村雨にもできるのだ。
 村雨は堂々と目の前でヨガのポーズをやって見せた。

 結果、妻は「ますます不安になりました」と言ってお姫さま抱っこを断固拒否したのだった。