#05 獅子神敬一は□□□になりたい

─1─

「お話があるんです」

 あまりに真面目な声色に、思わず洗っていた皿を落としそうになった。

「おう、なんだ?」

 そんな動揺を余裕のある表情で覆い隠し、スポンジの泡を切って水を止める。これが最後の一枚だったので、ゆっくりと水切りカゴに運びつつ、頭の中ではぐるぐると思考が巡る。ナマエも皿洗いの終わりを見極めて話かけてきたのだ──軽い世間話ではないのだろう。

(別れ話か? こないだの制服プレイがやり過ぎだったか? あれから一週間も経ってるから違うか。いや、こいつのことだから言い出せなかったたけかもな。しかも「今度はスク水で頼む」とか言っちまってるじゃねーか。フォローが足りなかったか……それ以外になんかあったか? オレはどこで何を見落とした?)

 ギャンブル中と同じくらいに頭をフル回転させながら、ナマエが差し出してきたスマホの画面に目をやる。

「こ、これ、なんですけど」

 画面に映るのは、真経津に撮られたスーツ姿だった。

 クラブ「Over Kill」で京極たちをボコったあと、「記念撮影しよー!」とか言い出して撮られたやつ。死んだ顔の大学生二人を(片方は鼻血を出してピースさせられている)、オレと真経津、村雨が囲んでいる。いったい誰がこんな画像をこいつに渡したのか──馬鹿でもわかる。

「なんか聞かされたか?」

 先日もナマエに余計なことを言っていたあいつのことだ。ギャンブルのことをポロッと零したかもしれねえ。違法賭博をしている時点で、ここに映っている連中は全員漏れなく犯罪者だ。

「あの。こ、この服、着ていただけませんか」

「は?」

 改めて写真を見直す。ブラックシャツにホワイトのスリーピース。グレーのネクタイ。真経津の野郎にパーティーと聞いていたから、それらしく着飾っていた。

「いま?」

「いえ、その、あの……もし、ご都合が良ければ、一緒にパーティーに参加してほしくて」

「パーティー?」

「お世話になっている出版社の創立記念パーティーに呼ばれていまして。お連れさまもぜひって聞いたので、あの、……」

「いつだ?」

 ナマエはスマホ手元に向けると何度かタップして来月の日時を告げた。問題ないと告げると、ナマエは見るからに安堵する。こないだコスプレまでし合ったってのに、この程度の〝お願い〟にもまだ尻込みするようだ。

「日程は大丈夫だ。つーか、そのくらい、パーティーじゃなくても着てやるよ」

「いま着てもらっても、十分かっこいとは思うんですけど……」

 後ろめたそうに口籠る。わざわざ一緒に行ってほしいということは、何か不安要素があるんだろう。そもそも、こいつは社交的な性格でもない。オレを頼ってくれているんだ、何もいますぐ聞き出す必要はないだろう。

「パーティーならあんたのドレスも買いに行かなきゃな。せっかくだし、いまから出かけるか?」

「わ、わたしも手持ちで合わせるので大丈夫ですよ。誕生日に着てた、紺色の……」

「あれもすげー似合ってたけど。せっかくだから買っちゃダメか?」

 オレはしょぼくれた(ように見える)顔で、困った(ように聞こえる)声色で尋ねた。早速ナマエがグラついている。

「……じゃあ、獅子神さんに選んでもらおうかな」

「よし、待ってろ。すぐ準備する」

「獅子神さんは選ぶだけですからね?」

 一緒に買いものに出ると、ついナマエの目に留まったものを勝手に支払っては叱られるのが常態化していた。正直言って、こいつから叱られることさえ楽しいのだから、貢ぐ以外の選択肢がない。

「オレが着てほしいのを勝手に買うのはセーフだろ?」

「えっちなのもダメです」

「そりゃ難問だ。どんな服着せても脱がせたくなる」

「…………獅子神さんのえっち」

 不服そうな声で唇を尖らせているが、恥ずかしそうに逸らされた瞳は嬉しさを隠しきれていない。

「てか、なんでその画像持ってんだよ」

「村雨先生にお願いして送ってもらいました」

「そっちかよ! よりによって……、なんて頼んだらソレが出てくんだよ」

 違法クラブが背景の写真じゃなくても、もう少しなんかあっただろうに。……いや、わりとトンチキな集まりや黎明のグッズを身につけさせられたみっともねー格好も多いな。

「……し、獅子神さんのかっこいい写真ください、ってお願い、しました」

 勝手にすみません、とナマエは小声で付け加えた。スマホを守るようにサッと両手で覆う。別に消しやしねぇっての。

「へえ。こういう格好が好きなんだな」

 悪い気はしなかった。オレの写真フォルダを漁るでもなく、他人にこっそりもらうところも健気だ。その相手が村雨って言うのは()に落ちねえが。

「すき、ですよ。かっこよくて」

「そっか」

 恥ずかしがるくせして真っ直ぐな言葉に、思わず笑みが溢れる。これまで身体や言葉を重ねて、ナマエはベッドの外でも気持ちを伝えてくれるようになった。すき。だいすき。かっこいい。素敵です。そのひとつひとつが嬉しくて、幸せなのに──どうしてオレは、まだ満たされないのだろうか。どうしてオレは、賭場から足を洗えないのだろうか。

//////////

「あぁ!? 聞いてねえぞ」

「いま初めてお伝えしましたので」

 オレの担当行員である梅野は、恫喝(どうかつ)じみた怒声にビビることもなく、いつものロボット然とした表情で淡々と繰り返した。

「明日、獅子神様の試合が組まれます」

 カラス銀行に呼び付けられたかと思えば、唐突に次の試合日を告げられたのだが──それがよりにもよってナマエに誘われた記念パーティーの日時に被ってやがる。

「断る」

「理由をお聞きしても?」

「先約が入っている」

「こちらを優先してください」

「知るか。いつまでもテメェらの都合に従うと思うなよ。こっちは掛け金渡して降りてもいいんだ」

「無論、どうしてもと仰るなら、それ相応の処置は可能です──が、今回のゲーム、あなたは降りない方が良い説が有力です」

「……詳しく聞かせろ」

 結果、オレはナマエよりギャンブルを優先させた。

「仕事の予定が入っちまった」と電話で告げたとき、ナマエは「それなら仕方ないですね。気にしないでください」と笑っていた。

「すまねえ。埋め合わせはするから」

〈大袈裟ですよ。そんなこと言われたら、わたしの方が埋めなきゃいけない穴が多過ぎますって〉

「本当に悪い。こないだ『なんでもする』なんつったのによ」

 よりにもよって、無理してコスプレをしてもらったときの発言でなければ。

 ナマエはオレを責めることなく、むしろこちらを気遣うような言葉ばかり並べて電話を切った。

 どんよりとした心の奥底に、幼いオレが顔を出す。澱んだ瞳で大人のオレを睨みつけて、ほろほろと文句を垂れる。

《嘘つき》

《僕だって、授業参観に来てほしかったのに》

《運動会で一緒にお弁当を食べたかったのに》

 小学校の三者面談に母親が来てくれなかったとき。「確変が止まらなくてさあ」と 渡されたチョコレートが嬉しかった。お母さんはきっと大事な用事で来れなかったんだって自分に言い聞かせて、大事に大事に舐めるように食べた。

 ──いい子にしてたら買ってあげるから。

 ──今度海に連れてってあげるから。

 ──次はちゃんと約束守るから。

 約束しておいて、期待させておいて、結局は何もしてくれない。頭では分かっているのに「次は」と言われれば期待してしまう。そしてまた裏切られる。

 それでも本当に母親を嫌えなかったのは、あの日のチョコレートがオレの小さな成功体験だったからだ。

《お母さんが僕に申し訳ないと思ってくれた》

《本当は来てくれるつもりだったんだ》

 そうやって自分に言い聞かせて、自分は可哀想ではないと思い込んで。あの日の母親と、いまのオレと、何が違うんだ。「来てほしい」と伝える勇気の大きさも、「いいよ」と答えてもらったときの嬉しさも、たくさんの□□□のなかでひとりぼっちの寂しさも、オレ自身がよく分かっているはずなのに。それなのに、ナマエを選べなかった。

《大人の僕が約束を守れないのも、しょうがないよね。大丈夫だよ。ナマエも僕と同じだから。諦めてくれるし、許してくれるし、嫌わないでくれるよ。そうでしょ?》

 オレはいつまでも、あの日の自分に渡せる言葉を見つけられない。

//////////

〈いまから会場に向かいます。獅子神さんもお仕事頑張ってくださいね〉

「獅子神さま。通信機器をお預かりします」

「一言返信するだけだ。あと五秒くらい待てるだろ」

「本日は気合いが入っているようですが」

「最速で終わらせる。悪ぃが見所なんて作ってやれねえ。迎えくらいには行きてえからな」

「差し出がましいですが、担当行員としてひとつ助言を。二兎追うものは一兎も得ず。欲張って気持ちが逸ると勝機を逸する説が有力です──ハーフライフの名は伊達ではないのですから」

「はん。胴元がギャンブラーに説教かよ。欲張るなだと? 欲がなくてギャンブラーができるかよ」

 梅野はそれ以上余計な口を開かなかった。

 分かっている。梅野の言うことは(もっと)もだ。このランクには、オレが全力でも叶うか分からねえバケモンたちがうじゃうじゃいるんだ。目の前のこと意外に脳のリソースを割いている余裕はひとつもない。そんな甘さじゃ生き残れない。

 オレがやるべきとことは、戦って勝つ。無傷で帰る。それだけだ。

 最速で勝とうなんて本気で思うわけがない。いつも通り、オレは貪欲に、臆病に、着実に勝つ。

「さあ、とっとと始めようぜ。後の予定が詰まってんだ」

 そして扉は開かれる。

[chapter:─3─]

 足が痛い。

 慣れないヒールを履いてくるもんじゃなかったなあ。担当編集者さん以外に知り合いのいないわたしは、早々に壁の花と化していた。

 場内は賑やかで、歓談の声があちこちから聞こえてくる。壁際に並べられた椅子に根を張って動かないでいるのはわたしくらいだ。

 こういった催しに誘われることは、いままでにも何度かあった。顔の傷を理由にこれまではすべて断っていたけれど、本当はどんな感じなのか興味があった。華やかなんだろうな、あとがきで名前を見かける名物編集者さんがいたりしないかな、憧れの作家さんに会えるかな。──そんな、子どもがヒーローショーに行くような気持ちで来てしまった。

 傷のない顔になって、身の丈に合わない欲が出てしまったのかもしれない。本来、こんな華やかな場所が似合う人間でもないのに。

 獅子神さんにあのスーツを着てほしかったのは本当だ。そばにいてくれたら、初参加の緊張が和らぐと思った。でも、思考の片隅には、みんなに獅子神さんを自慢したいという思惑がほんの少しだけ──でも、確実にあった。みんなって? 見知らぬひとばかりのパーティーで、いったい誰に虚勢を張ろうとしていたんだろう。獅子神さんがかっこいいのは、わたしの手柄なんかじゃないのに。きっと、獅子神さんが急な仕事で来れなくなったのは、せせこましいわたしへの罰なのだろう。

「お隣、よろしいですか?」

「あ──はい」

 不意に声をかけられて、思わず声が上擦った。ロマンスグレーが魅力的な、年配の男性だ。編集部っぽくはない。企業関係者か、作家さんだろうか。後者ならば、名前を聞くのは失礼に当たるかもしれない。

「新人さんかな?」

「あ、わたくし、ミョウジと申します。カラス出版さんに何度かお世話になっていまして」

 慣れない手つきでわたわたと名刺を差し出す。担当編集者さんの佐倉さんが作ってくれた、簡素なものだ。滅多に渡す機会がないので、ちっともマナーに(のっと)った渡し方ができなかった。

「失礼。同業者でしたか。ではわたくしも」

 いただいた名刺の名前を見て目が飛び出そうになる。お顔は存じ上げなかったが、著名な小説家だ。わたしも単行本を何冊か持っている。

 こんな大作家に声をかけられるとは思わず、わたしは立ち上がって頭を下げ直した。肩書きで態度を変える人間だと思われただろうか。

 名刺を受け取る指も、慣れないヒールもぷるぷると震えてしまう。「どうぞお座りください」とにこやかに笑われながら、手を引かれて着席させられてしまう。

「す、すみません、こういった場所に慣れていなくて」

「はは。ずっと居心地悪そうにされていたので、そうだろうなと。──失礼、ジジイのお節介と思ってくだされば」

「ありがたいです。連れが仕事で来れなくなってしまって、ひとりぼっちだったもので」

「はは、酔い覚ましになりましたかな」

 え、と首を傾げた。乾杯酒を一杯飲んだきりで、まったくの素面だ。ふらついたり指が震えていたせいだろうか。恥ずかしくて顔が熱くなる。

「もし体調が悪いなら──」

「悪い、待たせた」

「獅子神さん」

 ──なんで?

 呆気に取られたまま獅子神さんを見上げていると、「遅れてすまなかった」と改めて頭を下げられてしまう。ああ、やっぱりすごく似合うなあ、そのスーツ。

「お、お仕事だったので仕方ないですよ。時間、大丈夫だったんですか?」

「ソッコーで終わらせてきた」

 見れば、額に汗をかいている。本当に大急ぎで来てくれたんだろう。嬉しくて喉の奥が熱くなった。

「会話を遮って申し訳ありませんでした。ミョウジ先生の付き添いの、獅子神と言います」

 襟を正して先生に向き直ると、キビキビとした挨拶をした。わたしなんかと比べものにならない「ちゃんとした」感がある。本来なら、わたしが介して両者を紹介するのがマナーなのだろうが、そんなことは頭からこぼれ落ちて、獅子神さんの苗字呼びと先生呼びに胸を高鳴らせることしかできなかった。

「間に合って良かったですね。ちょっと酔いが回っているようですから、気にしてあげてください。では、ジジイはこれで退散しましょう」

 ほっ、とわたしは背中を見送りつつ安堵のため息を吐いた。会ってみたかったとはいえ、偉い先生とあのまま会話が盛り上がるとは思えなかったので、獅子神さんが来てくれて本当に助かった。

「知り合いか?」

 わたしの隣の椅子に腰掛けつつ、獅子神さんが耳打ちをした。熱い吐息が耳にかかって、またどきりとしてしまう。

 いただいた名刺を見せつつ、すごい先生に声掛けられちゃいました、と報告した。開幕早々、ぼっちで壁の花になっていたことはあえて口にしなかった。

「何か軽く取って来るから、ここにいてくれ」

 先生が去り際に一言添えてくれたからだろうか、到着したばかりというのに、獅子神さんは早速わたしのお世話を焼こうとしている。

「あ──わたし、全然酔ってないんですよ。お酒も一杯しか飲んでなくて」

「足、痛ぇんだろ? 無理すんなよ」

 バレてる。わたしはスッと足を引いて踵を揃えた。気まずさはもちろん、ちょっと嬉しくてくすぐったい気持ちになる。

「オレの上着、預かっててくれ」

 言って、獅子神さんはジャケットを脱いでわたしに手渡してくれた。獅子神さんの香りと体温が残る、ほかほかの──だめだめ、変態みたいなこと考えちゃダメ!

「あ、あの、獅子神さん」

 席を離れようとする獅子神さんを呼び止めて、耳打ちできる距離まで近づいてもらった。いまじゃなくてもいいけど、いま伝えたくなったから。

「やっぱり、すごくかっこいいですね。惚れ直しました」

[chapter:─3─]

 嬉しいこと言ってくれんじゃねぇか。

 ナマエがど直球の褒め言葉をくれて、オレは心底浮ついていた。

 賭場から駆けつけた甲斐があるってもんだ。会場に飛び込んでナマエの姿を探し、目に留めたとき。見知らぬ男に手を引かれて椅子に座らせられているように見え、思わず割り込んでしまった。どうやらナマエの憧れの作家だったらしい。ガン飛ばさなくてよかった、と後から胸を撫で下ろした。

 バイキングのテーブルから、ちらりとナマエの方を見る。オレの白いジャケットを膝に掛けて、壇上で話す演者に顔を向けている。その横顔が、見惚れるほどにきれいだ。

 男避けに上着を預けて来てよかった。ドレスアップしたナマエは、惚れた欲目を差し引いても美しかった。ちらちらと視線を送る男たちの目がうざってぇくらいだった。さすがオレの選んだドレスだけあって、ナマエの魅力を最大限に引き立てている。髪を編みあげて顕になった首筋と、慣れてなさそうな高いヒールが、いつもの愛くるしさを妖艶さに昇華させていた。そんな彼女がどれだけあどけなくて心底愛くるしいのか、知っているのはオレだけでいい。

 史上稀に見る早試合にVIPたちの心証は悪そうだと運転席で梅野が言っていたが、知ったことじゃない。オレが駆け付けなかったから、こんないい女にはすぐハイエナが群がったことだろう。

「わー、美味しそう!」

「好きなもん食えよ。オレ、先に済ませて来ちまったから」

「会食だったんですか?」

「まあ、そんなもん」

 ハーフライフは対戦相手だけではなく、銀行側の悪意も読み取らなくてはならない。餓死に備えて、頭が鈍らない程度に胃に入れて行くようにしているのだ。

 生ハムやチーズ、オリーブなど、ナマエは意外にも酒に合いそうなものが好きだ。まだ腹に余裕がありそうだから、次はローストビーフと飯系を取って来てやろう。デザートはチョコケーキが良いだろうか。

「獅子神さん」

「ん?」

「あ、あーん」

 フォークに生ハムを巻きつけて、ナマエが控えめに差し出してきた。

「こ、これなら獅子神さんも食べれます、よね? ほら、わたしばっかり食べてて、は、恥ずかしいから……」

「あーん」は恥ずかしくねぇのかよ。思わずツッコミそうになるのを耐えて口を開ける。震えるフォークがちょっと怖かった。慣れねぇことすんなよ、とも言い難い。嬉しすぎるからだ。

 ニヤケ顔を隠すようにシャンパンを煽る。

「きょう、お酒いいんですか?」

「ああ。送ってもらった。帰りはタクシーだ」

「獅子神さん、あの、本当にありがとうございます。来てくれるなんて、思ってなくて。嬉しいです」

 そんなことでお礼を言われると、嬉しい反面罪悪感が湧く。そもそもドタキャンをしたのはオレの方だ。

「本当によかった。わたし、挨拶で登壇しなきゃいけないので心細かったんです」

「挨拶?」

「はい。カラス出版さんは、もともと児童向けが弱かったんですけど、わたしの本が結構評判良かったらしくて。今度新規レーベルを設立するそうなんですが、初回刊行で書き下ろしを出させてもらうことになったんですよ。それで、なんか一言挨拶をお願いされちゃって」

「おいおいおい。聞いてねぇぞ」

「た、大したことじゃないんですよ。ほんとに。賞をもらったわけでもないし、不参加の先生の代わりだし」

「はー。言ってくれたら、もっと良いドレス買ったのによ」

「だから言わなかったんです! わたしはこれで十分ですよ。すごく気に入ってるんですから」

 こんな気さくな言い合いをできるようになったのもなんだか良い気分だ。オレは唇を寄せて「似合ってる。オレも惚れ直した」と耳打ちした。

「うわ、どこぞの美男美女がイチャついてると思ったら、ミョウジ先生じゃないですか」

「あ、佐倉さん」

 どうやらナマエの担当編集者らしい、若い女性が声をかけて来た。どうやら、あと三十分後くらいに登壇予定なので知らせに来てくれたらしい。

 ナマエと打ち解けている様子から察するに、関係性は良好らしい。オレはなるべく好印象を抱かせるべく、明るいトーンで挨拶をした。

「聞き及んでおります。素敵な彼氏さんだって惚気話をたーくさん」

「へぇー?」

「ちょっ、そんなに、そんなには言ってないです! ねぇ佐倉さん!」

 そんなに、ってことはそこそこ惚気てるのか。是非とも詳しく聞いてみたいものだ。ふたりの間で慌てるナマエは、普段通りの愛嬌が出て緊張の色が消えている。

「この通り先生は照れ屋ですので、登壇のときはぜひエスコートしてあげてください。ヒールだと階段もお辛いでしょうし。またお声がけしますので、あと十分ほどしましたら、舞台の近くに移動いただけますか?」

「ああ」

 ナマエの代わりにオレが頷くと、彼女は忙しそうに早歩きで去っていった。ナマエの担当がハキハキと仕事のできそうな女性で安心だ。

 やがて登壇の時間が迫り、ため息を吐いてはカンニングペーパーに目をやるナマエを、予定通りにエスコートをする。オレの左腕に添えられた指先はぷるぷると震えていた。

 賭場で一挙手一投足を注目されているオレからしたら、なんてことない視線の針。それでもナマエにとっては(むしろ)のようだったろう。

 とても短く簡素な挨拶と祝辞を述べたナマエに右手を差し出すと、ホッとした顔で左手を重ねてきた。指先がオレの古傷に触れる。ああ、生きて帰って来て良かったと、約束を守れてよかったと、心から思った。

《本当に?》

《本当にナマエはそう思ってるの?》

 ──うるさい。頭の声がうるさい。惨めなオレよ、頼むからこいつがいるときは出てこないでくれ。

 オレはいま幸せなんだ。楽しいんだ。満足してるんだ。そうだろう? ナマエにもこのオレを満たせなかったら──いったいオレは、いつ満たされるんだ? いつ100点になれるんだよ。

「獅子神さん? 顔色悪いですよ」

「あー、そうか?」

 賭場の緊張、焦燥、不安、興奮、解放。試合が終わったあとはアドレナリンが出まくって自立神経が乱れる。

 非日常から日常に戻るために、手料理を食ったり真経津たちに会ったり、オレなりのスイッチをいくつか持っているが──今回は急いだあまり、切り替えが上手くできていない。

「帰りが混み合う前に、退散しちゃいましょうか?」

「いいのかよ」

「大丈夫です」

 ナマエは柔らかい笑顔を返した。

「佐倉さんにも、挨拶終わったら帰っていいって言われているので。それに、実はパーティーってちょっと苦手なんですよ」

 重大な秘密をバラすように、ナマエは唇に人差し指をあてて囁いた。実はも何も、想像通りだ。

 記念品を受付で受け取り、ナマエだけ化粧室に向かった。オレは心を落ち着かせるため、ロビーの椅子に腰掛ける。

 ナマエが戻ってくるまでに気持ちを切り替えねえと。

「あのう」

 着飾った二人組の女性が声をかけてきた。酒が入っているのか、ややテンションが上がり気味だ。「ほらほら、行きなよ!」「えー」とか、こっちに聞こえる音量で(じゃ)れている。

「わたしたち、白鳥印刷の者なんですけど……」

「悪い。オレは関係者じゃないんだ」

「そ、そうですか」

「あのっ、連絡先の交換だけでも!」

 やんわりと拒絶の空気をつくってやったのに、金魚のフンの方が食い下がってきた。めんどくせえ。

「連れを待ってるんだ。わからねぇか?」

 睨みつけてようやく引き下がって行った。

 はあ、とため息を吐く。

「──彼氏がナンパされてんだから、助けに来てくれよ」

「うぇっ」

 トイレ前のパーテーションから、小さな悲鳴が上がる。そっとナマエが顔を出した。ルーバーに小柄なシルエットが浮かんで、見え見えだ。

「こっち向いてなかったのに、何でわかったんですか?」

「オレは背中にも目があんだよ」

「だるまさんがころんだで無双できますね」

「なんだそれ」

 ガキっぽい答えに思わず噴き出した。

 まだスイッチは完全に切り替わっていないが、ナマエのおかげで気分が晴れた。

 タクシー乗場のある一階のフロントまでエレベーターで移動する。まだパーティーは盛況のようで、下りのエレベーターにはオレたちの姿しかない。

 ナマエがちらちらとオレを盗み見るから、耐えきれなくて「どうした?」と尋ねる。目の前でオレがナンパされているのを見て、心穏やかじゃないようだ。もっと冷たくあしらうべきだったか。

「や、えと、やっぱり獅子神さんって、わたし以外から見てもカッコよかったんだなあ、って実感して……」

「なんだそれ」

「すみません。声をかけられてるのを見てて『そうでしょー! 獅子神さんかっこいいですよねぇー!』って嬉しくて」

 マジでなんだそれ。嫉妬してくれたんじゃねえのかよ。少しも心配されてないというのは、それはそれで複雑だ。

「あっ、すみません、獅子神さん困ってたのに……。つ、次があったらちゃんと駆けつけますので!」

 オレはナマエを壁際に追い詰めて頭上に腕をついた。いわゆる壁ドンの体勢で、その顔を覗き込む。珍しく(まぶた)に載せているラメ入りのアイシャドウがキラキラと目元を輝かせていた。

「ヤキモチ焼いてくれたりしねえの?」

「わ、わたしなんかが嫉妬するのも烏滸(おこ)がましいというか……その……すみません、はしゃいじゃって。すごく綺麗な方だったから──」

 わたしなんか、という言葉を久しぶりに聞いた。ナンパ男と誤解されるのはごめんだが、ヤキモチなんて焼いてくれたらくれただけ、めちゃくちゃ嬉しいのに。

「オレ、モテるからな。次はちゃんと割り込んでくれよ。『わたしの彼氏に粉かけないでくれます?』って」

「そ、そこまで言えるかなぁ……」

 不安そうに唇を(いじ)っている。ただの冗談ではなく、できるかどうか本気で悩んでいるのがこいつらしい。

 リップのフィグ色が移った親指を取って、手を握る。もっともっと、オレをこいつのものにしてほしい。どうしたら、オレを手放さないでくれるだろうか。どうしたら、オレを惜しんでくれるだろうか。どうしたら、どれだけ求められたら、オレは満たされるんだろうか?

「汚名返上させてくれ」

「え、なんかやっちゃいました?」

「何でもやるって約束、守らせてくれ」

「ちゃんと来てくれたじゃないですか」

 ドタキャンで遅刻の上、早退という散々な結果なのが問題だ。オレは何ひとつ満足していない。

「オレが納得してねえの。無理難題でオレを困らせてくれよ。あんたのために、何かしてーんだ。無性に」

 口に出した後に(お願いする側が言う科白(せりふ)かコレ?)と疑問が沸いたが、無視することにした。

「……仕返し」

「ん?」

「そこまで言うなら、仕返ししちゃいま、しちゃうよ、敬一くんに」

 たどたどしく演技がかった科白に、どくんと心臓が高鳴る。いろんなものでゴチャついていた頭が、一気にあの日のコンセプトルームに書き換えられる。賭場の興奮から冷めかかった脳に、ビリビリと電流が走るようだ。どくん、どくん、どくん、と身体の外にも響きそうなほどに鼓動が大きく、早く高鳴る。

「は──はやく、おうち、かえろ」

 もうとっくに一階についていたエレベーターの床を見つめながら、ナマエは小さく、しかしはっきりと、オレを誘った。

[chapter:─4─]

「よ、汚しちゃうかもしれないんですけど──このまましても、いいですか?」

「もちろん」

 ナマエにしては珍しい提案だ。どれだけオレがシャワーを浴びずにそのまま抱きたいと言っても、絶対に良いと言ったことはなかったのに(ダメを言わせないようにそのまま抱いたことはあったが)。

「け、敬一くんは、えっちな悪さをたくさんして、わたしをいじめました。ので、お仕置き、です」

 制服コスプレ時のことを言っているのだろうが、どう聞いてもご褒美の気配しかない。〝えっちな悪さ〟? 〝わたしをいじめました〟? 〝お仕置き〟? オレのことを興奮させる単語選択としか思えないが、こいつは本気でそう思っているのだと分かってしまう。

 書斎──旧土下座部屋の椅子にオレを座らせると、おずおずと「縛っていいですか?」と尋ねてきた。きょうはコスプレをしていないせいか、どうにもロールプレイングに身が入っていないようだった。幸い衣装も小道具も、未使用品が山ほど寝室のクローゼットに入っている。「好きなもん使っていいぞ」と言ってナマエが部屋を出てから五分後、何も持たずにすごすごと戻って来た。

「……あの、何をどう使えばいいか分からなくて……」

 しょぼしょぼの凹み顔でそう助けを求める姿が珍妙で、オレは盛大に噴き出してしまった。ナマエはいじけた目でオレを睨み、「もういいです」と()ねた声を上げた。

「待て待て。一緒に選ぼうぜ。きょうはオレのこと責めてくれんの?」

「なんで楽しそうなんですか!?」

 そりゃあ、ひと通りの苦痛に慣れてしまっているから。過去にも、賭場にも、オレは叩きのめされて強くなった。ナマエの精一杯の責めなんて、興奮が(つの)るばかりで恐怖どころではない。

「どういうのがしたいんだ?」

「えっと、獅子神さんを動けなくしたくて」

「拘束具だと……これかな」

「痛くないですか?」

「あんたに使う前にオレで試せるならちょうどいいだろ?」

「……」

「あんたに使う前にオレで試せるならちょうどいいだろ?」

「聞こえなかったわけじゃないです」

 といった流れで云々。

 ナマエが「えっちなお店が開けそう」と呆れるほど仕入れていた中から、いくつかを書斎に持ち寄って、オレは改めて椅子に腰掛けた。

 ジャケットを脱ぎ、背もたれに腕を回して両手に手錠をかける。内側がタオル生地になった安全仕様だ。オレの手首には窮屈だが、ナマエにはよく似合うだろう。

「痛くないですか?」

「全然」

 強いて言えば、胸を張る体勢をとっているのが息苦しいくらいだ。クラブで雑魚狩りしたときから、オレの胸筋もだいぶ成長している。

「獅子神さんを見下ろすの、なんだか新鮮です」

 どこか嬉しそうにナマエが囁く。オレの頬を撫でる手つきが気持ちいい。見下ろされるのも悪くない。それが騎乗位でなくても。

「光栄です、センパイ?」

「……余裕だなぁ。後悔しても知り、しらない、よ?」

 そしてオレの視界は真っ暗になる。アイマスクを被されたのだ。髪が乱れないように気を遣われながら、優しく塞がれる。

 暗闇。

 視覚以外の感覚に意識を集中させる。珍しく香水を(まと)っているおかげで、ナマエが近づけばすぐにわかる。優しく顔や身体に触れたあと、ベストとシャツのボタンを上からひとつひとつ外されていく。

 はあ、とため息を吐いたのが聞こえた。

「……かっこいい」

「これから毎日着るか?」

「たまにでいいの。かっこよすぎるから」

 つん、と胸板を指で(つつ)かれる。

 ぎこちない手つきでオレの素肌に手を触れる。最初は指先だけ。次第に手のひらで。そして乳首を。ナマエと違って平べったく下を向いた、可愛げのない突起だが、すりすりと両方を同時に責められる。快感よりもくすぐったさに身を(よじ)らせた。

 ちゅ、と頬に柔らかい感触が触れる。リップグロスの油分が肌に違和感を残したまま、唇は頬から首へ、鎖骨へ、胸へと降りていった。

 わざとらしく音を立て、ぢゅっ、と乳首を吸われる。唾液をたっぷり含ませた舌で、乳頭を包み込んでから圧迫するような吸い方。唇で囲って舌先で(もてあそ)ぶような動き。──いつものオレを真似してんだ、こいつ。

 ああ、好きなんだな。

 ナマエは胸を──乳頭を(いじ)られるのがいちばんのお気に入りだ。乳房を下から持ち上げて、外から内へ指でなぞって、乳輪にくるくると触れてから、乳頭の側面をすりすりと(こす)られるのが好きだ。ちょうどこんな風に。

 あんまり気持ちいいから、オレにもしてあげようとしてんのか? 身体の芯が熱くなるのは、決して肉体的な興奮だけじゃない。ナマエが触れたところから伝わってくる「してあげたい」をいますぐお返ししたくなる。

 乳首がびんと勃ちあがったら、指先でぴんぴんと弾くのもお約束だ。下半身に熱が溜まる。ああ、早く触ってほしい。こんなもどかしいものじゃなく、直接的な快感を与えてほしい。

「まだ笑う余裕があるの、ずるいよ」

 不満げな声が降ってくるが、見当違いだ。歯を剥き出しにした犬が口角を上げて見えるように、オレの獣性が抑えられなくなっているだけだ。笑っている自覚すらなかった。けど、余裕がないときほどギャンブラーは笑うもんだ。

「まだまだ期待していいんだよな?」

「……がんばります」

 ナマエの指先がオレの腹筋をなぞった。急な感触に思わず腹を凹ませる。そろそろ気づいただろう、怒張して勃ちはじめたオレのペニスに。

 ベルトを外すのに苦戦したあと、ジッパーが下される。下着越しにすりすりと撫でられる感触に腰が動きそうになる。

 下着を下ろしやすいように腰を上げてやると、意図を汲んでスラックスごとずりさげてくれた。外気に触れた下腹部が一瞬冷めた後にじんと熱くなる。

 ナマエの視線が注がれているのが感覚で分かった。オレに見られていない状況なら、どんな表情で見ているのだろう? 存分に見てほしかった。いつもナマエの中を可愛がっている肉棒を。いまは大人しくしているこれがお前をいつも犯してるんだと分からせたかった。

 竿をすりすりと撫でられ、亀頭に口付けされる。相変わらず手つきが優しすぎて刺激が足りない。もどかしい。

「もっと、強く」

「痛くない?」

「痛くしてくれよ。教えただろ?」

 竿を握る力が強くなった。先日のコスプレの際、ナマエの手を握って扱いたときよりは少し弱い。

「もっと」

 オレはねだる。

「もっとだ」

 急にぬるっとした感触が追加される。先走りが垂れて指先を濡らしたらしい。思わず腰が動いた。

「ぬるぬるしてるほうが、きもちい?」

 返事するまでもない。オレは快感に集中するため、無言で頷いた。

 互いの沈黙のあと、ペニスにあったかい液が垂れてくる。──ナマエの唾液だ。おい、待てよ。見せてくれ。どんなツラで唾を垂らしてんだ? そんなのまだ見たことがねえ。見てぇ。

「っは、はぁ」

 口を開こうとしてら、熱い息が荒く音を立てた。

 滑りが良くなって、より一層快感が募っていく。

 ああ、見たい。目隠しを取りたい。知りたい。どんな顔でオレのペニスを扱いている? 気持ち良がってるオレを見て、お前はどんな顔をしてるんだ?

「っ、出そう」

 高められた興奮を放つ──ときは来なかった。

 ナマエの手が不意に離れる。肩透かしをくらって、行き場をなくした熱が不快感に似た熱を帯びて下半身に止まっている。

「準備してくるから、ちょっと待ってね」

「はあ?」

 準備? 何を? なんで? いま?

 足音が部屋の外へ出ていく。おいおいマジかよ。

 寸止め放置プレイとか初っ端からレベル高ぇよ。

 視界と手を塞がれ、オレはナマエの帰りを待つことしかできない。「待て」のままエサの前に放置された犬のように、オレはペニスからカウパーを垂らして待ち続けた。時間にしておよそ五分くらいだろうか。その時間は永遠にも感じられた。

「よいしょっと」

 戻ってきた足音に混じって、たぷんと水音がした。床に何かを置く音。そして衣擦れの音。

 ──おい。まさか、待て。嘘だよな?

 ぱちぱちと静電気の音がする。ナマエがストッキングを脱いでいるのだ。あー畜生、見てぇ。ドレスを着たままストッキングだけ脱ぐとこ、絶対えろい。

 募る興奮の反対側で、オレの悪い予感はだんだんと実感に変わる。ちゃぷちゃぷと粘着質のある水を揉む音。

「あっためてきたから、冷たくないと思うけど」

「待て待て待て」

「痛かったら教えてね」

「おいって!」

 オレの制止に耳を貸すこともなく、〝それ〟は突然オレを襲った。

 亀頭を包み込むぬるっとした感覚。直後に訪れる脳天に響くような快感。思わずのけ反ってしまうくらい、ビリついた気持ち良さが背骨を通って頭から抜けていく。

「あ゙ッ」

 腰が抜ける。

 骨が砕けそう。

 縛られてんのに椅子から落ちそうだ。

 まずい。まずいってこれ。

「ふっ、あ゙、お゙ぁッ」

 しゅっ、しゅるっ、しゅっ、とナマエのストッキングがリズムよく前後左右に滑っていく。寸止めとお預けでいますぐ射精したいのにできない。快感だけが身体に溜まって苦しい。気持ちいい。怖い。

「よかった、ローションガーゼって本当に気持ちいいんですね」

「あ゙、ぁッ──」

 情けねえ声を抑えたいのに止まらない。痛くて苦しいだけの拷問は慣れっこだが、気持ち良くて苦しい拷問なんて初めてだ。

「待っ、たの、むっ! 止め──ッ」

「敬一くんは待ってくれなかったし、止めてくれなかったよね?」

「ゔっ、あ゙、あ゙」

「仕返ししちゃうって、言ったよね?」

「あ゙ッ♡ ゔ、ぁ」

「いっぱい気持ちよくなろうね」

 しゅるっ、しゅるっ、とゆっくりだった動きが、しゅこしゅこと早くなり、より責めたて高めてくる。もう絶頂を通り越しているはずなのに終わりが見えない。イきたいのにイけない。

 そんな拷問が一頻り続いたあと、急に止まった。

「我慢しなくていいのに。気持ちよくなかったですか?」

「っ、は、はぁ、あ、は、ふっ」

 イきたくてもイけねえんだよ。そう言いてぇのに声も言葉も出ねえ。ただ荒く息を吐き、酸素を求めてだらしなく開いた口の端からよだれが垂れる。

「……ものすごくえっち」

 頭上から熱っぽい声が降ってきて、びくりと身体が反応した。

「気持ちよかったんですね? 獅子神さんも気持ちいいと女の子みたいな声出しちゃうんだあ。わたしとするよりも良かったですか?」

 快楽。羞恥。混乱。悦び。渇き。頭が働かない。ナマエの感情が読めない。いま、どんな顔で、どんな気持ちでそんな科白を言ってんだよ。

「ほら。こんな一方的にされると、気持ちいいのが怖くなっちゃうでしょ? わたしの気持ち、少しはわかってもらえましたか?」

「っ、ごめん」

「謝れてえらいね。よしよし」

 頭ごと抱きしめられ、柔らかい胸の感触と香水の香りで頭がいっぱいになる。出したい。イきたい。イかせてほしい。苦しいのに気持ちいい。渇いているのに満たされる。心臓が溶けそうだ。いっそ、身体ごと溶けてナマエと一体になりたい。

 ふっ、と抱きしめられる力が緩んだ。ナマエの腕が解かれる。ナマエの身体が離れる。ナマエが行っちまう。

「っ、ひとりに、しないでくれ」

 がたん、と無理に動かした椅子の脚が大きな音を立てた。縛られたまま立ちあがろうとして、背もたれから腕がすっぽぬけた。その勢いでナマエにぶつかり、慌てて支えられたものの、諸共(もろとも)床に倒れ込んでしまう。

「わわっ──ふぐぅ」

 オレに押し潰されたナマエが苦しそうな声を上げた。抜け出そうとするその細い腰に、オレはぎんと勃ち上がったペニスごと身体を押し付けて床に留めようとした。

 ここで逃げられたら、見失ったら、──オレはひとりぼっちになる。

 そんな恐怖がオレを支配していた。

 ナマエは憧れの視線でオレを見る。金持ちだからとかじゃなく、人間として素晴らしいって顔して、尊敬の眼差しを向けてくる。オレはそんなご立派な人間じゃねえ。それがバレたらどうしようと、ずっと考えている。臆病で惨めなオレを見てがっかりされたくない。置いていかれたくない。オレだけのぴかぴかでいてほしい。

「行かないでくれ。あんたが欲しいんだ。あんたに捨てられんのが怖いんだよ」

「えっ」

 真っ暗闇に、幼少期のオレが顔を出す。身体も心も飢えて渇いて苦しかった思い出がオレを(さいな)む。卑屈なオレがオレに微笑む──《お願いすれば、ナマエはなんでも言うことを聞いてくれるね。奴隷みたいだね》。

 違う。支配したいんじゃねえ。得をしたいんじゃねえ。虐めたいんじゃねえ。敬われたいんじゃねえ。

 聞き分けのいい奴隷がほしいんじゃねえんだ。

 きれいなだけの人形がほしいんじゃねえんだ。

 見返りのない愛がほしい。

 見返りのない愛を与えたい。

 フツーの子どもたちがフツーに持ってた、フツーの□□□ってやつを、オレもほしい。

 オレの言うことを聞いてほしい。オレを振り回してほしい。なんだかんだ言っても最後にはオレのそばにいてほしい。そんな、□□□みたいな。

「ひとりにしないよ」

 柔らかい手のひらがオレの頭を撫でる。

 アイマスクが優しく解かれた。涙で滲んだ目を、蒸れて赤く腫れた瞼を、いまは見られたくねえのに。

「オレは、聖人君子でも王子様でもねえんだ」

「わ、分かってますよ?」

「あんたを性的にめちゃめちゃにしたいし、めちゃくちゃにした上で許されたいんだ」

「ゆ、許したじゃないですか。こ、コスプレもしたし。先輩ごっこも」

「これからも」

「これからも!? 本当に反省してないんですね!?」

「してる。した上で、そうしたい」

 じゃあ、とナマエはため息を吐いた。「もう仕方ないですね」と諦めた声を出した。ああ、いっそ死んでしまいたいと思う。情けなく泣き喚けば、まだここに残ってくれるだろうか。

「許し続けるしかないじゃないですか、これからも」

「──は」

「獅子神さんから言い出したんですよ!?」

「いやあの、オレ、いま、めちゃくちゃカッコ悪い自覚あって……それでも付き合ってくれんのか?」

 ナマエはオレを抱きしめた。抱きしめ返せないから、せめて身体をぐうっと押し当てる。柔らかい。優しい。いい匂いがする。女神がほんとうにいるのなら、きっとナマエの姿形をしているのだろう。

「その、性的趣向を告白するのは勇気が要ったと思いますし、そういう事情なら(やぶさ)かではないというか……」

「……ん?」

「その、SMプレイには詳しくないんですけど、ちゃんと勉強しますし、安全な方法から試してみましょう?」

「ちょっと待て。あんた何か勘違いを」

「わ、わた、わたし! マゾヒストでもサディストでも、獅子神さんなら大好きですから! だ、だから、あんまり思い詰めないで。ねっ? 獅子神さんはかっこいいけど、かっこいいだけが獅子神さんじゃないから。大丈夫だから」

 完全に誤解されてる。外弁慶のカッコつけがマゾをカミングアウトした感じになってる。いや、そりゃ、ナマエの好きにされるのはめちゃくちゃ気持ちよかったけど! またやってほしいくらいだけど! 違うんだって! なんかもっとこう──デケェ感情を爆発させてたはずなんだよオレは!!

「あの、すぐには無理かもですけど、獅子神さんがしてほしいなら、立派な、ご、〝ご主人さま〟に、なりますから……」

 ご主人さま。

 少し前までは(かしず)かれる側だったオレだ。なのになぜだろう。その響きは悪くない──とても、とても良い。

 真剣な顔で「大丈夫」と語りかけるナマエは、オレを安心させようと必死で。まるで迷子の子どもを慰めているようだった。

 その包容力に抗えなくて、オレは訂正もできずに「……うん」と生返事することしかできなかった。

「とりあえず、解きましょうか? 痛かったでしょ?」

 それは、こんなか弱い女を転ばせて押し潰してしまったオレの科白だ。情けねえが、いまは素直に背を向けて拘束を解いてもらった。

 痕ひとつ残っていない手首をよしよしと撫で、まつげに残った涙を親指でぬぐってキスをくれる。

「敬一さん、頑張ったね」

 オレは衝動のままナマエを抱きしめ、再び床に倒れ込んだ。

 頭を打たないように腕を挟むのは忘れなかったが、硬い床の感触に申し訳なくなる。きょうのオレは、ナマエをがっかりさせるところしか見せていない。

 オレの背中をぽんぽんとナマエの手のひらが跳ねる。

「ご、ごめんね? いやだった?」

「……イきたくてもイけなくてすげー嫌だった」

「……すみません」

 心底申し訳なさそうな声がオレの胸に響く。

「なあ。イかせてくれ。あんたの中で気持ちよくなりてぇ」

 熱っぽく籠った声で囁くと、びくっとオレの下で身体が震える。オレは尚更下半身を強く擦り付けた。

「……わたし、も、獅子神さんと気持ちよく、なりたい、です」

 その言葉に安堵して、オレは上体を起こした。

 乱れたドレスの裾が太腿までずりあがり、黒ストッキングで覆われていた白い太腿が露わになっている。その肌を汚しているのはオレの先走りだ。その奥へ這入るべく、オレは裾に引っ掛けた親指を押し上げた。

 黒いレースのショーツを引き下げると、たっぷりと濡れたクロッチが重い。下着を広げて見せつけると、ナマエは取り返そうと腕を伸ばす。もちろん返すはずがない。

「オレのこと虐めながら濡らしてたのか?」

「……ッ、いじめてないです」

「一個訂正しとくとな」

「ひゃっ──」

 ショーツをベストのポケットにしまい、ドレスの中に顔を突っ込んで蒸れた叢を鼻先で掻き分け、舌を這わせた。腰を引こうとするので、太腿に腕を絡めてがっちりと固定してやる。もう逃さねえ。

「あんたに責められるの、めちゃくちゃ良かったよ。だから──お返し、してやるからな」

 息を呑む音が聞こえた。

 頼むから後悔しないでくれ。お返しの仕返しをしてくれ。オレをもっともっと求めてくれ。欲深いオレは、この獅子神敬一は、あんたに何でもしたいし、あんたに何でもされたいんだ。

//////////

「あ゙っ、は♡ あ♡ あ♡ あ♡ いくいくいくいくッ♡ いっちゃッ♡♡♡♡」

 一本まるごとぶち込んだらしいローションは、とっくに冷えていた。なんというか、繊細に見えていろいろ雑なんだよな、こいつ。凝った料理も苦手だし。そこがかわいいんだけど。風呂桶いっぱいのそれにナマエのストッキングを浸してクリトリスを擦ってやる。腰をへこへこと動かしながら時折りびくんびくんと身体を()ねさせる。きっと、さっきのオレもこんな感じだったのだろう。

 後ろ手で拘束した腕が圧迫されないように、オレは胡座(あぐら)を組んでその上にナマエの腰を載せた。ローションと愛液でスラックスはぐちょぐちょだが、せっかく着てほしいとねだってくれたのだ。最後まで脱ぎたくない。

「な、わかるだろ? めちゃくちゃ気持ちいいよな、これ」

「やっ♡ あっ♡ やら、あ♡ あ♡」

「あー、えろい。やっぱあんたがするべきだよ、こういうの」

「あ♡ あ♡ あ〰︎〰︎〰︎〰︎ッ♡♡♡♡」

「お、イけんのすげぇな」

 一頻り絶頂したナマエは死んだようにぐったりと脱力した。せっかくの化粧が汗と涙で溶けている。目隠しもお揃いにしたかったが、オレは顔が見えてる方がいい。

「けぇ、ち、さ……も、むり……」

 ぐちゃぐちゃになった顔でオレに助けを求める。ドレスは背中のジッパーを下ろせていないし、ブラジャーもつけたままでは苦しいだろう。おまけに腰を上げさせたままなので、頭に血が昇っているのかもしれない。いつもより顔が真っ赤に見えた。

 ナマエを抱き起こして、デスクの天板に上体を伏せさせる。ジッパーを腰まで下ろし、ブラのホックを外してやった。脱がせてやりたくても、拘束のせいで肘に引っかかってしまう。

 いつかの(おり)にできなかった、この部屋のこのデスクを使った後背位。ツヤのある天板にぎゅうと潰れた乳房が、細い背中からはみ出ているのがえろすぎる。拘束された両手に、下から(まく)り上げられたスカート部分を握らせた。真っ白な尻たぶを両手で掴んで広げる。アナルまで愛液たっぷりに濡れ、てらてらと光っている。

「すげ、ケツの穴まで丸見え」

「ぅ、あ゙ッ」

 ナマエがばたばたと後ろに蹴り上げるが、生憎(あいにく)当たらない。

「悪い悪い。挿れてやろうな」

「ちがぁ、まっ──」

 ふやふやのヴァギナは、いとも簡単にペニスを飲み込む。びくびくと痙攣する膣内をピストンすると、肺から漏れる吐息は嬌声に変わった。ずるぅうううと入口近くまで引き抜いてから勢いよく最奥まで押し込むと、ぢゅぷんと下品な水音を立てて膣内がきゅうんと締まった。その音がクセになり、何度もばちゅんばちゅんと長いストロークを繰り返した。

「ぁ──ッ♡ はぅ♡ あっ♡ あっ♡ あ、んっ♡」

「ドレス、すげー似合ってる。きれいだ。髪もメイクもめちゃくちゃ可愛い。独り占めにしたかった」

「んぅッ♡♡♡♡」

 ちゃんと言えていなかった褒め言葉を囁くと、一層悦びを増して声が大きくなった。

「そういえば、聞いたよな? 『わたしとするよりも良かったですか?』って。ふざけんなよ。んなわけねぇだろ。あんたんナカが──」

 どちゅん、と強く腰を打ちつける。

「いちばん──」

 刻み込むように。叩き込むように。スキンなんか貫通して子宮に注ぎ込んでしまえと思うほどに。

「イイに決まってるんだろッ──!」

 オレは睾丸が空になったと思うほど、大量の精子を吐き出した。

 手錠を解いても、ナマエはドレスの裾を握り締めたまま、気をやっていた。ドレスを脱がせて全裸にしても起きる気配がない。

 またやっちまった。どれだけスパダリを演じても、オレはオレの欲情を優先させる。ナマエを気絶させてしまった日は、ひどく自己嫌悪に陥る。それがわかっていて止められないのだから、本当にオレはどうしようもねえケダモノだ。

 ナマエをベッドに運んで、その小さい身体に覆い被さる。オレの身体にすっぽりと収めて、まるで檻のようにえ手足で囲う。あーもう、こんなに小せぇのにまた無理させた。オレってやつは。すんと鼻をすすった。

「んぁ、泣いて、ます……?」

 うめき声のような問いかけに、なんて答えたら良いか迷っている内に、ナマエはもぞもぞと動き出した。泣いている顔を見られたくなくて、胸筋を寝起きの顔に押し付けることで黙らせた。

「ちょっと、おっぱい退けてください」

「おっぱいじゃねーって」

「わたし、大丈夫ですから。ね? お水飲みたいです」

「……オレも。なんかきょうは疲れちまった」

 シーツに顔を擦り付け、拭ってからオレは身体を起こした。

 オレのスウェットを着たナマエが、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してとぽとぽとグラスに注ぐ。お互いにごくごくと飲み干し、ようやく一息を吐いた。

 長い一日だった。そして、最低な一日だった。

「獅子神さんて、コスプレすると人格変わりますよね」

「きょうのはコスプレじゃねーだろ」

「いつもと違う格好ってことで。えっちなんだあ」

 そう言って笑い飛ばしてくれる。そう思ってくれるんならいいけどよ。優しくして、甘やかして、何でもしてやりてえ。その気持ちは同じはずなのに、付き合いたての頃のナマエを思いやった優しいセックスがなかなかできない。ギャンブラーとして試合で取り繕うのが上手くなればなるほど、ナマエに見せたくないオレを見せている気がする。

「なんつうか、自信喪失してんだ」

 本当はこんなことも言いたくない。こんな弱くて惨めなオレなんて。でも、そんな姿を見て留まってくれるなら、オレはどんな情けない姿だって見せてやるし、利用してやる。

「獅子神さんにも、そんなときがあるんですね」

「そんなんばっかりだよ。あんたの前では優しくて頼れる獅子神さんでいてーのによ」

 オレ色に染めたかった。オレに依存させたかった。嫌でもオレから離れて行かないようにしたかった。

 でもナマエはずっと変わらない。子どものために命を投げ出せる強さと優しさをずっと持っていて、オレに依存なんてしてくれないし、オレを嫌いになんてならないし、オレから離れて行こうとしない。オレを利用してくれたらいいのに、そうすれば利害関係で囲えるのに、そうなってくれない。見当違いな勘違いをして、その上オレに「うん」と頷かせる。その強引さは不快どころか心地よかった。

「……ずっと、満たされねえのが怖ぇんだ」

 ナマエの手が伸びてきたので、頭を傾ける。よしよしと頭を撫でられるのが気持ちよくて、嬉しくて、幸せで、でも満たされない。惨めなオレは惨めなままだ。

「子どものころから、オレは底の抜けたバケツみたいでさ。あんたといると満たされてるはずなのに、全然そう思えねえんだ」

 あ。オレいまひでぇこと言ってる。ナマエじゃオレを幸せにできねえって、オレのバケツを満たせねえって。けどナマエは怒りもしねえ。ううん、と首を傾げて悩んでいる。

「たぶん、コップが違うと思うんですよ」

 ミネラルウォーターをこぷこぷとグラスに注ぎながら、ナマエが言う。

「獅子神さんは、きっとものすごく頑張って、自分のコップを満たしていったんですけど。子どものときのコップが空いたままだから、だから満たされてないって思うのかも。

 わたしもそう。

 獅子神さんが、溢れるくらい注いでくれるから。ちっぽけなわたしのコップはいつも満杯なんです。でも、小さい頃に満たされなかったコップはカラカラで──それは仕方がないんですよ。

 注ぐ(うつわ)が違うんです。

 子どものコップは、きっと子どものときにしか満たせなくて──大人のわたしたちは、大人の、目の前のコップを満たすことしかできないんですよ」

「獅子神さんは、昔の自分も満たしてあげたいんですよね。それは、すごく難しいと思います」

 ナマエはその場凌ぎの優しいウソは吐かない。ちょうどいい言葉も、目から鱗の落ちる解決方法も。ただ一生懸命言葉を紡いでオレに向き合う。

「でも、目の前のコップが満たされるのを、後ろめたく思う必要は、ないんじゃないかな。違うコップだけど、〝敬一くん〟に渡してもいいし、飲ませてあげてもいいし、まだ空っぽだねえ、どうしようか、って一緒に悩んでもいいんじゃないかな──ううん。難しいですね」

 ナマエが溢れそうなコップをオレに差し出す。隣の芝は青いというが、ナマエの水は美味そうに見える。

「それに、ね? 獅子神さんはかっこいいけど、かっこいいだけが獅子神さんじゃないっていうのは、本当ですよ。だから、先輩にもなるし、女王さまにもなりますから」

 女王さまって。ご主人さまより上位種がきたな。

「じゃあ──」

 ──オレの□□□になってくれ。

 咄嗟に出かかった言葉を飲み込んだ。満たされたグラスに手を伸ばし、冷たい水で喉の奥へ流し込む。出てくるな。そんな願い。そんな夢。

 だから、オレは代わりに言う。とんでもなくガキっぽい、子どもの願いを。小さくて惨めで可哀想なオレの代わりに。

「絵本、読んでくれ。今度出すんだろ? 一番に読ませてくれ」

「え。もう佐倉さんに完成原稿渡しちゃ──つくる! 作る作る! 獅子神さんが主人公の絵本作るから! 『ライオンけいくんのゆかいなぼうけん』! 天堂さんたちも登場させましょう」

「それはやめてくれ。マジで」

 あんたと□□□になりたい。その願いが叶う日が来たら。口に出してナマエに伝える日が来たら。そしたらオレは、過去の自分に満ちたグラスを渡せるだろうか。やはり足りない、足りない、と(わめ)いているのだろうか。

 だが、すくなくとも。

 オレは底の抜けたバケツなんかじゃなく。もう満たされたグラスを一つは持っていたのだと、ようやく気づくことができた。