土曜日
タクシーから降りると、冷え込んだ夜の空気が肌を冷やした。もうアウターが必要な季節が巡ってきた。
村雨がそっとドアを押し開けて帰宅したときには、妻は風呂を済ませていた。甥姪の学習機材をつくるためと言って起きていたが、午前二時までかかる作業とも思えない。夫の帰りを健気に待っていたことに感謝するべきとも思わない。そんなことをするくらいならば、先に寝ていて構わないのだ。不規則な生活リズムを強いられる外科医に付き合う義務はないのだから。
「夕飯温めてますよ。わたしも夜食にちょっと食べようかな」
「先般、どこかの口がダイエットに励むと言っていたはずだが」
「どこかの先生は『そんなもの必要ない』と言ってたはずなんですがー?」
「極めて客観的な意見に過ぎない。あなたの二枚舌に呆れているだけだ」
妻はべー、と舌を出した。色も状態も問題ない。健康的な舌だ。好ましい。
手洗いうがいを済ませ、おかえりのキスをする。冷え切った村雨の指と唇を、妻の体温が温めてくれた。
テーブルにつくと、とりとめのない会話をしつつ夕食という名の夜食を摂る。久しぶりの妻の料理は身に染みる美味さだった。食べながら喋るのは下品であるから、村雨はたまに相槌や爆笑ジョーク(当事者比)を交えるだけだ。
食事も終わりかけになると、妻が追い焚きと浴室暖房を入れて入浴の準備を整えはじめる。
最近寒いからと、おろしたてのパジャマを見せられた。いま妻が身につけているのと同じ素材、同じ柄、色違いのペアルック。村雨はまじまじと見つめた。
「き、着心地は折り紙付きですから! わたしの!」と熱弁されずとも、妻の気遣いを無碍にするような夫ではない。いくらそのジェラートピケが可愛さ全振りのファンシー柄だとしても。ここはふたりの家だ。囃し立てるような悪友もいないのだ。
入浴剤が足された湯に浸かり、八連勤の疲れを癒す。マヌケな緊急外来がなければ、常識的な夕飯時に帰宅でき、もっとゆっくり休めたのだ。
仕事のフラストレーションは趣味で解消するしかない。幸い、明日は土曜日だ。オークションで新しい患者を注文しておこう。やっていることは手術に代わりはないのだが、仕事と趣味は異なるのだ。村雨のなかには明確な線引きができていた。
おろしたての(とはいえ、一度は洗濯されて我が家の香りを纏った)パジャマに着替えると、暑いくらいに暖かかった。妻が用意していた同じくもこもこの靴下は一旦履かずにリビングへ行く。
ドライヤーで髪を乾かされ、耳掃除をされ、乾燥する時期だからと手足と顔に化粧水やクリームを塗りたくられる。そのままマッサージを受けると、さすがの村雨礼二も血色良く健康的な面持ちに仕上がった。
もちもちの頬を両手で挟まれる。てっきり熱烈なキスを贈られると思ったが、そうではなかった。美しいふっくらとした唇から、ふひっ、と気味の悪い笑い声が漏れた。
「湯上がりの先生はかわいいですね」
「そうか」
──ねむい。
「顔色がいいからかなぁ。クマが薄くなると幼く見えますね♡」
「そうか」
──ねむ、い。
もうこのまま、妻もろともソファに沈んで熟睡したい。身体はとっくに就寝モードに切り替わっていた。けれどスイッチを完全にオフにしないのには、もちろん、八日ぶりの妻をもっと堪能したいという理由があった。
ぐずる子どものように、村雨は膝枕の体勢から妻の下腹部に顔を埋めた。良い匂いだ。落ち着く。
満腹と清潔。温かさと柔らかさ。心地よい匂いと静寂。ああ、なんて充足した時間だろうか。
「せんせ、寝るならベッドに行きましょ」
妻の手が村雨の頬を挟んで上を向かせた。ボヤけた妻の顔がマヌケに緩んでいる。
「──指が冷たい」
「あ、すみません」
離れかけた指先を掴んで、自分の首にあてた。体温を分かるように。
「きょうは帰ると言ったが、緊急オペが入った際は待たなくていい」
「たまたまやることが残ってたんですって」
嘘だ。妻がよく吐く、村雨を甘やかす嘘。
重い身体を無理矢理起こされる。不服だが、裸眼のまま妻に手を引かれて寝室へ向かう。寝落ちかけていると知ってか「あんよが上手ですね〜」と揶揄ってくる妻に、いまさら噛みつくのも億劫だ。
布団乾燥機で温められていた寝具は、天国のように心地よい。きっと、久しぶりに帰る夫のために考えつくすべての労りをしたのだろう。
眼鏡と靴下を取りに行くと言う妻を引き留め、隣に寝るよう命じた。
眼鏡はいらない。サイドテーブルに予備があるからだ。
靴下もいらない。夫を待って冷え切った妻の爪先を温めるのに邪魔だ。
妻も妻とて、おそろいのモコモコ靴下を履いていた。村雨は親指を器用に引っ掛け、布団の下で脱がした。逃げようとするのを足で絡めとる。
「冷たいって言ったのに」
「だから温めてやると言っている」
妻の呆れた声に、ちゃんと返事をし切れたのか不明のまま、村雨はすーっと沈むように深い眠りについた。
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翌朝、目が覚めると横に妻はいなかった。
リビングの方から朝食を支度する気配がする。
足元には、いつの間にか湯たんぽが入れられていた。妻は村雨のことを極度の寒がりだと思っているらしい。
上体を起こして腕を伸ばすと、バキボキと音が鳴る。身体は普段通りだ。脳はすっかりリフレッシュされている。
サイドテーブルに置かれた、村雨の眼鏡とスマホ、靴下は早起きの妻が用意したものだ。重要な連絡が入っていないことを確認して、靴下を履いた。分厚くてモコモコだ。慣れない履き心地だが、悪くはない。
リビングへ続くドアを開ける。焼けたベーコンの香りが鼻腔をくすぐった。カウンターの奥から、花が綻ぶように妻が笑う。
「おはようございます」
「──ああ、おはよう」
「目玉焼き、二個でいいです?」
「ああ。ひとつは半熟で」
「はーい!」
チェストに置かれた電波時計に目をやる。日付と現在時刻、妻が整えた室温と湿度が表示されている。土曜日。オークション開催日だ。患者を競り落とすならちょうど良いタイミングだが──村雨は、来週で良いかと考えを改めた。