#01 獅子神敬一は理解らせたい
─1─
透明人間は、いると思う。
実際に透けて見えないわけじゃなくて、街中にいる顔も名前も知らないモブたちのことだ。満員電車で潰れているサラリーマンは、存在しているけれど認識はしていない。いてもいなくても代わりのやつがいても変わらない。存在がない存在、それが透明人間。あいつも、出会った当初はただの透明人間だった。
天堂が「教会でクリスマス会をするから手伝え」と言うんで、最初は無視を決め込もうとしたんだ。やってられるか、いつまでもオレをパシリにすんじゃねぇと思ったのも束の間。地域のこども会も参加すると聞いては「オレも行く」と言わざるを得なかった。いや、得ないだろ? 真経津や叶は乗り気っぽかったし、なんだかんだで村雨も来るに違いない。教育に悪いなんてもんじゃねえ面子だ。オレが見張っておかねえと、ガキらに何らかの悪影響を与えかねない。
そんな悪魔の巣窟に、まさか狂人が刃物を持ってやって来るとは誰が予想できただろう。哀れだ。巻き込まれた一般のガキたちはもちろんのこと、その狂人こそ哀れだ。よりにもよって、あの神父がいる教会を狙うなよ。
奴は近所でも有名な騒音トラブルのクレーマーだとか、子どもの声は宇宙人の怪電波を中継しているとか主張していたとか、後で天堂と叶が内々に処理したとか、聞きたくもねえ事情は後から後から出てきたわけだが。
つまり、事件が起きた。
ボランティアで来ていた近隣住人のひとりが刺された──オレの目の前でだ。
不審な男が敷地に入って来たのに気づいてガキたちを教会内に誘導しようとしたとき、お調子者がひとり、好奇心を刺激されたのか自ら男に近づこうとした。
「待てコラ!」
さっきまで鬼ごっこをしていたオレが大声を上げて追いかけたのも良くなかった。そいつはキャッキャと笑いながら男の方へ逃げようとして、慌てて抱き上げたときには、もう錆びた三徳包丁がオレに向かって突き出されていた。
やべぇ、と思った瞬間、男とオレの隙間に身体をねじ込むように、ひとつの影が割って入って来た。そして刺された。
駆けつけた叶が自撮り棒で男の目を突き、天堂が電飾のケーブルで縛り上げる。真経津はオレの腕からガキを取り上げて教会内に連れて行った。村雨は、オレの足元でうずくまる、腹に包丁の刺さった女に応急処置をはじめていた。
「あなたは救急車を呼べ。このまま処置をする。上着を貸してやれ。通報はそのあとでいい」
村雨に指示をされるまで、オレだけが、何もできずに呆然と立ちすくんでいた。
傷口に当たらないようにコートを掛けてやる際、脂汗を浮かべた女が息苦しそうで、思わず彼女のマスクを外した。そこには古傷らしい傷痕が口の端から頬近くまで伸びていた。なぜ彼女が一部のガキに「口裂け女」と揶揄われていたのか、脳内の端っこで理解する。
いかにも人畜無害な、素朴な顔つきにとても似合わない、深い裂傷。それが先日賭場で絶命を見届けた刑事を思い起こさせ、オレは怯んだ。あの日、明確に感じた〝死〟がまた目の前に現れた。情けないことに、オレは戸惑って硬直していた。重傷を負っている側の彼女が、まるで安心させるかのようにオレを見上げて微笑んだ。
「けが、ありません、か──」
風にかき消されそうなか細い声がまっすぐと脳に届く。さっきまで透明人間だったそいつが、ミョウジナマエとして色彩を持った瞬間だった。
─2─
「──ということで、あなたの婚約者(仮)を務める獅子神君だ。なんでも言うことを聞くから、なんでも申しつけるように」
「……獅子神敬一だ」
「はあ?」
とある刺傷事件の被害者となってしまったわたしの病室へ、天堂神父がお見舞いに来たのは入院して三日目のことだった。なぜかあの日手伝いに来ていた内のひとり、金髪ムキムキ睫毛バサバサのイケメンさん──獅子神さんを引き連れていた。外国の方かと思いきや、名前を聞く限り日本人のようだ。個室の外から入室の許可を求めてきたので、わたしはいつも通りマスクをつけることができた。
「生花は禁止されていると聞いて、こちらを持参した」
天堂神父がポケットから出したのは、画用紙いっぱいにクレヨンで描かれた花束だった。隅には、見知った子どもたちの名前が書いてある。
「ありがとうござ、います」
身を起こしてお礼を伝えようとしたら傷口が痛んで、天堂神父に「そのままで」と穏やかに制された。さすが聖職者というべきか、一挙手一投足がゆっくりと儀式めいていて、後光が差して見える。
「大勢で押しかけるのも気苦労をかけると思ったので、本日は我々のみだ」
来客は、入院翌日に町内会長の奥さんが着替えや身の回りの品を持ち寄ってくれた以来だ。特に、神父さまには確認したいことがたくさんあった。事情聴取の際、わたし以外に怪我人はいないと聞いていたけれど、改めて被害について尋ねた。子どもたちへの影響もしりたかったし。
どうやら本当にわたし以外の怪我人はいなかったらしい。子どもたちも、手伝いに来てくれた大人たちも、教会の備品も無事とのことで、ホッとため息をついた。
「あの、クリスマス会は中止になっちゃいましたよね?」
「残念ながら」
「あの、子どもたちと──神父さまが良ければ、改めて何かパーティーを開催できませんか?」
「神は構わない。クリスマスもまた、二十五日に限らない」
神さまもそう言う事情ならお赦しくださるでしょう、ということかな? 天堂神父は独特の言語回路を持っいてらっしゃるから、たまに通訳がほしくなる。
とはいえ、心配事がひとつ片付きそうで安堵した。
「今回のことで、もしかしたら教会や大人が怖くなった子たちもいるかもしれません。でも、嫌な思い出で終わってほしくなくて」
「ああ。信者獲得のため、より盛大に行おう」
「お願いします。手伝ってくださった皆さんにも、よろしくお伝えください。ご心配をおかけしました」
わたしの身体にできる最大限のお辞儀をした。獅子神さんにも視線を向けて会釈したけれど、どうにも神妙な顔つきで頷くだけだった。ここに来て一切発言がない。当日もあんまり話す機会もなかったし、きょうも天堂神父の運転手として付き添ってきただけだろうか。
「仔羊よ。何か神頼みしたいことは?」
「ええっと、困っていることはないか、ってことですかね? おかげさまで軽傷で済みましたし、年明けには退院できるらしいので、いまのところは特に」
迅速かつ的確な応急処置と縫合のおかげで、あと二週間ほどで自宅療養に切り替えられるとのことだった。年末年始を病院で過ごすことになるけれど、どうせ今年もひとり寂しく過ごす予定だったので何ともない。まあ、さすがにまだ傷口がじゅくじゅくと痛むし、転倒したときに打ち付けた額もずきずきする。そして何より、入院費で懐が痛い。警察の事情聴取を受けた際、どうやら犯人は精神的に弱っていたようで、慰謝料を請求しても支払い能力があるかどうか、と言われた。目下の悩みはお金だ。けれど、それを二人に言ってもしょうがない。
「ふむ。では、我が聖域を守ってくれた信者に、神からの贈りものをひとつ。先日、見合いを断りたいと他の信者に漏らしていたな。覿面の解決策がいる。──ということで、あなたの婚約者(仮)を務める獅子神君だ。なんでも言うことを聞くから、なんでも申しつけるように」
「……獅子神敬一だ」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げたせいで、またお腹が痛んだ。
確かに、クリスマス会の打ち合わせの休憩時間にそんな話をした。田舎の本家からお見合いの打診がしつこいと愚痴を吐き、「最近はレンタル彼氏ってやつがあるのヨォ」と教えてくれる町内会長の奥さんに「それはいいですね」と相槌も打った。けれど、あれは本当に世間話のようなもので、知り合いの知り合いレベルのひとに頭を下げて頼むようなことじゃないのだ。なにより凡人が服を着て歩いているようなわたしが、こんなイケメンを彼氏役として連れて行ったところで、偽物だと一瞬でばれること請け合いだ。
「あの、たいへん面白──ありがたいご提案なのですが、獅子神さんにそこまでしていただくのは……」
ちらりと獅子神さんの反応を窺う。金髪マッチョのイケメンは、どこかヤンキーっぽさがあって、ちょっとだけ怖い。「聞いてないぞ」とか天堂神父に怒り出さないかとひやひやした──けれど幸い、そんな気配はなかった。
「身を挺して守ってもらったことを大変感謝していたのでな、こうして神が導いたのだ」
「──あ、もしかして獅子神さん、ナオキくんを助けてくれた方ですか?」
記憶を掘り返すと、確かにそばに彼に似た大柄の男性がいた気がする。
「あの、お礼を言うのはこちらの方です。ナオキくんを助けに行ってくださって、ありがとうございました」
事件のショックか、刺された前後の記憶が曖昧であることを伝えつつそう言うと、獅子神さんはちょっと居心地悪そうな表情をした。
「いや──、オレは……」
ぱん、と天堂神父が柏手を打つ。
「神の意思に従いたまえ。神は悪いようにはしない。それに、彼なら歳もちょうどいい」
前半のよくわからない言葉は、後半の内容の驚きにかき消された。
「あの、失礼ですが獅子神さんておいくつですか?」
「二十六」
「……お、同い年だぁ……」
とても二十代と思えない見た目だったので、わたしは非常に驚いた。クリスマス会の買い出しに高級車に乗って行き来していたので、かなり年上だと思っていた。
「オレじゃ不足か?」
「あっ、いえ、不足とかそん──いっ」
思わず手を振って否定しようとして、また傷口が痛んだ。
「ではなくて、その、わたしが獅子神さんに釣り合えないかと……」
「要するに口煩い親や親戚連中を黙らせたいんだろ? オレくらい治安悪そうな方がいい」
それは確かにそう。というか、ガラが悪い自覚あったんだ。地域柄、粗暴な輩やマイルドヤンキーも多いので、見た目がいかついというのはそれだけでアドバンテージなのだ。
「幸い、オレは地元じゃねえ教会に寄付するくらいの金持ちだ。休みの都合もつけやすい。あんたに借りを返してすっきりさせてくれねえか」
借りを返すって言葉がどことなく不穏な響きを持っていたけれど、幸か不幸か、わたしはこれ以上反論する気力も体力もなかった。
ちょうど主治医の村雨先生が病室にやってきてふたりを追い出したので、この話は有耶無耶になった。
というか、すっかり流れたものだとわたしは思っていたのだ。
//////////その三日後のできごとだった。数日前まで街に溢れていたクリスマスの雰囲気はとっくに取り払われ、年末年始の広告やあしらいが窓の外に並ぶ。
身体を動かす許可が出され、一日数十分の歩行リハビリも開始した。正直言って、車椅子に乗ってリハビリ室へ到着するまででもひいひい言っている状況だ。そんなふうに自身の体力のなさを嘆いていたとき、獅子神さんがやってきた。いつからそこにいたのかは不明だけれど、リハビリ室から病室へ戻ろうと車椅子にありついたとき、あまりにも病院に不釣り合いな獅子神さんが出入口で待っているのに気がついたのだ。
こんな汗だくですっぴんの姿を──特に顔の傷を晒したまま──ちゃんとしたひとに見せるのはさすがに恥ずかしくて、首に掛けたタオルを口元に寄せて必死に隠した。
「忙しいとこ悪い。こっちにいるって聞いたもんで」
「い、いえっ。こ、こんな姿でお恥ずかしいです」
そばにいた看護師さんに「オレが押して行きます」と獅子神さんが断ったので、そのまま一緒に病室まで向かうことになってしまった。獅子神さんが敬語を使うと、なんかこう──びっくりする。
「……あの、本日はどのようなご用件でしょうか……」
恐る恐る尋ねるわたしに、彼はこともなげに答えた。
「まあ、簡単に言えばパシリだな」
「えぇ!?」
このムキムキイケメンをパシれるひとなんて、この世にいるんだろうか。内容を詳しく聞いていいものか悩んでいるうちに病室に着いてしまい、病室のベッドに上がる手助けもさせてしまった。
「で、これがオレをパシった奴らからの招待状だ」
わたしに渡されたのは、画用紙を二つ折りにしてリボンが飾られた「しょうたい状」だった。この画用紙とクレヨンの感じ、病室の壁に貼らせてもらった、いつかの花束と同じ感じだ。
中には「クリスマス会(りベンジ)」と書かれており、わたしが退院する日付が開催日になっていた。まわりには教会や神父さまらしきイラストが描かれている。
「あんたの体調が問題なければ、当日病院から直接教会まで連れてってやる」
「わたしが参加して、いいんでしょうか」
「いいに決まってんだろ? あんたの提案だ」
「子どもたちが嫌なことを思い出さなきゃいいんですけど……」
わたしを見て、事件をフラッシュバックしないだろうか。楽しい会に水を差さないだろうか。それが心配だった。
「アレは、なんつうか、特撮の芝居の練習だった、ってことになってる。いや、大きい奴らはさすがに分かってるけどよ、そいつらだって元気なあんたを見て安心したいはずだ。来てくれた方がありがたい」
驚いた。
思っていた以上に親身で、温かみのある言葉だったからだ。わたしはこのとき、初めてじっくりと獅子神さんの顔を見た。ライオンみたいに怖かったのが、ゴールデンレトリバーみたいに優しく見えた。
「ありがとうございます。その、ぜひ参加させてください」
それから当日のことについても話した。入院中に数時間だけ外出するので、いろいろな書類に記入しなければならないとか、主治医の許可が必要とか、車椅子のレンタルについてとか。
「そういや、治療費とかはちゃんと請求できそうか? 拗れそうなら弁護士紹介できっけど」
痛いところを突かれて、わたしはウゥと喉を鳴らした。刑事さんたちに言われたことを正直に話すと、わたし以上に獅子神さんは怒っていた(というより、事情聴取時のわたしに怒るような体力がなかったのだ)。
「だ、大丈夫ですよ。最近の病院ってカード払いもオッケーなんですって。分割で支払えるのでなんとかなります。それに、下手に刺激して何かある方が、怖いですから」
しばらく黙った後、獅子神さんが口を開いた。
「オレ、金持ちなんだよ」
「は?」
急に怒ったと思ったら急にマウントをとられ、わたしは呆気にとられた。いや、これは韻を踏んだわけではなくて──なんて?
「天堂が言ってたと思うが、あんたが庇ってくれなきゃオレが危なかった」
「あ、あれは勢いというか、偶然のことですし……」
「もしオレが入院でもして、稼げない日が数日でもあれば、それだけで数千万の損害だ」
そのレベルのお金持ちさんなの?
ますますそんな方とお友だちの天堂神父が謎すぎる。よく知らないけど、手伝いにいた派手な男性はストリーマーという職業らしい。神父と配信者って、いったいどこで出会うんだろう?
「だから、あんたの治療費を払わせてくれ」
「えっ」
脳裏に大きく「詐欺」の文字が過った。詐欺だとしたら白々しすぎるし、冗談だったら性格が悪すぎる。本気だとしたら──いいひと過ぎない?
「そ、そこまでしていただく理由は……」
「理由はさっき言った。命の恩人に払うには、数百万じゃ安いくらいだろうが」
貧乏人にはどんな理由でも数百万は大金だ。あと、高額医療費制度を使うから手術代を含めてもたぶん三桁万円にはならない。
「命の恩人ってほどのことじゃあ、ないですよ。それなりに痛くて苦しかったですけど、結局軽傷でしたし、それに」
わたしはタオルを口元から外して、初めて自分から顔の傷を晒した。幼い頃からマスクを着け続けている理由。唇の端から頬に達するほどの裂傷。
「いまさら、傷がひとつ増えてもなんのそのです」
わたしは笑う。これで安心してくれればいいと思う。もう見られてしまっていると知っているからできることだけれど、やっぱり少し怖い。気持ち悪がられて、怖がられて、気まずそうに目を背けられるのが常だからだ。口裂け女とからかってくれる方がよっぽど心が軽くなる。
「オレの手」
獅子神さんが手の甲を上にして右手を差し出してきた。手のひらから貫通したような、痛々しい古傷。
「オレの手にも傷がある。お揃いだな」
おそろい。
その響きが、見た目に似合わず可愛いらしくて、わたしは本当に笑ってしまった。
//////////さて、クリスマス会(リベンジ)の当日。
看護師さんが持ってきてくれた外出届けに記入する際、付添人に獅子神さんの名前を借りることにした。というより、獅子神さんがほとんど代筆してくれた。注意事項や戻ってきた際の手続きについて改めて説明を聞いたあと、病院の正面入口まで獅子神さんに車椅子を押してもらう。
車を回してくるからと、わたしに上着をかけて駐車場に向かっていった。その手にはわたしの荷物を持って。
わたしは自他共に認める愚鈍だけれど、それにしたって獅子神さんの先回りと気遣いはレベルが違う。獅子神さんが貸してくれた上着も、なんだかとっても上等で、香水のいい匂いがして、間違っても床に落とさないようにとぎゅっと抱きしめた。
やがて目の前に黒い高級車が停止して、獅子神さんが降りてくる。……うん、カタギの人間に全然見えない。天堂神父の紹介でなければ、わたしだってもっと警戒していただろう。
「ちょっと身体に触れる、悪いな」
車椅子やベッドへの乗り降りをする際も、獅子神さんはこうやって逐一わたしに断ってくれる。なんなんだ、この外見を裏切る紳士さは。見た目と誠実さがまるで釣り合ってない。
てっきり、わたしは獅子神さんに支えられて車の後部座席へ座るのだと思っていた。
ところが獅子神さんはわたしを軽々とお姫様抱っこして助手席に座らせた。ドアをくぐるときに頭気をつけろよ、と言うのも忘れず。
──お姫さま抱っこ?
呆然としている間に、車は走り出していた。
どきどきがずっと治らない。
こんな風に女性扱いされたことなんてなかったからだ。冷えた両手で頬を抑え、必死に体温を下げようと努力するが、一向に落ち着く気配がない。
ちらりと運転中の獅子神さんを覗き見る。打ち解けてきても、まだ少し怖かったはずの彼が、こんなにもかっこよく感じる。なんてわたしは短絡的なのだろう。
車内は落ち着いた芳香剤の香りがしていて、それがまた獅子神さんにとても似合っていて、さらにドキドキする。サイドミラーに映ったわたしの顔は、マスクで下半分が隠れているのにもかかわらず真っ赤なのが丸わかりだった。
「──おい、聞いてるか?」
「えぁっ!?」
どうやらずっと話しかけられていたらしい。
「暖房切ったから、寒くなったら言ってくれ」
わたしの顔色を見てそうしてくれたのだろう。しかも獅子神さんの上着を肩にかけたままだった。気がついて脱ごうとして、シートベルトが邪魔なことに気がつく。あれ、わたしいつの間にシートベルト締めたんだっけ? そんな記憶も怪しいほどに、わたしはお姫様抱っこの衝撃に脳を揺さぶられ続けていたらしい。
「……天堂にも来てもらうんだったな」
「え?」
どうしてここで神父さまの話が出るのだろう、と首を傾げた。
「なんつうか、きょうのオレはただの使いっ走りだ。あんたの足。だからそんなに身構えるな……って言いてぇんだが、身構えるよなぁ、フツー」
周りが変人ばっかりで忘れてた、と獅子神さんは困ったようにぼやく。
というか、獅子神さん、常に誰かにパシられてない?
「教会に着くまであと二十分ってとこだ。アイスブレイクに世間話でもするか? 彼氏役のくせに、あんたのこと何も知らないし」
まだその話生きてたんですっけ!?
以前話を切り出されたときとは全く違う戸惑いが頭を占める。ほんとにいいの? こんなにかっこいいひとが彼氏役で? がんばったわたしへの、遅めのクリスマスプレゼントですか?
わたしは深呼吸して、なんとか平静を取り繕った。
「ミョウジナマエです。出身は九州の方なんですが、いまはこっちで児童向けの本とかエッセイを書いたりしています」
「作家先生だったのか」
「や、先生というほどのものでは……」
「本名で本出してるのか?」
「はい」
「わかった、あとで検索しておく」
「そ、そんな調べていただくほどのものではないです。バイトしてる時間の方が多いくらいですし」
有名作を出しているわけでもないし、雑誌寄稿のエッセイに関してはまだ単行本化もしていない、作家を名乗るのも烏滸がましいような人間だ。
「彼氏役なんだから、あんたの仕事を把握しておいたほうがいいだろ?」
「いや、あのひとたちは、わたしの仕事なんかに興味ないですし……そういえば、獅子神さんのお仕事って何を……?」
「あー、そうだな。投資家ってとこだな。金を動かして金を稼いでる。つったら、嫌味に聞こえるか。いくつかの会社の役員にもなってっから、後で名刺を渡す。そっちで紹介してもらったほうが、聞こえがいいだろ」
……うん、想像以上のお金持ちっぷりだ。ボロアパート一階の1Kでこぢんまりと暮らしているわたしの正反対に位置している。
「あの、わたしの実家は九州の田舎なんです。父も母も亡くなっていて、わたしは叔父夫婦に育てられたんですが、土地に縛られた古臭いで本家のじいさまたちに逆らえなくて。だから、その、たぶんびっくりしちゃうというか、嫌なことを言われるかもしれなくて」
「そうならないように、オレがついていくんだろ?」
「じゃなくて──獅子神さんにも失礼なことを言ってくるかもしれなくて、その、獅子神さんが傷つくことになる、かも……」
「オレが?」
獅子神さんは素っ頓狂な声をあげた。
その後の赤信号でサイドブレーキを下ろすと、ハンドルに顔を突っ伏して笑い出した。
「あんた、本当にお人好しだな」
いやいや、違うのだ。
獅子神さんがとってもいいひとだというのは、この数日で身に染みて分かった。きっと、育ちも良いのだろう。叔父夫婦はまだマシな部類だけれど、こんな素敵な獅子神さんに悪影響を与えかねない。
「面白ぇじゃねえか。最近流行ってんだろ、因習村ってやつ」
ひとの故郷を因習村扱いはさすがにどうかと思う。
わたしは教会に着くまでに「本当に、考え直した方がいいですよ?」という趣旨の科白を三度は言ったけれど、どれも獅子神さんの考えを変えるには至らなかった。
//////////「あ、来た来た! 遅いよー獅子神さーん!」
教会の外で出迎えてくれた若い子は、天堂神父の知人の真経津くんだったっけ。追って、わらわらと子ども会のメンバーが教会から出てきた。
子どもたちの保護者の姿も見えるのは、あんな事件があったからだろう。
階段は再び獅子神さんに抱き上げてもらって、真経津くんが運んでおいてくれていた車椅子に腰を下ろすと、ようやく人心地ついた。
「ナマエせんせー、大丈夫?」
地域集会で仲良くしてくれた子たちの何人かが心配そうに尋ねてくれて、その度に「元気だよー!」と拳を握って回復をアピールした。
「ほら、言ったろ! 口裂け女はバケモンだから死なねーんだ!」
そんな生意気なことを言う馴染みの子の頬を、車椅子のわたしはいつものように抓ってやることができない。「こら!」と叱り声を飛ばしたのと同時に、その子の頭に獅子神さんのゲンコツが落ちた。
「ってーな、けーいち!」
「さんをつけろ! あと謝れ!」
怒鳴られて棒読みの謝罪を口にした男の子は、なんだか獅子神さんに懐いているようだった。「大丈夫ですよ」とジェスチャーで示すと、獅子神さんは不服そうに見逃してくれた。
クリスマスの飾りにクリスマスの装い、クリスマスケーキにお菓子、プレゼント。ようやく、わたしたちのクリスマスを終えることができた。
天堂神父のお友だちまで三角帽子を被っていて、無理矢理被らされる獅子神さんも、全然似合っていない村雨先生も、別の面白さがあってずっと笑っていたように思う。
そして雰囲気に乗せられるまま、獅子神さんとのツーショット写真を撮ってもらった。「彼氏の写真送れって言われたらコレ送っとけ」と言いながら自撮りしてくれる獅子神さんがスムーズ過ぎて、陽キャと陰キャの違いをまざまざと見せつけられた。
一時間ほど会を楽しんだあと、わたしは再び病院に戻る。当然のように獅子神さんに付き添ってもらって。
素敵な彼氏でいいですねぇ、と看護師さんに言われた言葉を受け流せずに赤面してしまった。
<2>─3─年が明けてしばらくして、わたしは獅子神さんを伴って地元へ帰ることになった。飛行機と電車を乗り継ぎ、最寄り駅からはレンタカーで移動する。山道も運転しなければならないため、運転手はわたしだ。
わざわざ着いてきてくれることもありがたいのに、「マイルが貯まってるから」の一言でわたしの分までビジネスクラスを予約してくれた。まったく獅子神さんには頭が上がらない。だからこそ「帰省先での足は全てお任せください」とわたしは申し出た。
本家に着くとすでに宴会がはじまっていた。きょうは年明けの小正月を祝う名目で親戚が一堂に会する日だ。正月飾りを処分する火祭りを終えたら本家の大広間で宴会が催され、約十二時間は飲み食いが続く。飽きた子どもたちは勝手に外で遊んだりゲームをしたりするのが通例だったけれど、わたしは同世代からも遠巻きにされていたのでひとりで過ごすことが多かった。
大広間で一言挨拶をしてから仏壇に線香を上げようと思っていたところ、獅子神さんを見た親戚一同がどよめいた。その気持ち、よくわかる。純和風の室内に、ブランド服を着こなした金髪のイケメンは良い意味で悪目立ちだ。まるで初来日したハリウッド俳優がお忍びで地方にやってきたような。
けれど獅子神さんのすごいところは、そんな奇異な目をすぐに親しみの目に変えてくれるところだ。彼がそつなく自己紹介をして土産を渡す頃には、話題の中心はわたしを通り越して獅子神さんになっていた。にぎやかな人の輪から外れて眺めていると、獅子神さんは相手に合わせて話すのがとても上手いことに気が付く。粗暴なおじさんにはちょっと砕けた戯け方をしたり、頑固な爺さまには姿勢を正して傾聴する姿勢を見せたり、それでいて相手にばかり主導権を握らせない。
遠巻きに見ているわたしの心配をよそに、獅子神さんはちゃんとわたしの彼氏、かつ婚約者であると淀みなく宣言してくれた。爺さまの目がギロリと光ったので身構えたけれど──興味がないように「ああそうか」と言った。
ふと、(爺さまもおじさんたちも、こんなに小さかったっけ)と思った。体格の良い獅子神さんがいるからだろうか。みんなが──いや、この大広間も小さく見える。
「行き遅れにならんように気を回しただけだ。竹谷のじいさんにはよう言っておく」
「……ありがとう、ございます」
勝手に因習村扱いしていたのはわたしの方だったかもしれない。ちゃんと話していれば、獅子神さんがいなくても話は拗れずに済んだかもしれないと反省していた。
そこへ、叔母がやってきて「ナマエちゃん、ご挨拶済んだら手伝いにきてね」と呼びに来た。獅子神さんを伴って仏壇に線香をあげ、わたしは女性陣とおさんどん。獅子神さんは大広間で親戚たちの相手だ。
「数時間で引き上げる予定ですが、もし我慢ならなかったら呼んでください」とわたしが言うと、平気平気とリラックスした声が返ってくる。先ほどのコミュ力を見ていると、なんとも心強かった。
わたしは広間から離れた台所へ向かった。ぐ、っと肩に力が入る。喋れば機関銃のようなおばちゃんたちから、獅子神さんについて根掘り葉掘り聞かれるのを覚悟しなければ。
─4─
ここの良いところ。酒と料理がうまい。以上。
笑顔と真面目な顔を使い分けながら話を盛り上げるのも早々に飽きてしまう。ギャンブラーたちと普通に話すよりもずっと楽なもんだ。もともと〝親戚〟だの〝田舎〟だの〝ふるさと〟といったものに興味はあった。オレには縁のないものだったからだ。次第に「こういうものか」という納得は「こんなもんか」という落胆に変わる。
酒、タバコ、公営ギャンブル、女、地元の利権や議員の話。あの山がどう、あの船がどう、あそこの誰それはどう、──そんな興味のない話を聞き流して小一時間、ようやくナマエについて聞ける雰囲気を作った。
まあ、なんてことはない。どこにでもいそうな、被虐待児だったことがわかっただけだった。父親に包丁で口を裂かれた話を笑い話として語られるような。
──あれは父親が酷くてねぇ。
──本当に毎日傷だらけで痩せ細って、何度通報しようと思ったことか。
──結局父親はよその喧嘩であっけなく死んじゃって。
──おかげであの子も自由になってよかったよ。
──高校に入ったのを期に施設から引き取ってくれてねえ、あの子はもっとおじちゃんたちに感謝しないといけないよ。
──今どきは多様性の時代だから、アタシらだって地元に帰ってこいなんて言わないから兄ちゃんも安心なよ。
オレから探っておいてアレだが、早く黙ってくれと思った。
せっかく良い酒と料理が不味くなる。
可哀想〝だった〟と曰うその顔は、いまじゃ良い思い出話しだとでも言うようだ。オレは苛立ちで唇が歪みそうになるたび、ぐい呑みを傾けて表情を隠した。
「あの子は昔から優しくていい子だよ。ほら、見た目はちょっとアレだけども。野菜も傷物の方が美味いって言うだろ」
オレは温くなった日本酒を飲み干すと、立ち上がって「台所は?」と聞いた。左手の奥の突き当たり、と答えを聞いたらもう十分だ。ハンガーにかけてあった上着に腕を通した。
「にいちゃん、どっか出かけんのかい」
「帰る」
「はあ?」
「これ以上あいつを腐ったみかんの中に置いとけねえんでな」
酔っ払いたちは言葉の意味が理解できないのか、ポカンとしている。
「ガキが毎日傷だらけで痩せ細ってんのに、通報もしねえ、引き取りもしねえ、それでよく『大事に育ててきた』なんて言えたもんだ。マジで尊敬するよ。オレもそこまで傲慢にはなれねぇ」
がちゃん、と食器がぶつかる音がした。訛りの強い方言で罵られる。余所者に何が分かる、って言いたいんだろう。追撃する声。擁護する声。それでも殴りかかって来ないのはオレの体格と風格がそうさせるんだろう。
どっかの医者も言ってたな。愚か者の考えることなんて分からない。オレにも、方法があって、理由があって、血縁のある、目の前の子どもを助けない大人の心が知れない。
罵声を無視して台所へ向かうと、ナマエがおでんの味見をしているところだった。頬を大きく膨らませたまま、びっくりした様子でオレの方を見た。リスみたいでかわいいな、と酔った頭で思う。その顔はすぐにマスクで隠され、もごもごとした後に「どうひました?」と尋ねてくる。
「あらあ、ナマエちゃんに会いたくなったの」と揶揄う女性陣に「そうだ」と短く答えてナマエを抱きしめる。ひゅう、と口笛ではなく声で囃し立てられた。
「し、獅子神さん!?」
「帰る」
「え?」
「帰る」
「……わかりました、帰りましょう」
何言ってんのよナマエちゃん、とまた声がする。爺さんに怒られるのを恐れているようだ。
「わたしもお酒飲んじゃってるので、タクシーで駅前のホテルに泊まりますね。レンタカーは明日取りに来るので。ごめんなさい、おばさん」
「んもぉ、お父さんたちが何か言ったかいね。都会の人やけん、優しくって言ったとに。あんたも男やったら……」
「おばさん」
ナマエが短く言葉を断ち切った。ぎゅう、とオレの手を握るのは、勇気を奮い立たせるためなのか、オレを守るためなのか──少し震えていた。
「帰ります」
その後、酔いが回ってきてふらふらになりながらナマエが呼んでくれたタクシーでナマエが予約してくれたホテルに泊まる。オレが決して泊まることのないような、古いビジネスホテルの狭いツインだった。
頭が揺れる。
日本酒、焼酎、ビール。飲むふりで多少誤魔化したのに、しこたま飲まされてしまった。あいつらは昼間からずっと飲んでると言っていたが、九州の男たちの肝臓はどうなってやがんだ。
ミネラルウォーターや酔い止めドリンクを買ってきて甲斐甲斐しく世話をしてくれるナマエに「あんたも結構飲んだのか?」と聞いた。すると「いえ、お料理しながらだったので、日本酒を三合くらいしか」と素面の顔でけろりとして答える。……訂正。九州人の肝臓はどうなってやがんだ。
ベッドに横になって数分、ようやく悪酔いが落ち着いた頃、ベッド脇に跪ひざまずいて心配そうな顔で覗き込んできた。
「すみません。……きっと、あの人たちが失礼なことを言ったんですよね」
「あんたが謝ることじゃない」
それはマジで。あいつらの頭を食卓に叩きつけてナマエに謝罪させたいくらいだった。そんなことしても困らせるだけだと判断できた、オレの理性を褒めてやりたい。
ふと、ナマエのマスクの下に手を滑り込ませた。どうしてそんなことをしたのか分からない。触りてえなと思ったときにはそうしてた。指先に硬い傷跡の感触がある。ナマエは一瞬びくりと身をすくませたが、大して嫌がらずにされるがままだ。
「父親につけられたって」
「……すみません。みんなが余計なことを」
「どうせなら、あんたの口から聞きたかった」
目が見開かれる。驚き、戸惑い、後悔、逡巡、諦め、勇気。ギャンブルで培った観察眼は、オレにナマエの感情を伝えてくれる。
ナマエはゆっくりと話してくれた。父親に日常的に虐待されていたことも、酒乱で暴力的だったために誰も止められなかったことも、顔の傷は包丁を口に入れられて怖くて抵抗した折についてしまったので自分がいけなかったのだと。施設の優しい先生がいたから、勉強にも困らなかったと語った。こいつの側に、そういう大人が居てくれたと知れたのがよかった。
そのまま寝落ちしてしまったのは、本当にオレの落ち度だ。目が覚めて、床に座ったまま眠るナマエを見たときの後悔といったら。オレの手のひらに頬を預けて眠るのがかわいいなんて思っちまったことも許しがたかった。つうか、マスクの中に手を突っ込むとか普通にねえだろ。馬鹿かオレは。
─5─
馬鹿だわたしは。
獅子神さんのあったかい手のひらが気持ちいいからってそのまま寝落ちするなんて。ぴくりと動いた指先に目を開けてみれば、獅子神さんと目が合った。わたしが寝ていたせいで手を引き抜けなかったのだ、何時間も。外はもうとっくに明るくて、わたしは大慌てで獅子神さんの手のひらをウェットティッシュでゴシゴシと拭いた。涎とか垂らしていなかったことを願う。
獅子神さんからは、昨日はだいぶ酔っていたことを謝罪され、お互いに鹿威しのように頭を下げ合い、途中でおかしくなって笑い合った。
どうしてもお詫びがしたいと言うので、わたしが過ごした養護施設を覗きたいと申し出た。一瞬獅子神さんの顔が曇ったので「先生はあの人たちと違うので」「外からちょっと見るだけ」「獅子神さんは車から降りなくていいですから」と補足して、やっと頷いてもらった。
きのう放置してしまったレンタカーを回収した際も、ちょっとした諍いがあったものの、無事施設まで行くことができた。
本家よりよっぽど郷愁に駆られているわたしに、獅子神さんが「入るか?」と声をかけてくれる。
お言葉に甘えて車から降りると、獅子神さんもついてきてしまった。車内に残ってていいですよ、と言うものの「あんたを一人にしたくない」ときた。そんな整った顔でそんなことを言われたら、頷くほかない。
「久しぶりねぇ! おかえり!」
そう言って抱きしめてくれたのは、わたしが一番お世話になった先生だった。十年前より少し背が小さくなった気がする。
「突然失礼しました。獅子神といいます。ナマエさんとお付き合いさせていただいています」
獅子神さんがここでも彼氏役してくれるとは思っておらず、わたしは心臓がドキドキした。
「そうなの、来てくれて嬉しいわあ」
根掘り葉掘り聞かずに流してくれるのも嬉しかった。案内してくれた施設内は少し古びていたけれど、ほとんど思い出のままだった。
初めて出版社から本が出たとき、いの一番にここへ献本した。その本が図書室の本棚にあって、何度も開いたように背表紙が傷んでいた。先生に「大人気なのよ」と言ってもらえたのが嬉しくて、大人なのにポロポロと泣いてしまった。その上、本棚にはわたしが送っていない本まで揃っていて、わざわざ買い揃えてくれたようだ。
帰り際「元気が出ました。これからも頑張ります」と言うと「頑張るのはえらいけど、頑張ってきた自分をもっと褒めてね」と先生は言った。「あなたたちは努力家ね」それは獅子神さんにも向けられた言葉だった。
「いっぱい泣いちゃった。来てよかったです」
「いい先生だな」
「でしょう?」
「そんで、めちゃくちゃ怖いな」
意外な言葉だった。確かに先生は怒るととても怖いけど、その片鱗は見せていなかったはずなのに。わたしがお手洗いで離席したときに何か言われたのだろうかと心配になっていると、「そうじゃねえ」と獅子神さんは先回りして答えてくれたけど、その後に続いた言葉は、正直言って意味がよく分からなかった。
「あの先生はよく〝見〟てる。それが怖ぇなって思っただけだ」
//////////羽田空港からわたしの自宅へ向かう途中、獅子神さんが「ちょっと寄りたいところがあるんだが」と言った。夕飯も食べ終えているので、もう遅めの時刻。とは言え、断る理由はなかったので問題ないと伝える。
すると着いたのはとある一軒家──恐ろしいことに、獅子神さんの自宅だという。改めて獅子神さんが言っていた「金はある」の意味を理解した。
「コーヒーでも飲んでいかねえか」
わたしは迷う。
もう、獅子神さんは彼氏役ではない。むしろ治療費を立て替えてくれたり、入院中後もお世話をしてくれたり、面倒な親戚の相手をしてくれたり、さっきだって夕飯を奢ってもらった。その恩は返しきれないほど積み上がっているというのに、これ以上もてなされていいのだろうか。
それでも迷う。
あと少し、もう少しだけ。獅子神さんの彼女役でいたい。少しでも獅子神さんのことを知りたい。知ってから、他人に戻りたい。
わたしは小さく頷き、獅子神さんは助手席のドアを開けた。
獅子神邸はとても広くて、リビングだけでわたしの部屋が二つ収まるくらいだった。
大きくてふかふかのソファはどこに腰掛けたら良いか迷うくらいで、ちょこんとお尻を載せるだけでも緊張してしまった。
目の前で入れてくれるハンドドリップコーヒーの香りのおかげで、少しだけ心が落ち着いたとはいえ──改めて対面で座ると整った顔がいやでも視界に入ってわたしをドキドキさせる。かといって部屋をじろじろ観るのも品がないと思うので、結局わたしは獅子神さんの指先ばかり見ていた。
深煎りのコーヒーはとても美味しくて、思わず「おいしい」と声が出ていた。満足そうな獅子神さんの顔がかわいい。ああ、だめだ。もっと好きになっちゃう。
「──あの、ありがとうございます。えっと、旅行お疲れさまでした」
「ん、あんたもな」
「本当に感謝しています。こ、これで獅子神さんも彼氏役から解放されますね」
ちょっと戯けてしまうのは、関係が終わるのが寂しいからだ。でもそれも、きっと慣れてしまう。これまでずっとひとりぼっちだったように、またひとりに戻るだけだ。
「あんたはそれでいいのか?」
わたしの心を見透かしたように獅子神さんが言う。
「それ、と、言いますと……」
言い淀み、コーヒーカップに口をつけて発言から逃げるわたしに、獅子神さんはため息を吐いた。
「少しはアプローチできてたと思うんだがな」
どきっとする。
その先の言葉を聞きたい気持ちと、お願いだから言わないでという気持ちがぐるぐると渦巻く。
「なあ、オレたち正──」
「だめです」
手が震えてひっくり返す前に、コーヒーカップをソーサーに戻す。かしゃん、とそこそこ大きな音がした。
「だめ、だめなんです。わたし、獅子神さんに言ってないことがあって」
「秘密なんか誰にでもあるだろ。オレだって、あんたに隠してることは山ほどある」
「そ、そうじゃなくて。本当のわたしを見たら、獅子神さんも、わたしのこと気持ち悪いって思いますから。だから」
獅子神さんがわたしの隣に腰掛ける。宥めるように肩を抱く手は優しく、それでも逃してはくれなそうな力があった。
「獅子神さん〝も〟ってのが気に食わねえ。オレをどっかの誰かと一緒にすんな」
それは、そうだ。獅子神さんは違うかもしれない。それでも確かなことがある。
「でも、獅子神さんはわたしを抱けないと思います」
沈黙。いきなり肉体関係に言及なんかして、呆れているだろうか。
「か、顔よりもっと酷い傷があって、すごく──醜いんです。気持ち悪いんです。だからわたし、この歳になっても男性経験がなくて」
「じゃあ、あんたを抱ければいいのか?」
耳元で獅子神さんが囁く。負けず嫌いに火をつけてしまったのだろうか。ぐ、と身を強く引かれる。獅子神さんの香水の匂いが強く薫った。
「シャワー浴びてくる。嫌ならその間に帰ってくれ。車のキーはそこにある。トランクもそれで開く」
てきぱきとわたしに言い伝えると、獅子神さんは浴室があるらしい廊下の奥へと消えていった。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
決まっている。帰るべきだ。
最後の最後に彼に嫌な思いをさせるべきじゃない。
そう分かっていても、わたしの足は立つことを拒むように動かない。コーヒーをもう一口飲んだら考えよう。もう一口。もう一口。……
しかし想像よりも早く、獅子神さんはお風呂から戻ってきた。髪はまだしとどに濡れていて、ぽたぽたと水滴が落ちている。わたしが帰ったか不安だったのかな、と思うとまた一段と愛おしくて、大好きで、苦しくなった。
「……バスローブ、カゴに入れてるから使ってくれ。歯ブラシとかカミソリ、新品のやつ使っていい。あと、」
相変わらずソファで縮こまっているわたしに、獅子神さんは奥のドアを指差して言った。
「あそこがオレの寝室だ」
//////////バスローブ姿の獅子神さんは、それはもう素敵だった。分厚い生地越しにも筋肉質な身体なのがよく分かる。いつもの薄手のトップスの方が余程肉感を拾っているのに、それの何倍もセクシーだ。
そんなきれいな人に、わたしの汚い身体を見せて良いものか、改めて逡巡してしまった。獅子神さんは、きっと酷いことは言わないだろう。思っても口にはしないでくれるだろう。でも、獅子神さんの身体はどうだろう?
わたしは自分のバスローブの腰紐を解いて、肩を露わにした。顔に刻まれた傷の、数倍濃い傷痕が肩から乳房を通って臍の近くまで伸びている。単なる切り傷ではなく、火傷が中途半端に治癒してボコボコになった皮膚。獅子神さんの視線を感じるけれど、その顔を見ることはできなかった。可哀想だと思ってくれているだろうか? それとも、気色悪いと思うだろうか。
「触ってもいいか」
獅子神さんの言葉に頷く。その声がとても優しくて泣きそうになった。抱いてもらえなくても、この身体に触れてもらえるなら一生の思い出になる。
「っえ!?」
指先で恐る恐る触れてくるのかと思いきや──、バスローブの中へ手を入れた獅子神さんは、わたしの身体を引き寄せて傷口に口づけた。硬い皮膚越しに彼の唇の柔らかさが伝わる。洗っているとは言え、見た目はとんでもなくグロテスクなのに、その動きに迷いはなかった。
こんなことまで、してもらえていいのかな。
ものすごく罰当たりなことをしている気がして、わたしは急いで上半身のバスローブを腰まで脱いで背中を見せた。
「っあの、せ、背中にも、痕がいっぱいあって…!」
身体の前面にある傷に比べたら小さくて薄いものだけれど、集合体恐怖症のひとが見たら驚くくらいの密集度のはずだ。父親の灰皿代わりにされていた昔の自分を思い出して恥ずかしくなる。でも、ちゃんと伝えないと失礼だ。隠してたのかなんて思われたくない。
無言の視線が背中に突き刺さる。何か言ってほしいけど、何も聞きたくない。沈黙が答えで構わない。言葉にしないだけ獅子神さんは優しい。それでいい。お願いだから、わたしの傷つくようなことは言わないで。このまま獅子神さんだけを傷つけて、終わりにしたい。
わたしはバスローブを着直した。襟をぎゅっと掴んでいないと、震えがバレてしまいそうで怖かった。あは、と乾いた笑い声を出した。
「──すみません」
「なんで謝んだよ」
「へ、変なものを見せてしまって、すみません。はは、でも、よかったです。か、隠しててもすぐバレちゃうことだし、し、獅子神さんはきっと酷いことは言わないでくれるだろうなって打算があって、やっぱり、見てほしかったというか、さ、最後に──」
声が震える。ぜんぜん笑えないまま白状してしまう。恥ずかしさと申し訳なさで顔が熱くてたまらない。我慢しようと思っていたのに、子どものようにぽろぽろと涙がこぼれてしまう。獅子神さんを困らせてしまうと分かっているのに、こうしてわたしは最後まで迷惑をかけてしまう。
「最後に、ぎゅって、抱きしめてくれませんか」
言い終わるが早いか、獅子神さんの大きな身体がもう目の前にあって、わたしの身体をぎゅうっと抱きしめた。腕全体、身体全体で抱きしめるように、ぴったりと胸板やお腹までくっつけて。
「最後とか言うなよ」
獅子神さんのあったかい体温と、シャンプーの匂いがたまらなく心地よかった。耳にとくとくと聞こえる音は、獅子神さんの心臓の音だろうか。すごく落ち着くなあ、と思いながら目を閉じる。
なんかもう、このまま死んでもいいな。
「ありがとうございます」
わたしの満足が伝わったのか、獅子神さんは腕の力を緩めた。これで終わりだ。もう離れなきゃいけない。
「わたし、着替えて来ますね。いまなら終電も間に合うと思うので──」
ベッドから降りようとしたわたしを獅子神さんが押し留める。
「……なんだよ。抱かれてくれるんじゃなかったのか」
──どうして。
どうして、あなたがそんな寂しそうな顔をするんですか?
「い、や──わ、分かったでしょう? 見ましたよね? ドン引きですよね? その、気を遣ってくれるのはありがたいんですけど、こんなのじゃ勃つものも勃たないじゃないですか」
空気を変えたくて、わざと明るい声を出す。似合わない下ネタなんか言って。気にしてなんかいないみたいに。
でも、獅子神さんは冗談にはさせてくれない。大真面目な顔をしてわたしをベッドに押し倒して、太腿に股間を押し当ててきた。
「──っ」
バスローブの生地越しに、硬いものを感じる。
「うそ」
「嘘じゃねぇ。惚れた女の裸見て勃たねぇ男がいるかよ」
うそ、と再び言いかけたわたしの口を獅子神さんが塞ぐ。分厚い舌が傷口ごとわたしの唇を舐めた。そのままわたしの歯を、上顎を、口内を舐めて舌を絡める。息をするのも忘れていたわたしの身体に、獅子神さんの手が這って胸を揉みしだいた。同じ手なのに皮膚の硬さが違うから刺激が違う。乳首に触れられたときには分かりやすく身を撥はねさせてしまって恥ずかしかった。獅子神さんの指で触られると、どっちも気持ちいい。
「あ、ま、待って」
「待たねぇよ。どんだけお預け食らったと思ってんだ」
「ほんとに──だ、抱いて、くれるんですか」
返事の代わりに口づけが返ってくる。頭を撫でて、頬を撫でてくれる。わたしに触れてくれる。とても優しく、大事なもののように。唇も、指先も、ぜんぶ優しい。うれしい。栓の壊れた蛇口のように、ぽたぽたと雫がほおを伝って肌に落ちる。好きなひとに抱いてもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。夢見ていただけで、夢で終わるだけで、現実にはならないと自分に言い聞かせていたのに。
獅子神さんと一緒にいると、自分がとんでもなくわがままになってしまうのが怖い。でも、きょうだけは許されたい。
ふと、獅子神さんの顔も身体も、部屋の細部もはっきりわかるほどに──部屋が明るいことに気がついた。
「でんき、けさなくちゃ」
「やだ」
やだって。そんなかわいいこと言う?
耳元で囁いて、そのまま耳を舐められる。背筋がゾワっとした。寒気ではない何かが身体を駆け抜けていった。ぐちゅぐちゅと水音が頭に響いて、急に違う恥ずかしさが広がる。このまま流されちゃダメだ。
「あ、あのっ、わたし、この歳で処女なんですがっ」
「聞いた」
「きっと変な顔しちゃう、から、でんき、」
「それが見てェんだよ」
にべもなく断られ、獅子神さんの唇は耳から首筋、鎖骨を通って胸に降りてくる。舌先で乳首を転がされた瞬間、いままで感じたことのない感覚に声をあげそうになる。反射的に口を固く閉じたけれど、鼻から抜けた空気が嬌声にしか聞こえなくて、またわたしを恥ずかしくさせた。
「んんっ──」
獅子神さんが顔を上げて、わたしを覗き込んできた。心配そうに眉の端を下げている。やっぱり変な声出して引かれたんじゃないかと不安になって口と鼻を手で覆って顔を背けた。どんな声が正解なのか分からない。見た目は許してもらえても、反応で引かれたら元も子もないじゃない。せめて声を押し殺せば、少なくとも印象はマイナスにはならないだろうか。そんなことをぐるぐると考えてしまう。
「我慢するなとは言わねえけどよ」
獅子神さんはまた優しくわたしの頭を撫でる。子どもをあやすように優しくて、わたしはますます好きになってしまいそうだった。
「ちゃんと息すんの忘れんなよ。それと、マジで嫌ならちゃんと言え」
ああ、本当に子ども扱いだ。同い年なのに。経験してきたレベルがまるで違う。そんな彼に安心してしまうわたしはとても幼稚だ。コクコクと頷いて、彼のバスローブの端を握った。上手くはできないけど、やめないでほしい。その気持ちが伝わったかどうかは分からないけれど、わたしの精一杯の意思表示だった。
「あと、そういうのはオレを煽るだけだってこと覚えといてくれ」
「すみませ──」
謝罪の言葉を封じるように口を塞がれる。唇が柔らかく何度も触れ合って、優しく食まれたり、浅く入れられた舌で上唇の裏側を舐められた。よくいうディープキスになるまで何度も軽い口づけを交わしながら、優しく肌に触れられる。指の腹で撫でられるようなフェザータッチをされると、それだけで身体の芯がぞわぞわする。
「──、────?」
わたしは獅子神さんの舌に応えながらシーツを掴むのに必死で、呼吸の合間に差し込まれた疑問文らしき言葉を聞き取れなかった。
何かを問われたことはぼんやりと理解できたので、はい、と答えた。
下着越しに淫部を押し上げられ、わたしは声を上げた。太い指が濡れ具合を確かめるように、ぐちゅぐちゅと辺りを擦る。思わず膝を立てて脚を閉じると、するりと下着を脱がされてしまった。
まるで脱がしやすいようにそうしたような形になってしまったのと、外気に晒された濡れた皮膚の感覚とで、鈍りかけていた羞恥心が顔を出す。
獅子神さんの指がつぷんと中へ入ってくる。自分のよりずっと太くて長い。たった一本なのにその存在感はとても大きくて、思わず押し出しそうになってしまう。少し動かされるだけでもわたしの身体はびくびくと震えてしまう。獅子神さんは「大丈夫だ」と優しく声をかけてくれながら、ゆっくりと指を馴染ませてくれた。指先が内壁を擦るたび、膝ががくがくと痙攣してつま先が攣りそうになる。
(あれ、わたし、腰動いちゃってる……?)
気づいたときには浮かせた腰をゆるゆると振っていた。獅子神さんの指を迎えに行くように、自ら求めておねだりするように。なんてはしたない格好、と正気に戻る寸前、挿入される指の本数が増えた。
「痛くないか?」
「へぁ、ぃ」
はい、と答えたつもりだったのに、呂律の回らない間抜けな声をあげてしまう。
「気持ちいい?」
「ぁわか、んなっ」
「ここは?」
「あ゙ッ♡」
一瞬、目が眩むほどの快感が、びりっと身体を突き抜けていった。がくんと膝から力が抜けて浮いていた腰がベッドに沈む。一瞬硬直した身体がじわっと弛緩して、なんとも言えない開放感を覚えた。
「お、ちゃんと中イキできたな」
「は……、はあっ……」
「えらいえらい」
まるで子どもを褒めるような口調で、そのまま膣内をよしよしと擦る。言葉も手つきも優しいのに、それが凶悪なほどに身体に響く。
「あっ、あ♡ いっ、いったからっ、まだっ」
「もう少しだけ解すからな」
「まっ、あぁっ♡ ふぁっ♡ あ♡ あ♡ あッ♡」
思わず獅子神さんの太い腕に縋りついた。抜いてほしいのか、そのままでいてほしいのか、もっと奥にほしいのか、自分でも分からない。
何度も何度も指でイかされて、緊張と弛緩を繰り返した身体がぽかぽかと温かくて、頭がぼーっとする。粘り気のある涙で瞼が思うように開かない。
「かわいい」
聞き間違いかと思った。
獅子神さんの手がわたしの頬に添えられて、親指で涙を拭ってくれた。こんなぐちゃぐちゃの顔を晒して申し訳ない気持ちと、それでも紳士的に扱ってくれる獅子神さんの優しさがあったかくて、全身が幸せに満ちている。大きくて分厚い手に自分の両手を重ねて、思わず「すき」と呟いた。すき、すき、だいすき。声に出したのか、心で思っただけなのかもわからないほど理性が蕩けている。
ぐちゃぐちゃだ。
ぐちゃぐちゃなのが、きもちいい。
力の抜けた膝を持ち上げられて、入口に指より大きいものが当てられる。みちみちと侵入してきた異物感に思わず力んでしまった。
「ん、きついな」
どこか苦しそうな獅子神さんの声と表情が色っぽい。わあ、えっちだ。そう思って力が抜けた瞬間、ずぷんと塊が入ってくる。ピリッとした痛みと硬くて大きい体積と圧力。
「っあ、はいっ、た?」
「……半分くらい」
「っ、」
まだ半分なの。もう入る余地なんてない気がするほどなのに。
「いてーと思うけど、我慢してくれ」
「らい、じょぶ、です」
相変わらず呂律は怪しいけれど、本心だった。痛みも圧迫感も苦しい感じもするけれど、中に獅子神さんがいると思うとどうでもよかった。
それでも獅子神さんは、慣れさせるためなのか挿入したまま動いてくれない。明らかな異物感なのに、あまりに熱いのでこのまま溶けて一緒になってしまいそうな気さえする。
やがて遠慮するようにゆっくり動かされるものの、もどかしくて仕方がない。力を抜かなきゃと思うほど興奮して締め付けてしまう。
瞼を開くと、苦しそうな顔をした獅子神さんがいて、目が合った。そして優しくキスを落としてくれる。まるで意識を逸らしてくれるように舌を絡めながら、わたしのなかにある獅子神さんを感じる。熱い。すごく熱い。お腹が溶けちゃいそう。
「もっと──」
動いてほしい、と言いかけた言葉を慌てて飲み込む。違う。違う。そんなこと言わない。ゆっくり擦られるのも気持ちいいんだもの。ちがう。もっときもちいいのがほしい。ちがう。
言葉が出てこなくて、はっ、はっ、と犬のように息を吐くことしかできない。
──ししがみさん、ししがみさん、ししがみさん。
心のなかで何度もそう呼んだ。
──すき。すき。きもちいい。だいすき。ししがみさん、すきです。
心のなかで何度も。
「オレも」
──あれ?
獅子神さんの大きな身体が覆い被さって、わたしの腰が持ち上がる。ずん、と最奥に届いた感触がした。気がついたときには、わたしの身体は大きく前後に揺さぶられていた。
ぐちゅぐちゅと淫部が立てる水音。汗と肌がひっつく感触。肉が打ち付けられる響き。わたしの嬌声と獅子神さんの吐息。体温。汗。揺れ。世界がぐちゃぐちゃになるほど掻き乱される。
絶頂を迎えてなお、獅子神さんの腰振りは止まらなくて、許しを乞いながら揺さぶられ続けた。ずっと勃ちっぱなしの乳首が、獅子神さんの胸筋で擦れてきもちいい。いつの間にか、わたしは自分の身体を擦り付けるようにしがみついていた。
頭がおかしくなる。
もうイッたのに。
これ以上気持ちよくなるのが怖いのに、絶頂が続いている。それも快感が更に強まって、もう嫌なのにもっともっとと欲しくなる。腰を打ち付けられる衝撃で肺から押し出された空気が、そのまま嬌声に変わって部屋に響く。いつまで経っても治らない。どんどん大きくなる。
「はあっ、あっ♡ あっ♡ あっ♡ あんっ、は、しし、がみ、さ」
「わり、オレもイく」
耳元で囁かれた艶っぽい湿った声に、きゅんと膣内が締まった。最初にイッたのが霞むくらいに大きな快感が全身を貫いたのを最後に、わたしは意識を手放した。
//////////「──ん」
「っと、起こしたか」
太ももに温かい濡れタオルが当てられた感触で夢から覚めた。どうやら、身体を拭こうとしてくれていたらしい。後処理までしてもらうのは流石に申し訳なくて、そのままタオルを受け取った。
「ごめ、なさ──ねてました?」
「少しだけな」
掠れた声に恥ずかしくなり、わたしは俯いた。
一糸纏わぬ姿でいるのが心許なくて、シーツで身体を隠しながら汗と体液を拭う。
時計を見ると、終電の時間はとっくに過ぎていた。
「水飲むか?」
「っ、は、はいっ!」
獅子神さんはラフな部屋着に着替えて、もう普段通りだ。それに対してわたしは裏返った声で返事してしまう。仕方ないじゃない。意識しない方が無理な話だ。
冷えたミネラルウォーターを差し出された。ペットボトルのキャップも緩めてくれている。どこまでできる男なんだろう。彼と付き合ってきた女性は、どんなことをしてあげたんだろう。
ああ、いけない。彼と並び立つ女性に嫉妬してしまうなんて、それこそ分不相応だ。
本当はひとくちだけ飲むつもりだった水が喉に心地よくて、そのままゴクゴクと飲んでしまう。想像以上に喉が渇いていたようだった。
一息つくと、獅子神さんと目が合ってまた恥ずかしくなる。きっと獅子神さんに釣り合う女性なら、こんなにがぶがぶと水を飲んだりしないだろう。もっと優雅で、なんかこう──事後もセクシーであるに違いない。バスローブも似合ってて。
あ、そうだ。バスローブ。
とりあえず何か身に纏っておきたくて、着ていたバスローブを探すも見当たらない。
「あんたの服と一緒に洗濯してる。オレの使い古しで悪いんだが、とりあえずこれ着てくれ」
何も言ってないのに、どうしてわかるんだろう。獅子神さんはクローゼットを開けると、その巨大な収納スペースからスウェットを一枚引き出した。
ダークグレーの長袖が余るのは予想通りだったけれど、首周りもだるだるになるほどに広くて前を手で抑えておかなくちゃ不安なほどだった。丈はちょっと短めのワンピースくらいなので、獅子神さんは本当に体格が良いのだと改めて思った。
ベッドをよく見ると、シーツも変わっているようだ。もし血がついてたりしたら、クリーニング代を渡した方が良いのだろうか。そんなのを渡されても困ってしまうだろうか。そんなことを悶々と考えて悩みに悩んだ結果、小声でそう伝えると「んなこと気にするな」と笑って返された。
「てか、いいな」
「へ?」
「それ、彼シャツってやつ」
あ、これって噂に聞く彼シャツだ。スウェットだけど。そう思うと急に恥ずかしくなってきた。
ここで上手い返しでもできればいいのに、何も言えずに固まってしまった。中学生の初体験じゃあるまいし。大人なのに。そう思うと、ますます恥ずかしくてこのまま穴に入りたくなる。獅子神さんも口を抑えて目を背けてしまった。きっと、獅子神さんにとっては見慣れた光景かもしれないし、このスウェットだって歴代彼女が袖を通したのかもなあ、と思うと肌触りの良い生地が急に重たく感じられた。
「あ、ふ、服。洗ってくださってる、んですよね」
話を変えようとして吃ってしまう。
「ああ。乾くのにあと一時間くらいだな」
お風呂を借りるときにも思ったけど、ドラム式洗濯機良いなあ。って、違う違う。
「ありがとうございました」
洗濯だけじゃなくて、今日のことや、いままで色々よくしてくれたことが走馬灯のように頭に浮かんだ。やることやった後に深々と頭を下げるのは、なんとも間が抜けている。獅子神さんも困ったように頭を掻いていた。
「朝まで一眠りしようぜ」
「え?」
「もう目ぇ冴えちまったか? なんだったら、ゆっくり風呂につかってきていいぞ」
「ふ、服が乾いたらお暇しようかなと」
「──」
獅子神さんが呆れ返った目で見てくる。さすがに情緒がなさすぎる発言だったらしい。
「誰がこんな真夜中に帰すかよ。大人しく休んでけ」
「そ、ソファお借りします」
リビングに逃げようとするわたしの襟首を掴まれ、立ち止まらざるを得なかった。そんなところを掴まれたまま逃げようとしたら、お尻が丸出しになっちゃう。
「いまさら恥ずかしくなったのか?」
「い、いまさら恥ずかしいんです!」
図星を突かれて、思わず声が大きくなった。
「す、すみません……やっぱりお風呂お借りします、頭冷やしてきます」
「おう。落ち着いたら戻ってこい。オレは先に寝てるからな。──逃げるなよ」
襟首から手を話して、わたしの頭をがしがしと撫でた。その乱暴さも優しくて、もっと好きになってしまいそうだった。
獅子神さんちのお風呂に入っている。
抱かれるために身体を洗って。
抱かれたあとに身体を洗う。
なんだか現実味がないけれど、身体の怠さや股間の痛みで、これは夢ではないと再確認した。
お風呂から上がってそーっと寝室を覗く。照明が消された部屋にベッドランプだけがついていた。忍び足でベッドの空いたスペースに身を載せると、獅子神さんの広い背中が見える。本当にもう寝てるみたいでホッとした。起こさないようにそっと布団を持ち上げて身体を滑り込ませる。
獅子神さんのベッドは、獅子神さんの匂いがした。先ほどの情事を思い出して心臓がばくばくと音を立てる。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせていたとき、獅子神さんが寝返りを打つ振動が伝わってきて、その直後に背後から抱きしめられた。
「おかえり」
「っ、起こして、すみません……」
「あ? 起きて待ってたに決まってんだろ」
「す、すみません」
「身体は平気か?」
大きな手のひらが肌を撫でる。労わるように優しく触られているのに、またヘンな気持ちになってしまいそうだった。結局服は乾いていなかったので、素肌にスウェットのまま。これ以上身体が反応してしまうと、借りた服まで汚してしまう。
「へ、いき、です」
「手加減できなくて悪かった。その、初めてで気絶させるとか、ねーわ」
「だ、大丈夫ですから」
「……気持ちよかった?」
言葉に詰まる。感想としてはそりゃもう、としか言えないのだけれど。わたしは蚊の鳴くような声で小さく小さく「はい」と言うことしかできなかった。
緊張で寝られるわけがないと思っていなのに、疲労感と暖かさからか、すぐにうとうとして寝入ってしまった。
//////////翌朝、身体を起こそうとしたわたしは腰の痛みに声を上げた。えっちで腰が痛くなるって本当だったんだ……!
わたしの容体に気づいた獅子神さんがものすごく申し訳なさそうに謝ってくれたんだけど、おそらく日頃の運動不足が祟ったんだと思う。恥ずかしい。
結局獅子神さんが朝食をベッドまで運んでくれて、まるで洋画みたいな朝を過ごせた。「オレのせいだから」と甲斐甲斐しく腰をマッサージしてくれる獅子神さんはなんというか、狐女房のようだ。人を甘やかして堕落させるような魅惑的な妖怪。そうでも思わないと、この人の良さは説明がつかない。
そういえば、きのうは気づかなかったのだけれど、ベッド脇のサイドテーブルにわたしの本が置いてあった。児童書と絵本が数冊。本当に買って読んでくれたんだ。
その場の流れで、絵本を読み聞かせすることになった。
「『これはむかしむかしのお話です。』──」
一緒に布団に入り、絵本を開いて朗読する。地域会やボランティアで読み聞かせはたくさんしてきたので慣れているけれど、自分の作品を大人に読み聞かせをするのは初めてだ。
「──『そう言ってみんなは笑うのでした。おしまい。』」
獅子神さんは黙って最後まで聞いてくれた。とてもお利口さんな読者だ。絵本には開いた跡がついていたから、ご存知の内容をただ読み上げただけだ。どんな感想を持つのか聞いてみたかったけど、獅子神さんがわたしを引き寄せて抱きしめたので、尋ねることができなかった。
「……あんたの親は、寝る前に読み聞かせてくれたか?」
正直なところ覚えていない。たぶんなかったと思う、と答えると獅子神さんも「オレもだ」と返した。意外だ。
それ以上は何も言えなかった。わたしも何も聞かなかった。「たくさんある」と言っていた隠し事に関わることなのかもしれない。わたしはただ、ぐずった子どもをあやすように、広い背中をトントンと叩いた。
─6─
単行本化されていないエッセイやコラムも読みたいと獅子神さんが言ってくれたので、家にある掲載誌をまとめて紙袋に入れて電車に乗った。
でないと、「取りに行く」と獅子神さんが車を飛ばして来そうだと思ったからだ。毎回そんなご足労をいただくわけにもいかない。
明るい時間に見る獅子神さんの家は、本当に立派すぎて気後れしてしまう。そして、ここまできてアポイントメントを取るのを忘れていたことに気づく。
慌てて〈近くに寄ったので、よければ先日言っていた本を渡したいのですが、ご在宅ですか?〉とLINEする。近くに寄ったので──なんて、とんだ大嘘だ。こんな高級住宅街にわたしが行けそうなところがあるはずもない。
返信はすぐに届いた。
〈いま出先から戻ってるとこ。いま駅前か? もし先に着いたら、中に入って待っててくれ。使用人に伝えておく〉
──使用人! メイドさん的な人だろうか。そりゃあ、まあ、そうか。こんな大きいお家に一人なんて、手が回らないよね。
とは言え、家主がいないお家にずかずかお邪魔するのも気が引ける。獅子神さんが戻るまで待つことにしよう。きっと車で出かけているだろうから、見えやすい位置で待つことにする。きょうは日差しが強めだからと帽子を被ってきてよかった。
数分後、
「あのぉ」
急に細身の男性が声をかけてきたので、わたしは驚いて身を跳ねさせた。Tシャツにジーパンのラフな格好。この人、いま獅子神さんのお庭から出てきて──まさか泥棒!?
「この家のモンですけど、勧誘か何かっすか?」
「え、えええと、ここは、獅子神さんのお宅、です、よね……?」
あまりにも堂々としているので、わたしは急に不安になって邸宅を見上げた。見直してもやっぱり獅子神さんの家にしか見えない。はあ、と男性はため息を吐いてわたしを玄関先から道路へ押し出そうとする。
「もう聖書とか会報誌とかも不要なんで。家主が来るまでに帰ってください。困るんすよ」
新興宗教の勧誘だと思われてる!
帽子を目深に被ってマスクをして、冊子が入った紙袋を持って個人宅の玄関先でうろうろして、……確かに怪しい、怪しすぎる!
「す、すみません! わたし、怪しい者ではなくて──」
「オレも早く帰んなきゃなんすよ、いまから獅子神さんの彼女が来ちゃうんで」
「え」
獅子神さんの、彼女? 一瞬わたしのことでは、と思ったものの自信がなくなる。
あ、そうか。使用人って、メイドさんじゃなくてこの男性のことを言っていたんだろうか。うわ、誤解を解かないと!
「その、荷物を持って伺うと獅子神さんに伝えていたんですが。ご連絡、入っていないです?」
使用人さんは、相変わらずわたしを警戒しながら(当然だ)、スマホを確認した。
「いや。入ってないっす」
「その彼女って──」わたしのことだったりしますか、と問いかけてやめた。もう視線が言っている。お前なんかじゃねえぞ、と。だから、わたしは慌てて言葉の舵を切りかえた。「──どんな方ですか」
「言うわけないでしょ」
それはそう。わたしの質問がバカすぎただけであなたは全く悪くないです。
「とにかく日を改めてもらえますか。あ、一応伝えておくんで名前だけ聞かせてもらっても」
「い、いいです!」
わたしは踵を返して走り出した。駅に向かって走る。走る。運動不足のわたしは、すぐに息が切れて歩き出し、やがて立ち止まってしまう。
背筋が寒くなる。力が抜ける。足元がふにゃふにゃする。
獅子神さんに確かめたい。
何を?
「わたしは獅子神さんの彼女ですよね?」とでも聞くの? もし違ったら、恥ずかしいどころの話じゃない。何勘違いしてるんだ、なんて嘲笑われたらどうしよう。そんなことない。獅子神さんを勝手に悪者にするな。
そのとき、ふと思い出した。あの日、獅子神さんは「なあ、オレたちせ」までしか言っていなかった。わたしが拒んだんだ。遮った。聞かなかった。獅子神さんがどんな関係を求めているのか。
万が一、続く予定の科白が「セフレとかどう?」みたいな言葉だったとしたらどうしよう。獅子神さんはそんなこと言わない、って反論したいけど。わたしは使用人さんがいることも知らなかった。わたしは獅子神さんのこと、何も知らないんだ。
だめだ。
わたしなんかが悩んだところで、考えたところで、どれも真実じゃないんだ。わたしが作った想像のお話に過ぎない。ちゃんと確かめよう。告白して、本当に彼女になっていいですかって聞こう。それで「いやお前は彼女だよ」なんて、呆れたように笑ってほしい。
もし振られたら、今度こそ綺麗な思い出にして、お別れしよう。
ふう、と大きくため息を吐いた。少し頭がすっきりした気がする。スマホを取り出して、獅子神さんとのトークルームを開いた。
〈すみません。体調が悪くなったので引き返しました。またご連絡します〉
その後、着信が入ったけれど、わたしは出ることができなかった。遅れて〈心配だから、家についたら教えてくれ〉とメッセージが届いた。何度も下書きを書いては消しを繰り返して、結局スタンプ一個で済ませてしまった。
ごめんなさい、獅子神さん。ちゃんと自分にケジメをつけたら連絡しますから。
//////////それからというもの、わたしは美容整形の病院を探し求めた。いつか傷を消せたらと思ってお金は貯めていけど、本腰を入れるのは初めてだ。
しがない作家業の貯金額なので、それほど潤沢ではないけれど、それでも顔と身体両方を治してくれそうなクリニックに出会うことができた。費用の関係で完全に治すというよりは、目立たなくする治療だけど。今日中に正式契約の連絡を入れれば半額近い費用──つまりは、わたしの予算ぎりぎり範囲内に治ると聞いて、ここしかないと思った。
あの日以降、獅子神さんから何度かメッセージは届いていたけれど、当たり障りのない言葉を返すだけだった。しっかり返信しようとしたら、そのまま思いを伝えそうで。電話も取れなかったふりを繰り返した。それもきょうで終わる。
カウンセリングを受けたその足で、わたしは獅子神さんの家へ向かった。今度は間違えない。最寄り駅についてから〈いまからご自宅に行ってもいいですか〉とLINEを送ると、メッセージではなく電話がかかってきた。
〈いまからか!?〉
獅子神さんのこんなに焦った声を聞くのは初めてだ。
「急にすみません。都合が悪いなら、またこんど──」
〈あ、悪くない。いや、家はまずいな──迎えに行くから待っててくれ」
「あの、実はもう駅まで来てまして……」
電話の向こうからガタガタと物音がする。来客中なのだろうか。もしかして、彼女がいるのって本当だったのかな。さすが獅子神さん、モテが陰キャの想像の斜め上をいっている。
「すみません、やっぱり今度に──」
〈近くの喫茶店にでも入っててくれ。すぐ行く。帰るなよ〉
そう言うなり電話は切れてしまった。
迷いに迷って、言われた通り喫茶店で待つことにした。LINEでお店と席を伝えると、ほどなくしてやってきた。席についても、どこか居心地悪そうにキョロキョロしている。明らかに何かを気にしてる。家に待たせている人──彼女を?
「獅子神さん」
早く本題を話した方が良いだろう。わたしは最後の勇気を振り絞った。
「あの、わたし整形しようと思いまして」
「は?」
ものすごく驚いた顔で獅子神さんが聞き返してきた。
やや、本題が早過ぎた。
わたしは順を追って、なるべく簡潔に話した。
傷を消す手術をすること。
そのためにお金を貯めてきたけど、やっと決心したこと。
そして傷が消えたら──、
「獅子神さんに告白させていただきたくて」
「は!?」
とりわけ大きな声で聞き返してくる。焦ってる。困ってる。なんだかもう、答えがわかってしまった。わたしは獅子神さんを安心させたくて、言葉を続けた。
「あ、あの、大丈夫です。大丈夫というか、し、心配しないでください。付き合ってほしいとか言いたい訳じゃなくて、もちろん傷を消したくらいで今更美人になるわけでもないですし、そんなのわかってて」
なるべく言い訳にならないように、なるべくあっけらかんとして見えるように、なるべく重く聞こえないように、明るい声を出そうとしてつらつらと言葉を並べる。まるで要領を得ない科白だと分かっていても、とにかく伝えたいという気持ちだけで吐き出し続ける。
「その、ケジメをつけた自分で、獅子神さんに告白したいんです。ほんとに、か、彼女になりたいとか思っているわけじゃなくて、あの、ただ気持ちを伝え、られ、たらと──」
言っていてだんだんと自信がなくなり、声が小さくなる。普通に重くないか? あなたのために整形するのよと脅しているように聞こえないか? 自己満足で優しい獅子神さんを追い詰めていないか?
改めて獅子神さんを正面から見つめる。いつ見てもかっこいいその顔は、いまは焦りなのか気まずさなのか、冷や汗をかいている。かわいそうなくらいに戸惑って。告白させてもらいたいというわたしのエゴで、わたしの好きなひとを困らせている。
「──すみません。困らせるつもりはなくて。本当に。自分のことばっかりでごめんなさい。さっき言ったことは忘れててください」
早口で謝り、財布からお札を適当に出してテーブルに置いた。さっさと姿を消すことがわたしにできる最善だった。いや、状況はすでにもう最悪なんだけど!
「すみません、獅子神さん。大好き、でした。ごめんなさい」
鞄と上着を持って立ち上がる。取ってつけたように過去形にしたのは、わたしにできる最後の配慮だった。慌て過ぎてテーブルにぶつかってしまい、最後まで何一つスムーズにできない。
もたもたしているわたしの腕を獅子神さんが掴んだ。
「落ち着け」
「あの」
「座れ」
「……はい」
有無を言わせない言葉に、わたしは従ってしまう。手を引かれるまま、わたしは獅子神さんの隣に腰掛けた。逃がさないようにしっかりと手を繋いで、指を絡めてまで。
ふぅ、とため息を吐く獅子神さんはまだ困っているようで、でもその表情さえやっぱり愛おしくて、こんな顔を見られてよかったなんて思ってしまった。
「どこの病院でいつからだ?」
「え?」
「手術すんだろ。どこで、いつから」
「えっと、小さい病院なんですけど、さっきカウンセリングを受けて、来週から……」
獅子神さんは黙り込んでしまった。つられてわたしも黙り込む。
「顔だけ?」
こちらの表情を伺うように、下から覗き込まれる。うわあ、イケメンの上目遣いだ。この顔の良さは、忘れようとしても忘れられそうにない。
「こ、この機会に、全部……」
はあ、とまたため息を吐く。ここまで困らせるくらいなら、全部冗談だったことにしてしまおうかと考えていたころ、俯いたまま搾り出すような声で「女医か?」と尋ねてきた。どこかで咳き込む声がする。学生たちも多いのか、きょうの店内はやけに賑やかだ。
「じょい?」
とっさに漢字変換ができず、聞き返した。
「執刀医っつうの? めちゃくちゃ器小せぇこと言うと、男の医者は嫌なんだが」
またどこかの席で笑い声がする。いまシリアスなのでちょっと静かにしてほしい。
「どう、でしょう──そこまで聞かなかったです……」
「んじゃあオレも探していいか? ツテにあたってみる」
わたしに比べれば情報収集能力も格段に高いわけで、大変ありがたい話ではある。でもそれ以上に、獅子神さんとわたしでは金銭感覚に雲泥の差があるだろう。いざ紹介されて到底払えない金額だったらどうしよう。結局断ることになってしまえば、獅子神さんの面子を潰しかねない。
答えあぐねていると、獅子神さんはスマホを取り出して電話をかけだした。
「聞こえてんだろ、良い医者を紹介しろ」
「私が執刀しても構わんが」
返答は意外にも、クリアに、間近の席から聞こえてきた。
「女医だっつってんだろ!」
獅子神さんが怒鳴った先には、スマホを耳に当てた村雨先生がオレンジジュースを片手に座っている。──なんで?
私が座っていた席の斜め後ろに、真経津さん、天堂さん、村雨さん、叶さんのいつものメンバーがボックス席を占めていた。真経津さんと叶さんは人懐っこそうに手をひらひらと振ってくる。
「今日はたまたまあいつらが遊びにきてたんだが、こんなとこまで付いてきやがった」
悪いな、と獅子神さんが謝る。
つまり、わたしの覚束なすぎる告白も全部聴かれていたということだ。恥ずかしすぎて顔から火が出そうだった。
「ご、ごめんなさい。わたし、お友だちの前で──」
わたしの告白に戸惑うわけだ。返事もできないわけだ。友人の目の前で告白なんて、どんな罰ゲームだって思うだろう。
「やっぱ付き合ってるってケイイチくんの勘違いじゃん! だっさ!」
叶さんから早速ヤジが飛んだ。
「てめぇらは引っ込んでろ!」
「暴力的な男は嫌われるぞ〜!」
「ああもう場所変える、行くぞ」
「えっ、あっ」
手を引かれるまま退店して、向かった先は獅子神さんのお家だ。
玄関に入るなり、獅子神さんは鍵を二つ締めてドアチェーンを手早く掛けた。まるで追われているかのような迅速さだ。
はぁ、と獅子神さんはまた大きなため息をつき、玄関に立ったままわたしを抱きしめた。大きな身体と温かさに思わず安心してしまう。獅子神さんの鼻先がわたしのつむじにあたって、すぅ、と息を吸うのが聞こえた。どうしよ、小走りで来ちゃったから汗臭いかな。
「あの、お家に来ちゃって大丈夫でしたか」
「あそこじゃ落ち着いて話ができねぇからな」
「……か、彼女がもういるなら、告白は、取り消させてください……」
「──オレ、あんたにどう思われてんだ?」
いや、そう言いたくなる気持ちはわかる。
だって獅子神さんは、本命の彼女がいるのに肉体関係を持った異性を家に上げて(正確にはまだ玄関だけど)、抱きしめるなんてことはしない。これは、遠慮に見せかけたわたしの姑息な試し行為だ。
「だって、獅子神さんはかっこいいし、優しいし、素敵すぎるから、もう彼女がいてもおかしくないというか、いたらどうしようって今更ながら思った次第で」
緊張と申し訳なさと焦りで、言葉の糸がくるくると絡まる。
「待て待て待て。あんたはオレのことどう思ってんだよマジで」
「わ、わたしにはとても釣り合わない、聖人君子のような人だと思ってて──あの、好きです」
「──」
ああ、呆れて言葉を失っている。
「すき。すき、です。彼氏のフリをしてくれてたときから、ずっと、好きでした。ほんとうに好きになっちゃいました」
ごめんなさい、と続けたか細い声も、どうか届いていてほしい。身の程知らずだってことは、重々承知しているって伝わってほしい。
気まずい沈黙が続く。
わたしの心臓の音がバクバクと煩くて、獅子神さんにも聞こえていないか心配なくらいだった。
「……あの。しし、がみさん」
沈黙に耐えきれなくなってわたしは口火を切った。
「ちょっと黙れ。オレが良いっつーまで口開くな」
珍しく強い口調に、わたしはびくりと肩を震わせた。真経津さんたちには雑な言葉遣いをすることはあっても、こと女性に対してはいつも紳士的な獅子神さんなのに。反射的に謝りそうになってしまうけど、言われた通りに口をつぐんだ。
はぁ、とまた息が頭に降ってくる。
わたしは獅子神さんにため息を吐かせてばかりだ。
「オレは、あんたと付き合ってるつもりだったんだよ」
「へっ?」
「黙れって言っただろ」
ぎゅ、と抱きしめる力を強められ、分厚い胸筋で黙らされてしまう。
「お、れ、は! あんたが身体を許してくれたから、今度こそちゃんと恋人になったと思ったし、きょう真経津たちにもそう言ったんだよ。オレの女になったんだから手ェ出すなよって。その三十分後にこのザマだ」
なんてタイミングの悪さ。
「この際、オレがどんだけ気まずかったかはいいんだよ。別に。店までついてこられて、あんたに見えない席からニヤニヤニヤニヤ見られてたこともまあ良い。あいつらにイジられんのは慣れてっからな」
なんて性格の悪さ。
「あんたの口から好きだって言ってもらえンのも悪くねぇ。柄がらもなくきゅんとしちまって悔しいくらいだ。やり捨て扱いは腹立つが、あんたの卑屈さを甘く見てたオレが悪い、けどな」
や、やり捨てされたとは思ってない!
そこだけは訂正しないと、と顔を上げようとすると、頭を抑えられてぴくりとも動けなかった。
「オレが聖人君子に見えてんのが気にくわねぇ。自分に関係ないモンみてぇにオレを見るんじゃねぇ。あんたはオレに惚れられた当事者なんだよ──だから、それをいまから理解らせる」
ぐっ、と身体を引き寄せられて抱き上げられた。びっくりして短い悲鳴を上げる。
「ああ、もういいぞ。喋っても」
「く、靴! ブーツが」
「危ねぇから動くな」
わたしを軽々と持ち上げた獅子神さんは、迷いなくベッドルームに向かった。この家でいちばん獅子神さんの匂いが濃い部屋。一週間前を思い出して、身体が熱くなる。
わたしをベッドの端に座らせると、床に跪いてブーツのジッパーを下ろした。やっていることは逆だけど、シンデレラにガラスの靴を履かせる王子さまのようだ。
ゆっくりと左足からブーツを引き抜き、右足も同じように脱がせて床に横置きした。獅子神さんを跪かせて靴を脱がせた事実を飲み込めない。わたしより低い位置にある獅子神さんの頭を見つめていると、「なんだよ」と顔を上げた。その仕草さえ、
「お、王子さまみたい……」
ハッ、と獅子神さんは呆れるように鼻で笑い飛ばした。
「聖人君子の次は王子様かよ」
そう言って、タイツ越しにわたしの爪先に口づけた。
「わ、ちょ、ダメ! 汚いですよからっ」
「王子様はこんなことすんのか?」
わたしの制止も聞かずに、手を足から太ももに伸ばしてタイツをずり下げる。一緒にショーツが脱げそうになって、慌ててショーツだけは死守した。
「あの、待ってください、わた、汗かいてて、その、せめてシャワー」
「だめだ」
わたしに跨がるようにベッドに乗り上げてきたので、腰を引いて逃げる。それがベッドの奥へ倒れ込む動作になることなんて忘れて。
「ま、まだ昼間じゃないですか」
「だからなんだよ」
「あ──ほら、天堂さんたちが戻ってくるかも」
「さすがのあいつらも空気読むだろ」
「きょう、可愛い下着じゃないのに…」
「逆に気になる」
じりじりと問答をしている間に、壁際まで追いやられてしまった。カーテンの隙間から明るい日差しが差し込んできて、一部だけ温められた白いシーツが眩しい。
「か、身体がきれいになってから、じゃ、だめです、か…………」
「だめ」と、獅子神さんは短く答えた。その言い方がとても可愛くて、脱げかけたショーツが湿るのを感じた。
「言ったろ。あんたを理解らせるって。オレが聖人君子や王子さまじゃねえって、その身体で覚えてもらわねぇとまた逃げられそうだしな」
わたしの方から逃げるなんてことありえない。獅子神さんがわたしに呆れて捨てるならまだしも。
ふと。
わたしはいままで想像もしなかったことに思い至ってしまった。
「もしかして──瘢痕フェチなんですか?」
「は?」
獅子神さんが見たこともない、ものすごい顔をした。形容し難い表情で固まったのは、的外れすぎたからだろうか、それとも図星だからだろうか。
傷跡に興奮するフェチズムを持つ人がいるらしいことは聞いたことがある。
あれ? もしかして治療なんてしないほうが獅子神さんに好いてもらえる可能性があるのでは? というか傷が治ってしまったら、面白みのない、特徴もない、ただ卑屈なだけの女が世界にひとり増えるだけなのでは?
わたしにこんなに優しいのも。右手の傷口をお揃いだと示してくれたことも。わたしを抱いてくれたことも。わたしの身体を見て萎なえなかったことも。そういうフェチだったなら合点がいくのでは?
なんてわたしに都合の良い話なんだろう。
いままで「身体目当て」なんて自分には無縁の言葉だと思っていた。わたしの傷痕は、わたしの身体は、わたしは──とても恥ずかしい存在で。可哀想もしくは気持ちの悪いもので。決して受け入れられることなんてないと思っていたのに。
(なあんだ、よかった)
わたしの心に満ちる大きな安堵。納得。一方、未だに口を開いたまま静止している獅子神さん。わたしの言葉が分かりづかっただろうか。「あの」と補足をしようとした。
「ケロイドっていうのはですね、」
「──こんなに腹立ったのは久しぶりだ」
説明しようたしたわたしの言葉を遮る。それは静かな怒りに満ちた声だった。低くて冷たくて重たくて鋭い声。
「いま、『良かった』って思ったろ」
「な、なんで」
心を見透かされてしまって、ぎくりとする。
「オレがそういう性癖野郎だったら、あんたはその身体で良かったって納得しちまうんだろ。虐待されてたことも痛かったことも色々言われてきたことも、全部許せたりするんだろ。ふざけんじゃねぇぞ」
獅子神さんは本当に怒っていた。額に青筋を立て、チャーミングな垂れ目を釣り上げて、握り拳をわなわなと震わせて、目を真っ赤にしていた。
「オレは、あんたをこんな目に合わせた奴を殺してやりてぇとずっと思ってんだ。あんたがされたことを百倍にして返してやりてぇと思ってんだ。それを性癖のひとつで片付けやがって」
ふざけんな、と獅子神さんは吐き捨てた。その顔が、声が、いまにも泣き出してしまいそうで。
「──ごめんなさい」
心からの謝罪だった。本当に、わたしは馬鹿だ。想像を広げるばかりで、ちゃんと考えていなかった。彼の優しい心を蔑ろにした。わたしは獅子神さんの首に手を伸ばして抱きしめた。わたしの皮膚に獅子神さんのあったかい涙が落ちる。
「納得すんじゃねぇ。許すんじゃねぇ。良かったとか思うんじゃねぇ。あんたはただ、オレに惚れられたから抱かれるだけなんだよ」
つうか、と獅子神さんは言う。拗ねた子どものように。
「そういうシュミだったら、わざわざ病院紹介するわけねぇだろうが。いっとくが、オレは妥協なんてしねえでめちゃくちゃ腕の立つ女医を探して来るからな。あんたが望むなら完ッ璧に治させる」
思わず吹き出してしまった。
そりゃそうだ。
「獅子神さんて、わたしのこと、普通に好きだったんですね」
わたしは泣き笑いしながら獅子神さんを抱きしめた。仕返しのようにぎゅう、と抱きしめ返される。苦しい。でも嬉しい。
「普通じゃねぇ、めちゃくちゃ好き」
ああ、大好き。
わたしは首を伸ばして獅子神さんに口づけた。あまりにきつく抱きしめられているので、顎にしか届かなかったけど。獅子神さんは驚いた表情をした。そうか、わたしからするのはこれが初めてなんだ。そう思うと、すごく照れくさくなった。
//////////「理解らせてやる」なんて怖いことを言いながら、獅子神さんははじめてのときより一層優しくわたしを抱いた。「王子さまなんかじゃない」なんて言ったくせに、ほんとうの王子さまみたいに。
今度は気絶することもなく、ピロートークなるものまで。気まずさと恥ずかしさで顔を上げられないわたしを覗きこみながら「身体つらくねぇか?」「水飲むか?」「気持ちよかったか?」と尋ねてくる。なにが理解らせるだ、とびっきり優しい獅子神さんのままじゃないの。
「こんなに優しくして、わたしを『理解からせる』んじゃなかったんですか?」と照れ臭さを隠すために揶揄い半分で聞いてみたら、「こんだけオレに愛されてるって分かっただろ」と反撃されて、今度こそわたしは何も言い返せなかった。
言葉通り、反論の余地もないくらい、理解らせられてしまった。